この言葉は、元々「国を愛する熱情から行われる蛮行に罪はない」を意味する中国語であったが、現在ではもっぱら反日デモのときに使われているようである。しかし私は、中国滞在中に反日デモに参加した学生運動活動家に一度も会ったことがない。日本語科にはそのような学生がいないが、たとえば、経済学部とか政治学部のような他学部には反日的な学生がいるはずだが、そのような学生と会って話し合う機会も殆ど無かった。
ところが、旅行中に一度こんなことがあった。教え子と一緒に列車に乗っていたときのことだった。私の前に中国人の大学生が座っている。文系の学部生らしい彼は、私が日本人教師であることに興味を抱いたようで、話が弾んだ。夜汽車だから時間はたっぷりあったし、日本語科の学生が側にいて通訳をしてくれるので、思う存分ザックバランな話し合いができたのだ。そのうちに、話題が政治問題にも及び、小泉首相の靖国神社参拝について話した。
「小泉首相の本心は」と、私がいった。「中国への侵略戦争を是認するのが目的ではなくて、戦死した英霊に祈りをささげ感謝の気持ちを伝えたいからです」
しかし、学生は同意しない。わたしは、こうもいった。
「たとえば、南宋末の救国の英雄文天祥を君たちは尊敬しているだろう。毛沢東の共産主義革命で斃れた赤軍の兵士たちにも君たちは感謝と哀悼の気持ち持っているはずです。日本でも同じなんだよ。靖国神社に祭られているのは、明治維新という近代国家成立時やその後の戦争で国家のために死んだ英霊がほとんどで、戦争犯罪人はたった7人にすぎない」
救国の英霊への感謝の気持を持つことには異存がないが、中国侵略を実行した戦争犯罪人がいる限り、靖国神社参拝は容認できない。これが学生の譲れないところのようだ。
わたしは、反日デモの『愛国無罪』について意見を訊いてみた。学生は、デモ隊の一部が日本のレストランに投石したり、会社敷地内で乱暴狼藉をはたらいたのは良くないと、良識ある考えをいった。
私はもう一歩踏み込んでみた。
「日本を憎む心情から反日デモをして『愛国無罪』を主張するのは、いいとしよう。しかしね、愛国を言うのなら、君たち学生には愛国の熱情を発揮しなければならないもっと大事な、本当の相手が別にあるんじゃないの? 人民の言論の自由を認めず、民主主義を許さず、そのうえ汚職まみれの相手に対して・・・・・・」
学生はふいに暗い窓の外へ顔を向けた。車窓に映る彼の目にはとまどいが現れているのが見てとれた。わたしは言ってしまった。
「二十年も前の学生は、その相手と戦おうとしたんじゃないかな? 例の天安門前で」
教え子が「天安門」と中国語でいいかけた私の脇腹に肘を押しつけた。
――先生そんなことまで、ここで話すのはまずいですよ!
と、言いたいのだろう。学生の横に座っているのは若い女性で眠っているようだった。通路の向こうの乗客たちが、こちらの話に聞き耳を立てている様子もなかった。
確かに私の言ったことは、中国人学生に対しては、かなり意地の悪い質問だったろう。ここで、会話が途切れてしまった。そのうちに、私の教え子が舟を漕ぎ出して、私の肩に頭を傾けてきた。わたしは目を瞑って眠ろうとしたが、まだ寝付けない。
先年に観た、村上春樹原作『ノルウェイの森』を思いだした。小説の良さが映画では十分に表現されていない不満があったが、あるシーンが印象に残った。早大で講義中に学生運動家が講師の前に出てきて、「残りの時間は、学生の自由討議に使いたいので、授業を止めてください!」といった。すると講師は不満ながら授業を切り上げて退出した。
○あの頃、大学ではベトナム戦争反対など学園紛争が吹き荒れていて、授業を放棄して抗議集会を開いたり、デモに参加したことを、私は懐かしく思い出す。当時の学生は、エリート意識があって、学生とは天下国家を論ずる者という自意識過剰なところがあった。やたらに青臭い理論を振り回して侃々諤々の議論に明け暮れていたものだ。そんな議論には生活臭がまるでない、地に足のついていないものではあったが、「オレはこう考える」という強い主張を皆それぞれが持っていた。
私が会社に就職した翌年の1969年に、学園紛争はクライマックスに達した。ついに東大をはじめ早稲田などには機動隊が入り、学内のバリケードが破壊されて、学生運動は鎮圧されてしまった。京都にある我が母校でも同じような状況にあったが、会社員の私はそれをテレビで傍観していたのだ。
その年の夏であったろうか、仕事で母校の薬学部の教授を訪問した。そのついでに大学で共に学生運動をしていた友人Aに会った。優秀な彼は院生になっており、一方、私の方は、大学院進学を諦めて、指導教授の薦めで会社に就職していたのだ。
わたしが、会社の仕事ぶりを話したら、Aはいきなりこういった。
「森野、お前、ヒヨッタな!」
それは、当時の学生用語で『日和見主義者に成り下がった』という、最も侮蔑的な表現だったのだ。
「何を言う」と、私は怒った。「お前などに、会社のことが分かってたまるか!」
が、わたしは、負け犬が尻尾を巻いて逃げるように、早々に立ち去った。
今にして思えば、私は当時、反体制的学生の雰囲気の中では仲間と同じ行動をとり、会社にはいると、古い外套を脱ぎ捨てるように、新たな環境に染まっていったのだろう。そこに、確固とした政治的信念などはなく、友人Aが指摘するように、私は『日和見主義者』に過ぎなかったのだ。
そんな私が、目の前の学生に、偉そうなことをいう資格などあろうはずがない。天安門事件の後、政府の締め付けが厳しく、若者は徹底した愛国教育を受けている。そして、厳しい受験地獄の中を生き抜くことで精一杯だった中国の学生にしてみれば、その不満のはけ口には、反日デモしか無いのかもしれない。
(追記:劉氏はその後、獄中で癌を患った。そして、十分な治療をうけることもなく、亡くなった。国際社会は中国政府を批判したが、共産主義国とはこんなものなのだろう<2018年3月記す>)
実は、この車中で学生と話していたときには知らなかったのだが、2008年に人権活動家の劉暁波氏を中心とする人々が、『08憲章』と呼ばれる、政府に民主化や人権保護などを求める宣言をインターネットで公開していた。政府の監視機関によって直ちに削除されたらしいが。劉氏が国家政権転覆扇動罪で服役中の2010年に、ノーベル平和賞を受賞したことを、私は日本の報道で知った。
『08憲章』が出た頃に、私は江西師範大学に赴任中であったが、日本語科の学生は『08憲章』を知らなかったであろう。あるいは、うすうす知っていたとしても、そのようなことには無関心で私には話さなかったのだろう。このように、日本語科の中だけで生活している私は、『政治的無風地帯』にいるようなものであった。