日本の中学・高校にはクラス委員長がいた。小学校の事はもう忘れたが、大学にはこのような役職は無かったように記憶している。それに代わる組織として学生自治会があった。私の所属する薬学部では民青が占めていたし、経済学部などではもっと過激なグループが主導権を握っていた。しかし、これらは政治色が強いので、日常の授業とは無関係だった。
ところが、中国の大学では日本のクラス委員長に当たる『班長』がかなり重要な役割を演じているように見えた。クラスを掌握し、学内の諸活動にも参加している。また私とクラスとのパイプ役も班長の仕事であった。私が在籍した5大学で見た班長の人物像をここで概観してみたい。
最初の赴任地西安市の長安大学日本語科の1年生には王玉班長がいた。彼女は人柄のいい娘で、西安に赴任したての私の面倒をよく見てくれた。しかし、彼女は1年生後半から学業成績が振るわなくなっていた。そして、2年生になってしばらくして劉席江君と班長を替わった。それ以来王の学業成績が向上したので、彼女には班長の役職がやはり負担になっていたように思う。新班長の劉君はとりたててハンサムボーイではなかったのに、多くの女学生から支持を得ていたのだから、彼の人柄が買われていたのは間違いない。純朴な劉君はクラスのまとめ役を誠実に果たしていた。
無錫職業技術学院で、私が教えた二年生には周蓮班長がいた。彼女は長身で男性みたいな声の女傑タイプだった。彼女の命令なら男子学生も素直に従わざるを得ないだろう。私と学生のパイプ役をしてくれて、一番信頼の置ける学生のはずなのに、私の教えている科目のテストで率先してカンニングをやっていたことを後で知って、私はショックをうけた。が、彼女にしてみれば、
――そんなことぐらいでオタオタしているようでは、先生、小さいちいさい!
と、カンラカラカラと笑い飛ばすことだろう。無錫の学校では彼女を押しのけて班長になろうとするような度胸のある学生はまずいない。
南昌市の江西師範大学では、まず、最初に教えた学年の班長は4年間で5人もの女学生が変わった。仲間のことを考えないような個人主義の学生は班長になろうとしないだろうし、班長になっても仲間のことを気遣うことが煩わしい、クラス外の活動に参加しなければならない、自分の勉強の妨げにもなる、と思うようでは班長が長続きするものではない。結局一年で辞めてしまうのだろう。
一学年下には陳亜雪班長がいた。この女学生は1年生から卒業するまで4年間、班長を続けた稀な例である。私は中国語の家庭教師として陳と普通話が得意な黄誉婷の二人の女学生を雇った。二人は毎週我が宿舎に来たし、ときどき旅行もした。黄とは違って、陳にはしばしば携帯に電話がかかってきた。旅の途中に部屋で寛いでいるときにも、話の腰を折るように学友からの電話がかかってくるので、私は「いい加減にしてくれ!」と怒鳴りたくなるほどであった。班長の仕事が如何に多忙であるかが分かるというものだ。彼女は、学友の面倒見がいい、それだけ学友からも信頼されている、多忙にもかかわらず学業成績が抜群に良好、その上、スピーチコンテストでは優秀な成績を挙げているのだ。スゴイ班長だと思う。しかも、クリスマス演芸会の寸劇では、抜け目なく主役に収まって、シンデレラを可愛く演じていた。
ちなみに、黄は『団支書』という肩書きを持っていた。中国共産党青年団(のようなもの)の支部組織のクラス代表で、3年生終了時には陳と共にれっきとした“共産党員”になった。そう聞くと恐ろしくなってこちらとしては身構えたくなるが、二人はノンポリの普通の可愛い女の子にすぎない。
「将来、政府系の企業・団体に就職したり、公務員になるときには、共産党員であることが有利です」
と黄が言っている。各大学の班長も皆共産党員になるのだろうが、思想とは無関係の利点があるのだ。
上海理工大学では、私は一年しか在籍していなかったが、班長は2、3年生共に女学生だった。
ところが、昆明の滇池学院の班長は、各学年殆どが男子学生である。これは、雲南省の伝統と関係があるのかもしれない。
どこの大学にも、班長を助けて授業の世話をする学習委員がいる。滇池学院では班長と学習委員がうまく協力し合うとクラス活動が活性化する例を2年生で見た。1班の莫班長と劉学習委員は明るくて学業成績も優秀なのに対して、2班の班長は大人しいだけが取り柄で、学習委員はクラスのことなど全く無関心な女学生だった。『日本語コーナー』への呼びかけに対して、1班の班長と学習委員が率先して参加するので、参加する学生数は1班の方が圧倒的に多かったのだ。このようにクラスの活性度に班長と学習委員の役割が大きい、と私は感じた。
以上、各大学の班長の横顔を紹介した。日本人教師が班長とどのような関係を持ち、協力してもらうかは、授業をしていく上で大切だと私は思う。