5 湖 南
■石山寺
石山寺の由来は、その本堂が珪灰石という巨大な岩盤の上に建っていることによる。
石山寺が都から比較的近いこともあって、「石山詣で」が平安貴族の間に流行した。ここを訪れた女流文学者が多い。
紫式部は、瀬田川にきらめく月光の様から光源氏をイメージして、源氏物語の構想を練ったと伝えられている(右はそれを描いた歌川広重の浮世絵)。
他に「和泉式部日記」、「蜻蛉日記」(藤原道綱の母)「更級日記」(菅原孝標女)、「枕草子」(清少納言)などの文学作品にも石山寺が登場する。
■瀬田の唐橋
唐橋は明治期に至るまで瀬田川に架かる唯一の橋であり、古来より「唐橋を制する者は天下を制す」と言われるほど、軍事・交通の要衝であった。
<京と東国を結ぶ唐橋で歴史的に重要な戦いが繰り広げられた>
✔壬申の乱(671年):亡き天智天皇の「大友皇子」側は橋板を外して、叔父の大海人皇子(後の天武天皇)を待ち受けたが突破され、近江朝廷軍が大敗した。
✔寿永の乱(1185年):木曽義仲軍は橋板を外して、源範頼・義経軍に防戦したが敗れた。
✔承久の乱(1221年):後鳥羽上皇が鎌倉幕府側の北条義時に対して討伐の兵を挙げ、橋板を外す作戦で幕府軍と対峙。おりしも大雨で両軍が瀬田川を挟んで睨み合いがつづいたが、勇猛果敢な佐々木信綱が渡河してきたため朝廷側は敗走して、幕府軍が勝利した。
俵籐太のムカデ退治伝説
瀬田の唐橋は、その他多くの合戦の舞台として登場するが、最後に唐橋にまつわる「ムカデ伝説」を紹介して、この項をしめくくる。
平安時代、近江富士とも呼ばれる野洲市の「三上山」を七巻半もする巨大なムカデが出現し、琵琶湖の竜神一族を苦しめた。俵藤太(藤原秀郷)という武将が、唐橋からこのムカデに弓矢を射て見事に退治したという「ムカデ退治」の伝説がある。
■琵琶湖の水は吉か凶か
■水との戦い その一~治水の先覚者藤本太郎兵衛
人々を悩まし続けた「水込み」
琵琶湖に流れ込む川は、一級河川だけでも118本もあるのに対して、琵琶湖から流れ出る自然河川は瀬田川が唯一となります。現在は、南郷の洗堰(あらいぜき)によって水位と水量が管理されていますが、かつての瀬田川は川幅が狭く、山からの土砂が流れ込んで川底に溜るなど、流出する水量は少なく不安定なものでした。また、琵琶湖の洪水は、河川の洪水とは異なり、その面積の広さから水位上昇、低下ともに時間がかかるため、ひとたび大雨が降ると行き場を失った水が琵琶湖に滞留し、湖面の上昇によって沿岸が浸水する「水込み」と呼ばれる水害に悩まされてきました(湖水面が+3.7mも上昇して、田畑家屋の浸水日数が237日に及ぶ記録もある)。
周辺200か村の悲願!! 私費を投じ三代にわたった偉業
江戸時代以降、この水害をなくすために瀬田川の川底を浚さらい(浚渫、しゅんせつ)、流出水量を拡大する治水工事の実施が、琵琶湖周辺の村々から嘆願されました。しかし、浚渫による下流域での洪水を心配した江戸幕府が着手することはありませんでした。そんな琵琶湖治水という大きな難題に、高島郡深溝村(現新旭町深溝)の庄屋であった藤本太郎兵衛が立ち上がりました。初代太郎兵衛(直重)は、瀬田川の土砂は自普請(農民自らが費用を出し合って行う工事)による浚渫の必要性があると湖岸の村々に説き、177か村の賛同を得て、天明4年(1784年)に工事を始めることができました。しかし、充分な効果を挙げることはできず、二代目太郎兵衛(重勝)による老中 松平定信 への直訴や瀬田川下流の村々への説得が続けられます。
そして初代太郎兵衛から満50年目の天保2年(1831年)、三代目太郎兵衛(清勝)の時に幕府から許可をとりつけ、瀬田川の全長14㎞、出役31万人、工事費7654両(約2億5000万円)におよぶ治水工事が竣工されました。この浚渫は、琵琶湖周辺200か村の悲願を達成させる大工事となり、「天保の御救大浚え(おすくいおおざらえ)」と呼ばれ、今もなお語り継がれています。
【森野付記】当時、瀬田川付近を支配していたのは膳所藩6万石の本多家であったが、浅瀬である瀬田川を歩いて渡れる地点として、大橋が敵に落とされた場合に備える軍事上の秘密場所であった。官僚機構の怠慢と軍事機密による民衆生活の破壊は、現在に繋がるものがある、と批判している論客もいる。江戸時代の<義民伝説>としては、下総国の庄屋佐倉惣五郎がよく知られているが、実在しており史実としても確かな藤本太郎兵衛は滋賀県人が誇るべき偉人である。
■水との戦い その二~南郷洗堰(日本の現代治水事業)
琵琶湖から流れ出る唯一の天然河川である瀬田川の水を堰き止め、利水および治水に供する目的で建設された堰(可動堰)である。明治に作られた旧洗堰は「南郷洗堰」と呼ばれる。
琵琶湖から流れ出る水は、瀬田川、宇治川、淀川と名前を変えて大阪湾に至る。瀬田川は、古くから東西交通の要衝でもあり、京都、大阪の利水と水運を担う、いわば「近畿地方のライフライン」のような存在だった。
しかし、瀬田川は水はけの悪さから、大雨が降ると行き場を失った水が琵琶湖に滞留し、湖水面の上昇で沿岸が浸水するなど、近江の国の人々は「水込み」と呼ばれる浸水被害に悩まされていた。その対策として江戸時代に瀬田川の浚渫工事に献身した藤本太郎兵衛三代のことは既に紹介した。
瀬田川の流量を増すことは、下流の淀川の洪水を引き起こすことにもなるために、上流民と下流民の対立が続き、明治時代まで抜本的解決にいたらなかった。
そこで、琵琶湖の水害と下流域の水害を同時に軽減する狙いで、近代的な治水技術を駆使した<南郷洗堰>の建設が始まった。南郷洗堰は、明治38年(1905年)に完成し、滋賀県だけでなく、宇治川、淀川流域にあった京都府、大阪府の治水利水事業に大きな影響を与えたといわれている。
この上流と下流の水の流れを調節する「洗堰」の機能をやさしく解説したインターネットの報告があるので主要部分を要約して紹介する。
著者:瀧 健太郎(滋賀県立大学准教授 2018年8月現在)
宇治川(瀬田川の下流)、木津川、桂川の三川(図左上を参照)が合流して淀川となるあたりは雨が降ったらすぐに水位が上がる。一方、琵琶湖は巨大なダムのようなものだから、水位は時間をかけてゆっくり上昇する(琵琶湖の水位のピークは下流と較べて約1日遅れる<図右上を参照)>)。
大雨が降ると、この三川が合流している地点の水位が上昇し始める。
これ上増えると淀川があふれ出る危険があるので、琵琶湖から流れ出る水を洗堰で止めて、淀川に流入する川が主に木津川と桂川だけとする。琵琶湖は保水容量が大きくて、水位がなかなか上がらないので、この戦略はとても有効である。
淀川の水位が低下したころに、琵琶湖の水位が高くなっているので、琵琶湖の出口にあたる瀬田川の洗堰をオープンして再び川に流す。こうして、琵琶湖の水位も下がることになる。このようにバレーボールの「時間差攻撃」のような手段として「洗堰」が調節弁の役割を担っているわけである。
なお、琵琶湖の水位は、通常マイナス20cmに保って、大雨の増水に備えている。しかし、この方法は水量が多いときに湖岸の芦や葦に産卵する魚にとっては、低水位になると湖岸が干上がって卵が死滅するという禍ともなっているようである。瀬田の洗堰は、人にとっては幸いであるが、琵琶湖の生物にとっては不幸となる矛盾を孕んでいるのだ。
■水との戦い その三~琵琶湖疎水~
この計画の背景には、京都市が明治維新と東京遷都に伴い、人口が減少して産業も衰退していた事情があった。そこで京都府知事の北垣国道が、灌漑、上水道、水運を目的とした琵琶湖疏水を計画して、京都を復興させたいと考えた。そして、工部大学校(現在の東京大学工学部)で琵琶湖疎水に関する優れた卒論を書いた21歳の田邉朔郎(右写真)を主任技術者に任じ、設計監督にあたらせた。
この工事は、逢坂山をくりぬく難工事で、殉死者が17名もでたが、1890年に完成し、水運、利水に加え、日本初の水力発電所を蹴上に設けた総合開発事業であった。
これによって逢坂山を越える旧東海道ルートの他に水運を利用する手段ができただけでなく、日本初となる蹴上の発電所が供給する電力で京都の市電の運行にも寄与した。
しかし、大津京都間に鉄道が敷設されてからは、逢坂山越えの陸運と同様に琵琶湖疎水の水運の役目を終えた。現在、疎水は遊覧船観光が注目されている。
疎水は先に紹介した「小関峠」の直下をトンネルで貫通し、山科側で地表に現れ、疎水べりに植えられた、春のサクラ、秋のモミジが美しい。
(了)
つぎーー>