私が住む専家楼には、東南アジア、中近東、アフリカなどからの留学生が寄宿していた。そして、日本から唯一の語学留学生として羽田野という70歳半ばの元気そうな老人と、私はすぐに知り合いになった。しかし、彼は1年間の留学生活を終え、翌月には帰国するという。ついては、と彼がいった。
「劉彤(トン)という西安音楽院の琵琶演奏科にいる三年生の女学生に、半年前から日本語会話を教えています。私は間もなく帰国するので、森野さん、私の後を継いで日本語を教えてやってくれませんか? なんなら、彼女から中国語会話を習ったらいい。トントンは音楽大学の学生だけあって言語感覚がするどくて、とても美しい中国語を話します。互いに中国語と日本語を教え合ったら、あなたにとってもトントンにとっても、いいんじゃないかな」
中国では愛称として名前を繰り返して呼ぶ習慣があるらしい、上野動物園のバンダをランラン、カンカンと呼んでいたように。西安に赴任して、トントンというシルクロードの玄関口長安の都のイメージにふさわしい琵琶奏者の女学生と巡り会うことになる。彼女はどのような人だろうか、と私は興味があった。
その数日後の夕方、食堂へ行くために専家楼を出たところで、羽田野さんに出会った。
「今トントンと別れたばかりです。あそこを歩いている娘がそうです。近いうちに紹介しましょう」
専家楼の周りの樹々の葉はまばらとなって冬の装いを始めている。西空の雲間から漏れ出る夕陽が小さな池の表面をうっすらと赤色に染めていたが、今はあたりに夜の気配が濃厚に漂いはじめていた。
羽田野さんが先ほど指差した先に、女性のシルエットが浮かびあがっていた。トントンなのだろうか。その柳腰の姿を眺めていると、まるであの敦煌莫高窟の琵琶をかかえた飛天がここ長安の都に舞い降りてきたかのような錯覚に陥る。こうして日本語教師として西安にやって来た私には、ここでの生活が出だしからとても夢多きものになる予感があった。
劉とは週に2回我が宿舎で、勉強会をすることになった。毎回、日本語と中国語を1時間ずつ教え合った。その後、私が西安を去り、同時に彼女が音大を卒業するまでの二年間、勉強会がつづいた。ちょっと小柄でファッション感覚のある美女との交流は、大学での教職の仕事とは離れたところで私の西安生活に潤いを与えてくれた。
彼女は、観光旅行のガイド役も引き受けてくれた。九寨溝・黄龍、諸葛孔明が陣没した五丈原、太公望の魚釣台、洛陽の竜門石窟寺院、黄河の名所三門峡、平遙古城へと彼女が連れて行ってくれた。多くの場合彼女との二人旅であったが、彼女は私を親戚のおじさんか祖父のように見ているようだ。一方私の方は、謹厳実直なサラリーマン時代とは違って、青春時代に戻ったような気分で旅行を楽しんだ。
彼女には西安で恋人はいないようだが、旅の先々で彼女が過去に付き合ったことのある若者があらわれた。あるときは、町の料理店へ夕食に誘ってくれたり、ある時は町の観光案内をしてくれたり、またある時には彼女に花束を持ってホテルに現れる男もいた。しかし、劉は男への要求基準が高いらしくて、彼らと結婚する意思はないようである。
私は旅の詳細を写真付きの旅行記として、日本にいる家内に知らせた。妻の女友だちからは、
「異国の空の下で、亭主に若い娘との二人旅をさせているなんて信じられない。私だったらそんな勝手は絶対に許さない!」
と非難ごうごうだという。日本で、娘夫婦と孫の世話で楽しく生活している家内にしてみれば、異国で単身赴任という孤独な生活をさせている亭主には、“それぐらいの気分転換は許そう”という寛い気持でいてくれたのだろう。有り難いことである。
父娘同然の親しさが深まるにつれて、性格がむき出しに出てきて互いに我が儘になることは自然のなりゆきであろう。彼女は芸術家肌の奔放な性格が露わになり、旅行中にときに私を戸惑わせることがあった。ちょっと可愛い小悪魔といった感じでもある。
あるホテルに泊まって、朝チェックアウトしたときのことである。フロントから部屋の備品を盗んだと疑われて激怒した彼女は、ロビーに響き渡るような大声でデスク員に食ってかかって、私を驚かせた。激したら抑制が利かない性格のようである。旅のつれづれに垣間見る彼女のそんな性格を家内にぼやくと、
「あなたのような老人に親切にしてくれた上に、二人旅までしてくれるなんて感謝しなければ。ちょっとぐらいの彼女の我が儘は我慢がまん」
と、たしなめられた。たしかにそうだ。これまでに出会った女性の中で、これほど個性的で魅力のある娘はいなかった。
西安を去ってからは、彼女と1、2度会っただけである。西安にいた二年間の互いの勉強で、彼女の日本語会話はめきめきと上達した。しかし、日本語科の出身でないので、手紙が書けない。年賀のメールを出しても、彼女の返事は、“Long time no see.” だけであった。
他校に移ってからも、私は中国語の家庭教師を教え子の中から選んで雇った。中国の大学日本語科では女学生が圧倒的に多いので、優秀な学生2人を選ぶとなると、女学生になってしまう。それは、また私の望むところでもある。彼女たちは、劉彤のような強烈な個性を放つ娘ではなかったが、みな真面目で学習意欲が高かった。だから、中国語の家庭教師を雇ったつもりなのに、私の中国語の上達は遅々として進まないうちに、彼女たちの日本語会話力は、他の教え子より格段に進歩した。そして、皆、スピーチコンテストの大会で好成績をあげている。まあ、これも日本語教師としての喜びである。
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