長安大学で1年前に初々しい新入生だった学生は、いま2年生になり、日常会話なら私とある程度できるまでに成長していた。その彼らにいよいよ作文の指導をすることになった。中国の大学では、作文授業は、半期ずつ計1年間おこなうことになっている。この1年間の授業を第Ⅰ期と第Ⅱ期に分けると、第Ⅰ期を2年生の前半から開始するのは早すぎるようにも思えるが、この大学ではまだ2年生しかいないのだから仕方がない。
●日本語科の教育活動と日本語教師の役割
私は、ここ長安大学で教師をはじめて二年目だが、この後都合八年間も、中国各地の五大学の日本語科で日本語教師をすることになるとは思いもしなかった。
ここでは、その経験から表記の話題について、総まとめのつもりで述べてみたい。まず、下の表でそのまとめを示し、その後で解説することにする。
1.会話授業
長安大学での各科目の授業は、1時限(通常45分 これを1コマという)を10分の休憩をはさんで二時限おこなうのが基本単位である。したがって、会話授業は、一週間に二回すると、45分X4で週3時間おこなうことになる。ここ長安大学と三番目の赴任校、江西師範大学では、この原則が守られていたが、他の3大学では、週に一回(1時間半)しか行われていなかった。中国の大学のカリキュラムは北京政府教育部が決めた日本語専攻大学生用の指導要領に従っているはずだが、会話授業が週一回か、二回かは各大学日本語科の裁量に任されているのだろう。
会話授業が、週一回と二回では、聞き取り能力と発音を含む発話能力に格段の差があることを私は経験的にしっている。日本語科に進学した一年生は、日本語を「あいうえお」の基礎から習いはじめることになる。週二回の場合、一年を過ぎるころには何とか私と会話ができるレベルに達し、二年終了時には日常会話なら自由にできるようになっていた。一方、週一回の授業環境では二年終了時ですら、私とまともに会話できない学生が少なからずいることになる。会話授業を週一回か二回かは、かくも大きな差が生じることになる。
日本語科の会話教育は一、二年時に基礎固めをすることになり、三、四年時には会話能力を発展させる段階になるが、最初の二年間が最も重要であることはいうまでもない。この時期に週一回しか会話の授業がおこなわれていない日本語科の学生は不幸だとすら思った。
もう一つ重要なことは、週二回の会話授業をしていた長安大学と江西師範大学では、二年間の会話授業をすべて日本人教師が指導していたのに、他の大学では、二年のうち一年間は中国人教師が担当していたことだった。中国人教師は会話の指導能力が無いというつもりはない。例えば、日本へ3-5年留学経験があり、日本語にかなり習熟している中国人教師もいるだろう。しかし、現実にはそのような経験もない中国人教師が会話指導をしている場合が一般的であった。これでは、正しい発音の会話指導をすることは難しいだろう。また、学生の方も、会話を日本人教師に指導してもらいたいという願望が強いのだ。
私の日本語教師としての考え方は最初の赴任校「長安大学」での体験が大きな基礎をなしている。会話授業においては、週二回ネイティブスピーカーの日本人教師が担当すべきであるとの信念ゆえ、無錫・上海・昆明の各大学では、週一回の正規の授業に加えて一回自主授業をしてでも、会話授業の週二回を目指した。自主授業をしたところで給料が増えるわけでもなく、余計な負担を自己で背負い込むことになるが、学生が日本語科に進学した以上、しっかりとした会話能力のある日本語話者になって欲しいという願いが私にはあったのだ。もちろん、そのような私の努力と学生の成長がいずれ教務主任にも理解され、週二回の会話授業が制度化されるように願っていた。しかし、そんな期待は、教務主任はもとより大学の管理部門につうじていたとは思えない。会話授業を週二回にし、日本人教師が担当するとなると、一学年40~50人もいる日本語科では日本人をもう一人雇わねばならなくなる。それは人件費増となるし、そもそも中国では制度の改革には消極的であることもあるのだろう。こうして、私の努力は報われることのない自己満足に終わってしまったようだが、学生の中には我が思いを理解してついてきてくれる者もいたはずだ――と思いたい。
2.日本語コーナー
会話授業に関連する「日本語コーナー」について、制度的にやっていたのも長安大学と江西師範大学だけであった。両大学では日本語教師の業務の条件として、契約書に盛り込まれていた。が、「日本語コーナー」への参加は学生の自由意志に任されていた。例えば、江西師範大学では一学年50人程度なので、1、2学年だけで100人もの学生になる。これらが大挙参加するとなると、二人の日本人教師では相手しきれない。自然の成り行きで、腕試しに教師と自由会話をしてみたいという熱意のある学生だけが参加することになる。中国人教師はこのような行事には無関心であるが、たまたま同大学に留学中の日本人が協力してくれることもあった。「日本語コーナー」は通常、大学の校庭や屋外運動場の片隅で夜に開かれていた。なお、上に書いた二大学以外では「日本語コーナー」が制度としてなかった。このようなところにも、日本語教育に熱意のある日本語科とそうでないところの違いあるのだ。私は雲南大学滇池学院では学生に呼びかけて、昼休みに自主的な日本語コーナーを開いた(「昆明編2 昆明に赴任」を参照されたい)。他校の日本人教師も、食堂で昼食や夕食を学生と共にしながらやっている人がいた。また、和歌に素養のある教師は、百人一首のカルタ遊びを課外活動でやっている方もいた。
3.作文授業
私はもともと外国人に日本語の文章作法を教えてみたいと思ったことが日本語教師になるきっかけだったので、作文指導には格別の思い入れがある。だから、会話授業とともに作文授業も日本人教師に任せて欲しいとの思いがつよいのだ。
中国の大学日本語科で作文授業は、4学年の間に1年間(半年X2)あるのが一般的である。ある大学では、この前半期の作文授業を中国人教師が担当している場合があった。中国人教師の指導を受けた学生の添削済みの文章を見たところ、四百字詰原稿用紙ではなくて、横線だけの雑記帳に作文をしており、教師は所々赤ペンで訂正しているだけであった。これでは、段落後の一マス空けや、禁則文字の扱い方がいい加減になって、正しい日本語文章の作法が指導できていない。更に、日中の漢字表記の違い、意味の違い、表現方法の問題など多岐にわたる日本語特有の問題点につき行き届いた指導ができていないように思った。
ただし、現代はパソコンが普及しており、禁則文字の扱いなどはパソコンのワープロ機能が自動的に処理してくれる時代になっている。将来、卒業生が日本の企業に勤務するとき、文章を手書きするようなことは少ないであろう。だから、限られた授業時間内で重点的に作文の指導をするとなると、やはり日本語の文章そのものに集中する方が効率的である。私の日本語教師時代の後半になると、四百字詰原稿用紙に基づく文章作法にはあまりこだわらないようになった。
それより、作文授業では、学生の日本語能力の発展段階などに合わせて、どの時期に作文授業をすべきかが重要となると思う。既述したように、大学日本語科の作文授業は一年間としているのが一般的である。一年生は日本語能力が未熟だから作文は無理である。私は、二年生の後期、あるいは三年生の前期からはじめて遅くとも三年生のうちに終了しておくことが望ましい、と考える。しかし、現実には4年生になってから作文の後半期を教える場合が多いのだ。
4年生の授業は9月からはじめて12月で実質的には終わる。この時期には求職活動や大学院への進学試験の準備時期と重なっており、学生は授業への意欲が低下している。11月になると就職活動で教室には櫛の歯がこぼれたように空席がでてくる。さらに、早ければ12月に就職が内定した学生は、実習という形で会社で働き始めるのだ。これでは、腰を落ち着けてじっくり教え込むような授業はできないのだ。大学当局としては、12月頃からはじまる卒論のための作文と位置付けているのだろう(だから4年生に作文授業をすることはとてもタイムリーな授業であると)。が、後述するように「卒論」そのものが実にいかがわしいものである。
以上、ここまで「会話」(+日本語コーナー)と「作文」の授業について我が考え方を述べてきた。その中で、この両科目では最も得意としている日本人教師が重要な役割を担うべきであると書いてきたが、もしかすると読者の中には、中国の大学日本語科では、日本人教師の方が中国人教師より有能であるかのような誤解をする向きがあるかもしれない。じつは、日本語科の中で、中国人教師が日本人教師にはできない、もっと重要な役割を演じている科目がある。それは、通常「精読授業」と呼ばれ、語彙・文法・文型・読解を教える科目である。中国人教師がこれらを中国語で教えている。
私は、後年70歳になって教師を辞めてから、大連交通大学へ留学生して中国語の授業を受けている。テキストは全て中国語で書かれており、中国人教師が中国語だけで話す直接教授法である。中国語に慣れ親しむためにはこの方法がベストであるが、文法では私には十分な理解ができないことが時にはある。そんなとき、下手な中国語で質問すると、中国人教師が更に難解な中国語で解説するので益々理解できなくなってしまう。後で、日本から持参した日本語で書かれた中国語の文法書を読むと、すらすらと理解できた。日本語科の学生も同様であろう。だから日本語の基礎を教える「精読授業」で中国人教師が中国語で授業するのが最も効率のよい教授法であることに間違いはない。しかも、この「精読授業」は1,2年生に週に8コマ6時間(45分X8)も割かれている日本語科で最も重要な科目であるのだ。日本人が担当する会話や作文の授業は、精読授業の基礎の上に成り立っていると言えるだろう。
なお、日本語科の授業項目には、この他に「日本語購読」「日本文学」「日本社会文化」「商務(ビジネス)日本語」「言語学入門」「日本語能力試験対策」などがある。この一部を私が担当したことがある。「日本語能力試験」(国際交流基金と財団法人日本国際教育支援協会が運営)は日本語科の学生にとって資格を取得するためにとても重要である。この試験では、日系企業に就職するためには「一級」に合格することが必須である。この他に、中国独自の「大学日本語検定試験」があり、学生は8級合格を目指しているようだが、資格試験としての重要度は前者の方が遙かにたかい。
「一級試験」への対策授業を中国人教師が担当しているときのことである。模擬試験の問題の正解が教師にもわからなくて、日本語教師の私に聞いてみなさいということになり、学生が私のところに来た。だが、私にも正解が分からなかった。そんなときには私は笑って、正直に「わたしにも解らない」という。ちょっと逃げ口上になってしまうが、「語彙の四択問題の中には、よほどの日本学の専門家か学者でないと分からない難問が稀にあるのです。そんな問題には、日本人のわたしだって、鉛筆を倒して決めるしかないね。きみは、こんな問題など無視して、もっと基本的な語彙力をつける努力をしたら、試験に合格できるよ」ということにしている(注)。
(注)私が中国の大学に赴任していた8年間の途中まで、「日本語能力試験」は年に一回12月に行われていた。だから、日本語科の学生は三年生になった年の12月に試験を受けることになる。不合格の場合には翌年四年生の12月に再度試験を受けなければならないが、その時には「一級試験合格証」がないまま就職活動もしなければならないので、とても就職に不利だった。しかし、その後7月にも(つまり年に二回)試験が行われるようになったので、三年生の12月に不合格であっても、翌年の7月の試験で合格すれば、4年生になってからの就職活動に間に合わせることができるのだ。
ちなみに、三年生が12月に試験を受けたときの合格率を、大学別に比較すると以下の通りである。
✓長安大学の私の教え子が三年生の12月に受けた「日本語能力試験」で、合格率は50%を越え、その後、後輩が更に合格率をあげたそうである。
✓無錫職業技術学院(三年制短期大学)では、一級試験が義務付けられていなかった。二級試験合格者だけ。私が退職後、一級試験に挑戦する学生が徐々に増えてきたと聞いている。
✓三番目の江西師範大では、悪い年で60%良い年には90%(平均70%)の高い合格率だった。
✓四番目の上海理工大と五番目の雲南大滇池学院では、50%を大きく下回る合格率だった。
こうして見ると、大学の教育体制や教師の能力の良否もさることながら、やはり学生の質の差がかなり関係しているように思われる。
4.スピーチコンテスト出場者の指導
この項については、「南昌編3江鈴杯スピーチコンテスト」で詳述するのので、そちらを参照されたい。
5.卒論の指導
4年後期には『卒論』を書くことになる。しかし、就職の仮採用が決まった学生は会社の実習中で忙しい、まだ職探し中の年生は卒論どころではない。いずれも、卒論にさほど熱心に取り組まず、単位取得のためのやっつけ仕事みたいなものであろう。私は後年3大学で卒論の指導教官をやったが、学生の卒論はオリジナリティがほとんど無く、インターネットなどの記事や評論文の剽窃が多いし、もし学生が独自の文章を書くと、今度は日本語が拙劣なので指導教官が添削に苦労させられることになる。いずれにしろ論文の価値などほとんどないので、卒論発表会を無事終えて単位がとれたら、卒論は大学の倉庫に紙屑同然のように山積みされるだけなのだ。私は、むしろ中国語で卒論を書かせた方がいいと思う(そうすれば日本人教師は関わらずに済む)。しかし、政府教育部が定めたカリキュラムに関わることなので制度変更は容易ではないようだ。
ある大学日本語科では、作文能力、論文作成能力共に欠く学生への救済措置として、日本文の本(一応学術的論文の雰囲気がある本)を中国語に翻訳する(数人の学生が各章を分担して完成)ことで、卒論の代用として認める制度を採っていた。つまり、卒論と翻訳のどちらかを選択させる旨い方法である。何れにしても、日本語の卒論すらかけない者、オリジナリティに欠ける卒論しか書けない者ばかりで、これは、2000年以降中国の大学の学生数の急増(日本語科の増加と学生数の増加も同様)に伴う、学生の質の低下とも関連があるようだ。
●作文授業開始
さて、長安大学に赴任して2年目に、はじめて念願の作文授業を担当することになった。
私の作文授業の手順はこうだ。
【第一回目】――四百字詰原稿用紙(縦書き)に手書きさせ、原稿用紙の基本的書式を教える。例えば、段落の1マス空け(中国語では2マス空け)、句読点や括弧の禁則事項、拗音の2マス書き(1拍【1モーラ】の『きゃ』を1マス中に入れてはいけない)など。
【第二回目】――原稿用紙(横書き)に手書きさせる。縦書きと横書きで、促音便や句読点のマス中の位置が異なることなども注意深く指導する。近年では、日中共に横書きが通常だし、パソコンで文章を作成することが一般化している時代の趨勢に合わせて、3回目からは横書きだけにさせる。
作文を授業中にさせるか、授業時間後にさせるかは議論の分かれるところである。おそらく、中国の日本語科では2013年現在でも前者が主流であろうが、私はパソコンの利点を重視して後者を採った。後者の最大の欠点は、学生仲間どうしで見せ合って類型的作文をしがちであることで、中には書物やインターネット情報をそのまま剽窃するような者も出てくることであるが、そんな手抜き行為は結局本人が損するだけである。
1、2回目には、“テニヲハ”や、文法、用語、表現の誤りが頻発して、学生の作文はまともな日本文になっていないが、回を重ねるうちに、私の添削指導効果がでてきて、一歩一歩成長しているようだ。
第3回目からはパソコンのワープロ機能(ワードソフト)を使って横書きさせた。当時は、Windows2000時代だったが、私は旧バーションのパソコンを元勤めていた会社から数台譲り受けて学生に使わせた。その後、中国でも年々パソコンが普及してきて、日本語科の学生の必需品となっている。
学生の作文は磁気記憶メディアを通じて私のパソコンに文章を取り込み、添削後プリントアウトして、学生にフィードバックすることにし、最後に私の添削を参考にして完成させる。授業では、文法・語彙・表現の誤りについてディスプレイに表示して解説する。これによって、個々人の文章上の問題点をクラス全員に共有させることができる。
作文は毎回、四百字詰原稿用紙2、3枚(八百から千二百字)程度の長さである。1回目の添削と清書の原稿、一人当たり最低2回読む作業は教師の宿舎での作業となるので、会話の授業より教師の負担が大きいが、作文の内容に関する感想も含め、懇切丁寧な添削結果をプリントアウトして学生に返した。それを彼らも心待ちにしているようである。
あるとき、学生が英語科の友人に私の添削したプリントを見せたそうだ。すると、
「日本語科では、こんなに懇切丁寧な添削をしてもらえるとは、幸せだね! 英語科の私の先生は、殆ど添削などしないで、ただ評価点をつけて返すだけよ」
と、友人は驚いたという。
英語科の学生は、中学・高校で既に6年間の英語学習歴があるので、大学ではじめて日本語を学ぶ日本語科の学生とは事情が異なるためか? いや、たまたまその英語教師がズボラだっただけのことだろう。作文指導ほど教師の裁量に任されている科目は他に無いであろう。教師が手抜きをしようと思えばいくらでもできるのだ。しかも、外人教師の給料は能力・意欲に無関係で定額である。しかし、私は作文指導をしたくて日本語教師になったのだから、添削作業にどれほど時間がかかろうと、嬉々として励んだ。また、学生の中には、添削していることを忘れて魅せられてしまうような優れた内容を書いてくる者もいる。成長期の若者の心に触れることのできる作文授業は遣り甲斐のあるものである。
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