7 作文授業実況中継 『私の友人』

作文に赤ペンで添削

 午前10時から始まった3、4時限目の授業で、私は、まず習い覚えたばかりの中国語でこう切り出した。

「早上好今天也要加油。」(ザオシャンハオ。ジンティエン、イェヤオジャヨウ。おはよう。今日もがんばりましょう。)

学生の中から、「お~、森野先生がまともな中国語をしゃべった!」と、驚きの声があがった。

 劉トンから中国語会話を学んで1年、ようやくカタコトながら、中国語を話すことができるようになった。学生の関心をこちらに惹きつけておいて、私の講義がはじまった。

 

“私の友人”という今回のテーマの添削もだいたい終わったね。先週、文法・語彙・表現の問題を解説しました。今日は作文の内容について話すことにします。このテーマで書いている幾人もの作文でちょっと気になる共通点があるので、それをまず紹介します。

例えばこんな風に友人を描いています。

――私の高校時代の親友は、ギターを弾いて美しい声で歌うのが得意です。勉強もできて、いつもクラスでトップか二番目でした。それに、美人で明るい性格なのでクラスの人気者です。

楊貴妃のような美人はいない

これを読んで私は思うのだ。ワー素晴らしい友人だね。玄宗皇帝が寵愛した楊貴妃みたいな人で、私も会ってみたいほど魅力たっぷりだ。

でも、こんな理想的な女性なんてめったにいるもんじゃない。いたとしても、そんな素晴らしい人がこの作文を書いた人と友人になってくれるかどうか、ちょっと疑わしいね。

人はだれだって大なり小なり欠点があるものです。楊貴妃だってそうでしょう。いとこの楊国忠が権力を握って政治を乱し、人々の反感を買った。安禄山の乱で皇帝が楊貴妃を連れて蜀の国に逃れようとしたときに、将兵が楊貴妃を怨んでいるので、皇帝は彼女を殺さざるを得なかったじゃないか。

私が“私の友人”で期待しているのは、長所と欠点をもっている作者と友人の関係を描くことです。友人が作者に、そして作者が友人に、相互にどのような影響を与えあったのか?――が、知りたいのです。一言でいえば、“私の友人”を描きながら、じつは作者がどのような考え方や価値観を持っているのかを示すことだと言えます。だから、“いい私”も“悪い私”も、素直に出してください。そして、原稿用紙とにらめっこしながら、自分と対話してください。このことを忘れないように! 

そのような視点を持たないで、単に友人賛美ばかりしている作文が多い。そんな物を私は読みたくありません。それから“親友”は十人も十五人もいませんよ。一人か二人だけで十分です。わたしは大学時代にとても親しい友人が数人いました。しかし、卒業して遠く離れてしまうと、だんだん疎遠になってしまい、結局今も付き合っている友人は、たった一人になってしまいました。大学卒業後数十年にわたりつき合っている、それが親友です。大学時代とはいいものですね。大人への成長期で大学という自由な雰囲気のなかで、一生付き合えるいい友だちができる。皆さんも今のうちにいい友だちを見つけてください。

 

さて、ここで一人の学生――Aさんと呼ぶことにします――の“私の友人”を簡単に紹介し、私の感想を述べたいと思います。

Aさんは高校時代の親友のことを描きました。友人は大学受験前に骨の癌に罹り、大学受験もできなかったようです。そして、Aさんが大学に入学して、今年の5月に見舞いに行こうとした矢先に、死亡してしまった気の毒な人です。

(私はAの作文の、骨癌で亡くなった友人を書いている箇所をディスプレイに示した)

Aさんはまずまずの文章力があります。次のように何ヵ所か訂正してありますが。

 

彼女は骨癌にかかりました。{Xそのとき、私は呆れていましたが/○それを知って私は驚きましたが}、彼女はやっぱり{Xいい気持ちを持って/○普通に生活しているようなので}、病人ではないように見えました。だが、大学の入学試験を受けることができませんでした。そのあと、 私{Xは/○が}長安大学に入学したことを知って、彼女は私より嬉しかったそうです。ときどき、二人は電話で連絡し合いました。

 

 ここの文章で私にはとても気になることがあります。

Aさんは長安大学に合格したことを、癌に罹った友人に知らせました。中国でも癌になれば死ぬ可能性が高いことは誰でも知っているよね。Aさんは健康で長安大学に合格し、楽しい大学生活を送っている。一方、友人は癌のために体が衰弱して大学受験もできないほど、みじめな状態にあるのです。

そんな友人がAさんの合格を聞いて、「本人以上に嬉しかった“そうです”」と、作文に書いてある。友人から聞いのだからAさんは伝聞 “そうだ”を使っています。文法的には正しい。でもね、あなたの大学合格を、友人があなた以上に嬉しいと言ったとしても、それをそのまま信じていいのですか? もし信じているとしたら、Aさんはまだ十歳の子供です。現実には今、19か20歳の立派な大人でしょう。大人は、友人の心の中を想像することくらいできるはずです。にもかかわらず、こんなことを平気で書いているあなたは“大嘘つき”です。いつも言っているように、作文は事実に基づいて正確に誠実に書くものですから、嘘を書くことは絶対いけない。

 ひとつ、例を話しましょう。たとえば、Aさんはとても醜い顔の人だとします。本当は美人だけどね。とうぜん、男の学生はだれも声をかけてくれない。悲しいね。一方クラスに、とても美人でボーイフレンドが三人も五人もいる、モテモテの女性がいたとする。醜い顔のあなたは、その美人が羨ましいやら、自分がみじめに思えるやらで、彼女に対してジェラシーを感じるはずです。

あるとき、その美人が大恋愛をしたあとで、失恋してしまったとしましょう。そのときあなたは、どう思いますか? 彼女に同情して可哀想だと思いますか。元気を出して、と慰めてあげますか? そんなこと絶対にない! 嘆き悲しんでいる彼女を見ると内心では拍手して、“ザマーミロ”と喜んでいることでしょう。それが人間というものです。

ある人が言っています。“人の不幸は蜜の味”(黒板に書く)。人の不幸を横から眺めているのは、蜂蜜をなめるように美味しくて楽しいものだという意味です。なんてひどい、いやな言葉でしょうか! でも、人間とはそんなみにくい心も持っており、他人が自分以上に幸せになることを決して喜ばない動物であることを、しっかりと踏まえておかなければ、大人とはいえませんよ。人間は神様にはなれないのですから。

 Aさんに聞きたい。あなたの大学合格を知った癌の友人は、「あなた以上に嬉しかった」と本当に思っていると、今でも信じていますか。友人があなたにそう言ってくれたとしても、あなたは、そう言ってくれている友人の心の裡をなぜ考えようとしなかったのですか。つまり、「友人はそう言ってくれたけど、私は彼女の複雑な心の裡を考えると、とても辛かった。大学合格は嬉しいことだけど、友人にそれを知らせたことを後悔した」とかなんとか、書き方はいろいろあるでしょう。それが親友に対するあなたの思い遣りでもあるのです。そんなことを何も書かないで、単に友人のうわべだけの言葉だけを書いて、それでよしとしているあなたの態度が私には理解できない! これでは、いくら美しい友情を描いていても、友人が亡くなってあなたが嘆き悲しんでいることを書いてあっても、先生はもうあなたの文章を読む気がしなくなりました。

学生顔を机に埋める

ここまで言ってAを眺めると、顔を机に埋め両手を左右に広げていた。まるで、道路に跳び出た田んぼの蛙が車に轢かれてぺちゃんこになっているようだった。その惨めな様子をみていて、私はちょっと、言い過ぎたかなと思い、ここで三時限目を切り上げて、早めの休憩時間に入った。

 休憩時間に、私は一階に降りて、校舎の前でタバコを一服吸った。日本語の文章指導という私の仕事は、文章を正しく書く技術を教えることにある。と、すれば、文章の内容にまで立ち入る必要はなく、Aをあそこまで追い込むようなことは余計なことかもしれない。が、学生の文章を読んでいると、彼らの心の襞に触れることにもなるのだ。彼らの現在の文章力は日本の中学生並の、いやそれ以下の未熟なものでしかない。しかし、彼らはすでに20歳前後の大人であり、つたない表現力の中にも歳相応の何かを見せているのだ。ついつい引き込まれて、楽しく読めるような内容を書いてくる学生が現れてきている。文章作成技術を高めてあげるだけでなく、内容豊かな文章を書けるように心の潜在能力を引き出してやりたい。そして、作文を通じて学生が人間的にも成長するきっかけになればと思うからこそ、私はAに辛いことも言ってしまったのだ。

 私は50代前半の頃、会社の仕事のかたわら、夜にカルチャー・センターで小説を書く講座に数年通ったことがある。講師である八橋某という文芸評論家が、小説を書く極意を次のように語っていた。

「アマチュアの皆さんが、プロの作家のように空想力を駆使して、荒唐無稽な物語を創ることは無理です。それより、自分の過去に埋もれている忘れがたいこと、印象深いこと、なんでもよろしい、その断片を拾いあげるのです。そして、それを核にして、フィクションに膨らませてください。これだったら誰にでもできます」と。

 この教えは、いま学生に作文を指導するときにも当てはまる。作文とは、小説ではないので事実をねじ曲げることは許されないが、書く素材を学生の意識下に埋もれているものの中から掘り出して、文章で顕在化する作業である。その作業の中で、自分と対話し、自分を見つめ直すことにもなるのだ。文章とは書けば書くほどうまくなる! それを助けるのが私の役目であり、老後に日本語教師を目指したのは外国人に文章を指導したいと思ったからだ。それが、ここ西安の長安大学で若者を相手に実現していることに私は喜びを感じている。

女学生の手料理

 私に作文を厳しく批判されたAは、一週間後、私の宿舎に二人の学友と一緒に来て、郷土料理を作ってくれた。我が思いが通じたのだと思った。

食事が始まってしばらくして、Aはちょっと沈んだ表情で言った。

「先生、わたし、作文がへたです。書きたいことがいっぱいあるのに、少しも書けなくて・・・・・」

それを聞いていて、私にはハタと思い当たることがあった。私は中国に来てからは、もう小説のような重たいものを書くことはしなくなったが、エッセイや旅行記などはしばしば書いて、日本の留守家族やメール友に送っている。私は書くこと大好き人間で、パソコンに向かうと指が勝手に動いてキーをたたく。それでも、自分の思いを十分に表現し切ることは至難の業であることをいつも感じている。

Aは大学に入って日本語を習ってから、まだ1年半である。そして、いま作文を習いはじめてからまだ半年にすぎない。思うこと、表現したいことがたくさんあっても、それを文字に表すことが大変なのだろう。舌足らずの作文になってしまうのは仕方のないことだ。とすれば・・・・・・

「あんな厳しいことを言って、ごめんね」

「いえ、先生」とAが言って、言葉がつまり、それから「わたし、がんばります」と笑顔に変わった。

 私はAが作った手料理に舌鼓を打った。教え子とこんな時を過ごせるとは、なんと幸せな

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