いじめっ子
少年時代、私がおおらかで品行方正だったわけではない。むしろ粗野でガキ大将だった。
小学校1年生のとき、子分数人を従えて、クラスのちょっとグズな男の子をイジメていた。
たまりかねたその子が親にいうと・・・
担任の若い女教師に叱られた私は涙をポロポロ流して、イジメをピタリとやめた。当時の子供は可愛らしいものだった。
いじめられっ子
二年生になると、こんどは私が虐められる番になった。網走市は当時、人口が3万人程度だが、オホーツク海に面した北海道の東北部の中では、開拓事業が早くから始まっており、ちょっとした都会なのだ。
その街の子である私に対して、郊外の農村から通学している腕白小僧が、私をイジメるのだ。いかつい顔をしたイガグリ頭の少年は「荒熊」と呼ばれていた。一方、私は「白熊」と綽名されていた。荒熊は授業の合間の休憩時間になると単身で堂々とやってきた。怖くて机の下に隠れたが、大きな体の私は頭隠して尻隠さずで、すぐに見つかってしまう。
上には上があるもので、荒熊は単身で堂々とやってくるのだ(どう見ても、白熊より荒熊の方が強そうだ)。私は怖くて机の下に隠れたが、頭隠して尻隠さずで、すぐに見つかってしまう。私はクラスでは一番強いので、誰も助けてくれる子などいない。ガキ大将もこうなったら哀れなものだ。虐められる立場になって、はじめてその辛さがわかった。
たまりかねた私は父に窮状を訴えた。
ある日曜日の朝、父がいった。
「ちょっと出かけるから一緒にこい」
父の自転車の後について子供用自転車を走らせた。荷馬車の轍
が延々とつづく山道をいくこと2時間で、畑が一面に広がっている一軒家についた。そこが、荒熊の家だった。
父が荒熊の父親に談判をしているらしく、その間、荒熊と私はだだっ広い庭で待たされた。鶏が周りをうろついて餌をついばんでいる。家の周りは一面の畑で遠くに隣家が見えるていどで、街の子である私には牧歌的な雰囲気が珍しかった。
二人は手持ち無沙汰で時ににらみ合いながら待ちつづける。そのうちに、家の中から笑い声が聞こえてきた。
「こっちへ来い」
家に入ると、父と荒熊の父親が囲炉裏を囲んで酒を飲んでいるではないか。二人はそれぞれの親の横にちょこんと座った。荒熊の親父が「もう、はんかくさい(注)ことすんな!」といって、荒熊のイガグリ頭をグイと抑えこむ。荒熊は首を亀のようにひっこめるような仕種でかしこまった。
(注)「ばかげた、あほらしい、愚かな」という意味で、本州 各地の類義語から派生した北海道方言。
これですべてが終わった。荒熊のお母さんが手料理を運んできた。男爵芋の煮付け、まさかりカボチャ、トウモロコシを、ふうふうと息を吹きかけながら食べた。とても美味しい。
陽が西に傾くころ、元来た道を帰った。私は、途中で轍の溝に車輪をひっかけて転倒してしまった。ズボンが破れて泥まみれで血のにじんでいる膝小僧を、父が舐めてくれた。それは、迷信深い父のおまじないか? いや、後年私は薬学の研究者になったが、ヒトの唾液中にはリゾチームという消炎鎮痛効果のある酵素が含まれているのだ。
こうして傷口を舐めてくれる父の仕種は、子をいたわる愛情だけでなく、神がヒトに与えてくださった最大の贈り物でもあったのだ。往時を思い出すとき、改めて父の情愛の深さに胸が熱くなる。
我が人生で最も印象に残っている教師は、小学校の先生だった。その教師が良い人、悪い人に関わらず、教師という窓をとおして『大人の世界』を垣間見ることにより、子供が成長するきっかけになっているように思う。
私が少年の頃には、町にも山野にも、遊び戯れる子供たちの叫び声が響いていた。そして遊びを取り仕切っている年長のガキ大将が必ずいたものだ。
ガキ大将になるには、ローカル・ルールがある。当時の北海道では、相撲が強くて草野球が上手なら、仲間から一目置かれる存在であったように思う。勉強は二の次だが、学校でのガキ大将は勉強が出来ればなおけっこう、というところか。私は、クラスで一、二を争う長身で屈強だったので、一学年上の子でないと勝負にならないほど相撲が強かった。
五年生のときだった。
はじめて男の先生がクラスの担任になった。林先生は若い教師で、相撲の相手までしてくれたので、私たちは兄貴分に思えてよくなついていた。
国語の授業では、先生におねだりして時々『話し方教室』を開いた。私は、少年クラブや漫画王などの少年雑誌から仕入れたネタを脚色し、面白可笑しく話して、クラス仲間から喝采を浴びていた。目立ちたがり屋のネアカ小僧であった私は、ガキ大将の条件がほぼ備わっており、ホーム・ルーム委員長にも選ばれていた。
ガキ大将は、野生のボスザルと同じで、子分やクラスの仲間が、他のグループからイジメに遭ったり、何か苦況に立たされたときには、助けてやらなければ、その地位に留まることは難しい。
厳冬のある日、林先生が出張したので、隣のクラスの担任(ベテランの男性教師で、A先生と呼ぶことにする)が、私たち児童の世話をすることになった。当時、一クラス60人もの児童がいたので、A先生は二クラス120人を受持たなければならなかった。
午前中は自習で過ごし、午後には体育の授業に振り向けられた。オホーツク海から吹き寄せる雪まじりの寒風に押し込められるように、百人以上の児童が体育館に集まった。だがこんなに多くの人数では、スポーツを全員ですることができない。ドッジボールを入れ替わり立ちわりやっている間にも、待機中の子供たちは、暇を持て余してあちらこちらで勝手に遊び回っていた。A先生は児童たちを持て余し気味で、だんだん機嫌が悪くなっていたようだ。
体育館には、式典用のステージがついていた。そこにも上がって、悪ガキたちは暴れ回っていた。ステージの移動式壁を動かしているうちに、天井から吊り下がっている照明器具に誤ってぶつけ、電球が割れた。
A先生の怒りがここで爆発した。割れた照明のそばにたまたまいた児童二人が、先生の許に呼びつけられて、激しい叱責を受けた。先ほどまでの喧噪が嘘のように鎮まり、A先生の怒声が体育館に鳴り響いている。私は、叱られるのはやむをえないと納得しながらも、何か割り切れないものを感じた。叱られている二人は、私のクラスの仲間だったのだ。
A先生のクラスの児童も、一緒にステージで遊び回っていたのに、なぜ叱られないのだろう?
「ありゃ~、不公平だべぇ」
クラス仲間の一人がいった。
林先生不在中の事件に対して、ホーム・ルーム委員長の私は黙っていていいのか? 何か一言いわなければ・・・。でも、あの怒り狂っている先生に抗議するのは恐ろしい。
見守る仲間を眺めながら、私の中で、この二つが葛藤していた。
そのうちに、あの叱られている二人は私の子分であり、自分はガキ大将として傍観してはいられないとの思いが、ついに私の背中を押した。これが高倉健さんのヤクザ映画なら、もろ肌脱いだ主人公が花と竜の彫物を背負って颯爽と登場し、単身悪に立ち向かう最高の見せ場となるはずである。が、現実の私は、ふるえる脚を恐るおそる先生の近くまで運ぶのが精一杯、といったところだった。
そして、言った。
「あのう・・・」
「なんじゃ。おまえ!」
Uターンして、皆の中に隠れてしまいたい思いをこらえて、先生に不公平をやんわりと舌足らずに抗議した。
これが先生の怒りに油を注ぐことになってしまった。今にして思えば、彼の肚の裡には、弱味を衝かれたことへの腹いせもあるのだろう。小生意気にも児童のぶんざいで教師に向かって何をぬかすか、とA先生は猛り狂ったのだ。
眼の前が真っ白になって、体育館に満ちあふれている百人からの児童の姿は消え失せた。 私は、ガキ大将の矜持など木っ端微塵に打ち砕かれて、悪意に満ちた大人に蹂躙されるがまま堪え続けた。
叱られている二人は、事態の急変をどう受け止めていたのだろうか? 嵐の鉾先が転じて、ほっとしたい気分にもなっていただろうが、それだけではなかったはずだ。
■林先生の説教
翌朝、私たちには、もっとつらい事態が待ちうけていた。
前日の一部始終をA先生から聞かされた担任の林先生は、出張帰りの一時限目の授業を中止して、説教をはじめたのだった。林先生が私たちを頭ごなしに叱りつけるような態度にでたのなら、私にも言い分がある。それは冤罪であり、A先生の処置の方がけしからぬ、と抗弁することもできただろう。
だが、林先生は我々児童に高圧的な態度をとるようなお人柄ではなかった。
――先生は君たちを信じていた。にも関わらず、不在中に信頼を裏切られたことに失望しており、誠に残念でならぬ。
林先生はそのようなことを、切々と訴えかけていた。これには参った。教室は静まり返り、一同、息を潜めて俯きながら聴いているばかりだった。
林先生は不満の対象を名指しすることは一切無かったが、不満のある部分が私によるものであることは容易に察せられる。
しかし私は、声を発して先生に詫びることも、ましてや言い訳することもなかった。そんなことは、小賢しい大人の発想であり、林先生を前に小学五年生には思いもよらぬことである。
林先生の説教をただひたすら聴き堪えねばならない辛さは、A先生の罵倒する声に堪えていたときより、遙かに苦痛で無念ではあった。
この一件はまもなく忘れてしまい、林先生との関係も旧に復した。子供とは、嫌なことはすぐにも忘れることのできる天才で、無邪気な存在なのだ。そして、クラス仲間と私との結束はいっそう深まった。
人生には不条理がたくさんある。後年長じてサラリーマン時代には、或る時には誤解され、或る時には立場上、不条理に耐え忍ばなければならないことが幾らでもあった。それが人生というものだ。A先生と林先生の上の一件では、我が人生で最初に不条理に耐えた貴重な経験であったと思う。
■その1 教師が語る脱獄譚
これも小学校5年生のときのことだ。
国語の授業で、私たちは先生におねだりして、ときどき「話し方教室」を開いた。少年雑誌から仕入れた題材を脚色して皆の前で発表しあうので、退屈な国語の授業よりよほど楽しい。
ある日の「話し方教室」の最後に、林先生が「私にもひとつ面白い話があるんだ」と前置きして、次のように語った。
「網走刑務所に “五寸釘の寅吉” という強盗殺人犯が服役していた。その寅吉がある日脱獄した。監視のわずかな隙をついて独房を抜け出し、高い刑務所の塀を登り、外に、えいっ、とばかり跳び降りたんだ。ところが運わるく地面に五寸釘が落ちていて、寅吉の足にグサリと突き刺さったからたまらない」
「ええっ! 痛そう~」と私はわがことのように身震いした。「ぼくなんか、とげが刺さっただけでも痛いのに、釘が刺さったらどうなるの?」
「痛い、痛くないって、いっているときじゃないさ。寅吉は足に釘が突き刺さったまま、刑務所の裏山へと逃げた」
「誰も寅吉のことに気付かなかったのですか?」
学友がきいた。
「もちろん、刑務所の監視員がすぐに気づいて、総出で追いかけたよ。ただちに警察署にも連絡し、町の中には非常線が引かれて、水も漏らさぬ厳重警戒さ。なにしろ、寅吉は凶悪犯だから、町の人に危害があってはならない。そして、刑務所と警察が一体となって、山狩りをやったんだよ」
ここまで聞いていた私たちは、目を輝かせていた。寅吉を恐れてはいたが、ことの顛末がどうなるのかと、興味津々で期待に胸を膨らませる。林先生の講談調の語りはいよいよ佳境に入っていく。
「追っ手から逃れるために、寅吉は山中の道なきみちをイノシシのように駆けにかけ、ヒグマのように走りにはしりまくったな。雨が降って身体は冷え込むし、そのうえ釘が刺さったままの足は痛む! 三日三晩逃げににげ回った。そして四日目の朝がきて、寅吉はようやく一息ついた。
――これで逃げきれた。オレは自由の身になったのだ!
寅吉はほくそ笑んだのさ」
そうか、やっぱり脱獄に成功したんだ、と私たちは互いに笑顔を交わした。
「雨がようやく止んだが、あたりは深い霧に覆われている。そのうちにオホーツク海から北風が吹きつけてきて、霧が徐々に晴れてくる。と、向こうに塔のようなものがうっすらと墨絵のように浮かびあがる。『あれは何だ?』と、寅吉が眺めているうちに霧が晴れ上がった。『ヤバイ、刑務所の物見櫓だ!』と、寅吉が叫び終わるかおわらないうちに、刑務所員が大勢かけつけてきて、寅吉は “御用” となったのさ」
「チェ。な~んだ、つまんねぇ」
私たちは、あっけない幕切れに、期待を裏切られて不満だった。今風に言えば、水戸黄門さんの勧善懲悪テレビドラマのようで、“悪が栄えることはない"ーーということか? しかし、当時の子供は先生の話を疑うことは許されない。終業ベルが鳴って林先生の講談が終った。
学校から帰ると、父にそのことを訊いてみた。父は笑いながらいった。
「先生がそう言っているのだから、本当だろうよ!」
実は、父の姉の嫁ぎ先が網走で手広く呉服屋を営んでおり、父は番頭だった。皇室御用達ならぬ刑務所御用達で、衣類納入のために父は時どき刑務所に出入りしていた。今にして思えば、当時の刑務所内の状況を詳しく聞いておくべきだったが、子供の私にはさほど興味がなかったし、父も子供に刑務所のようなヤバイ所の話をするのが、はばかられたのであろう。既に他界している父にもう聞き出すことはできない。
こうして私には、凶悪犯・故郷の刑務所・脱獄・五寸釘を刺したままの逃亡と、どれもこれも魅力的で刺激がある。“五寸釘の寅吉” の脱獄譚が強い印象として脳裏に刻まれたまま、後々まで持続することになった。
だが、遠くに逃げたつもりが刑務所の門前に “逆戻り” したなんて、寅吉の間抜けぶりには不満がのこった。
しかし、これも網走の地形を理解するためによかったのかもしれない。先生はこういっていた。
「北の大地網走は、北側がオホーツク海、残りの三方をぐるりと山で囲まれている上に、湖も川もあるんだ。だから、脱獄犯は山中を駆けにかけたつもりでも、けっきょくは、網走の周りを一巡するだけだったのさ!」
――そういうことか、網走刑務所は、世界に誇るべき最適地にあるんだ!
そう信じて疑わなかった。
我が家は中学二年生から京都に転居した。京都の学友は、網走刑務所のことなど知らず、北海道から来た私に、「お前はアイヌか?」と希に訊く程度だった。しかし私は相撲がつよくて都人の子孫をつぎつぎに投げ飛ばすものだから、「やっぱり北海道のやつらは “荒くれ者” だ」と思ったことだろう。
大学生のころに、高倉健の『網走番外地シリーズ』が始まり人気を呼んでから、【網走=刑務所】のイメージが定着した。網走出身だということで、刑務所服役犯の子であると疑われたことがある。そんなときには口元に少々ニヒルな笑みを浮かべて言ったものだ。
「そうさ、オレの父ちゃんは、強盗殺人未遂で、“ムショ” にくらいこんでいたのさ。母ちゃんは幼いオレと妹をつれて網走に行き、父ちゃんの出所を待っていた。三年前に、ようやく仮釈放となって京都にやってきた。あの頃を思い出すとオレは・・・」
これを信じた学友は私を驚きと憐憫の念で見つめていた。が、真実を明かすと、「なんだ、オレに一杯食わせやがって!」と大笑い。そのついでに、『五寸釘の寅吉』も紹介した。
■ その2 「五寸釘の寅吉」は実在したか?
こうして、私は成人してからも、網走の思い出の一つとして『五寸釘の寅吉』と刑務所を結びつけるようになっていた。今や我が胸の裡には、寅吉は故郷の英雄にまで膨らんでいる。 義民「惣五郎」や「長嶋茂雄」を生んだ佐倉市とは趣きがことなるが・・・
だが? と、私には疑問もあるのだ。五寸釘といえば、15 cmもの巨大な釘である。そんな物を突き刺したまま三日三晩、山中を駆けぬけることなどできるのだろうか?
長い間、疑問であったことが、最近インターネットで調べた結果、明らかになった。
インターネット「ホームページ 博物館 網走監獄」やウィキペディア(西川寅吉)に紹介されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%B7%9D%E5%AF%85%E5%90%89
●監獄秘話・明治の脱獄王「五寸釘の寅吉」
五寸釘の寅吉こと西川寅吉が初犯をおかしたのは14歳の時で、賭場で殺された叔父の仇を討とうと敵の親分と子分4人を斬りつけ火を放って逃げた。逮捕されて収監後、脱獄したのが1回目である。
4回目の服役中に脱獄したとき、逃走中に路上で板についた五寸釘を踏み抜いてしまったが、そのまま12キロも逃走し力つきて捕まった。
5回目に遠い北海道の樺戸(かばと)集治監に送られて服役するころになると、脱獄犯寅吉の名は全国に知れわたることになり、彼を畏敬する囚人たちの援助でさらに三度も脱獄を繰り返した。逃走中に、盗んだ金を貧しい開拓農民や出稼ぎ中の留守宅に投げ込んだりもしたため、一躍有名になって庶民からもてはやされヒーローになった。
7回目の服役中に脱獄した頃には、老いかけている寅吉はすぐに逮捕され、網走集治監(後の「網走刑務所」)に服役した。
網走に収監されてからの寅吉は沈黙した穏やかな生活に入る。監獄で働いて得たわずかな金を、故郷の妻子に送金し続け、手紙も書き送っていたという。
大正13年、72歳の寅吉は長い獄中生活を終える。人気者の彼は、仮出所後に興行師に利用されて、「五寸釘寅吉劇団」という一座を組み、全国を巡業した。彼には人情に篤い江戸時代の渡世人といった雰囲気がある一方で、ちょっとおだてに乗りやすいお調子者にも見える。最後には故郷の息子に引き取られて、平穏な生活の中で安らかな往生を遂げている。
以上の実録で、我が疑いは晴れた。寅吉は総計8回脱獄するという輝かしい経歴の持ち主ではあるが、残念なことに(?)網走刑務所は脱獄していない。
しかし、「4回目の服役中に脱獄したとき、逃走中に路上で板についた五寸釘を踏み抜いたまま12キロも逃走した武勇で、「五寸釘の寅吉」の異名がつけられた」とある。
それにしても、林先生の語る「五寸釘の寅吉」の英雄譚は中々よくできている話ではないか! これほど有名で、網走刑務所にも服役していた彼のことを、町の人も噂で知っていたに相違ない。寒い北国の夜長に、赤々と燃えるストーブの周りに集まって、暇つぶしの炉辺談義には、寅吉のエピソードは恰好の話題だったろう。林先生が寅吉の実話をどれほど知っておられたかは知る由もない。だが、私たち児童が「話し方教室」をしばしば開き、面白可笑しく話しては、学友から拍手喝采を浴びていたのだ。これを聴いていた林先生が、
――ガキ共に負けてはいられない。ひとつオレもとっておきの話で、小僧っ子どもを驚かせてやろう!
と、考えられたのはあり得ることではないか。そして、林先生の虚実取り混ぜた「五寸釘の寅吉の英雄譚」に、私たちはまんまと乗せられたというわけだ。
ちなみに、私は数十年前に、林先生に時候のご挨拶のお手紙をさしあげたことがある。もう定年退職されていた先生は、「海釣りが趣味だ。そのうちに釣り上げた秋味(鮭)を送ろう」と、お返事をくださったが、実現しないうちに他界されている。
ともあれ、網走刑務所は、施設・警護共に十分行き届いており、脱獄が日本一困難なところであるとされている。だがもし、寅吉が若い頃に網走刑務所に収監されていたら、脱獄を実行し、成功していたのかもしれない。スポーツ選手のように、脱獄には知力と体力、胆力が不可欠である。寅吉が老いを感じる歳になって網走に送られて来たことは、刑務所長には幸いした。結果として、網走刑務所は脱獄困難な牙城としての栄光を保ち続けることになる。
■ その3 網走刑務所からの脱獄犯がいた!
網走刑務所から脱獄した者がいたことは、小説『破獄』(吉村昭著、新潮文庫)に詳述されている。この力作を読んで、脱獄に成功した「佐久間清太郎」(本名、白鳥由栄)のものすごさに圧倒された。「五寸釘の寅吉」もさることながら、佐久間の方が一口で形容すれば「知力あふれる行動の人」という意味で、もう一段優れていると感じたほどである。
佐久間は5回目の服役中に、刑務所長の温情あふれる扱いに心和んだ刑務所生活を送り、もう脱獄することがなかったという。しかし、彼の3回目の脱獄が網走刑務所であったことより、明治時代以来破られたことのない、<網走刑務所>の栄光はもろくも崩れさったことになる。
佐久間清太郎の網走刑務所を脱獄した様子を伝える蝋人形。
彼は怪力の知能犯で、頭が入るスペースさえあれば、全身の関節を脱臼させて、容易に牢獄を抜け出すことができた。
写真は「HP博物館網走監獄」より
ホームページ「博物館 網走監獄」では、五寸釘の寅吉が「明治の脱獄王」に対して、佐久間は「昭和の脱獄王」と形容されている。私の印象では、前者が浪曲の主人公にでもなりそうな大衆受けのする人間なのに対して、後者は現代スリラー小説に登場してもおかしくない知性を秘めた不気味な人物である。
ここで冒頭に戻ろう。林先生が語った「五寸釘の寅吉英雄譚」は、五寸釘を足に刺したまま逃走した寅吉と、網走刑務所を脱獄した佐久間との合作によって作り上げられたと見るべきだ。そして、二人は、共に希代の英雄として、網走の人々に語り継がれていくだろう。
■ その4【後記】
「刑務所」は網走市民には迷惑な存在だったろう。それさえなければ、網走は山、川、湖、海と美しい大自然に囲まれた町なのだから。戦前には、刑務所名を “網走”とは違う、例えば、所在地の名をつけて「大曲刑務所」のように替えてほしいと陳情したが、認められなかった経緯があるという。
しかし、平和な時代を迎えて、刑務所のイメージも様変わりしている。日本が豊かになり旅行・観光ブームの中で、かつては忌まわしい存在だったものが、観光名所の役割を担うことがある。網走では、1、2月に網走海岸に「流氷」がやってくると、漁師は船を出すことができないし、最も冷え込む酷寒(北海道人は”しばれる”凍りつくと形容する)の時を迎える。が、今では「流氷祭」が開催されて、本州からわざわざ「流氷」を見にくる観光客が多いという。
少年の私などは寄り付きもしなかった網走刑務所(番外地)も、観光名所になっている。そして、刑務所を建て替えると同時に、五寸釘の寅吉や佐久間清太郎がいた旧い建物が、「博物館 網走監獄」として観光客に開放されるようになった。
2016年に網走市の「博物館網走監獄」に保存されている旧網走監獄など関連施設が重要文化財に指定された。なお、刑務所からの脱走は戦前から1960年代までは頻発したが、1982年以来起きていないという。
(なお、宮本顕治元日本共産党委員長が、終戦末期に「治安維持法違反」などで網走刑務所に収監されていた。)
~~私をとりこにした屋台のラーメン~~
網走市は北海道の東北部にあり、緯度は中国吉林省にほぼ等しいので冬は厳寒の地であった。父は独立して、小さな衣料品店を経営していた。常連客の一人がラーメン屋のオヤジである。貧乏で店舗を構えることなどできず、リアカーの屋台がひとつあるだけだ。
ある日、彼が父にいった。
「とても買掛金を払うことができません。すまんことじゃが、ラーメンを食べてもらい返済に充てるわけにはいきませんか?」
秋も深まったある夜、父は私と妹をつれて、横丁の屋台のラーメン屋へいった。テントで囲まれた屋台の外には仄明るい提灯の灯が点り、風にゆらゆらと揺れていた。オヤジが湯気のたちこめる熱々のラーメンを差し出した。とたんにコショウの香りがぷーんと我が鼻腔をくすぐり、食欲をそそった。このいい香りのものがラーメンというものか?
スープを一口すする。うま~い! そして麺を一口、うまーい! その麺は黒人の髪の毛のようにちぢれている。冷たい北風がぴゅーぴゅー吹いて、我が身体をこごえさせていたが、熱々のラーメンが体内をじわっと温めてくれる。
――なんて、幸せなんだろう。この世にこんなうま~い食い物があるなんて知らなかった!
父に連れられて冬中、何度もこの屋台に通った。こうして私には、たまたま巡り合ったこの屋台のラーメンが故郷の忘れがたい思い出の味となったのだ。
私が中学二年生のときに、我が家は京都に移住した。四十年も住んだこの大都市は、悠久の文化と歴史的名所旧跡がたくさんあるし、伝統的美食もあった。しかし、ことラーメンに関するかぎり、京都のいかなるラーメンといえども、少年時代に食べたラーメンに勝るものはない。
「屋台のラーメン」の味、その後
今日日本は豊になり、食べ物に関しては飽食の時代と言われている。グルメブームの中、世界中のどんな食品でも望めば手に入れることができる。私は未だにあの少年時代に食べた屋台のラーメンが世界中で一番うまいと信じているが、
――あの屋台のラーメンが、いま目の前に出たら、本当にうまいと言えるのか?
と問われたら、ちょっと自信がぐらつく。
今を遡ること60年も前、北辺の地にいた私たちは貧しかった。だから、たまたま巡り合ったあの屋台のラーメンがことのほかうまかったにすぎないのではないか、とも思うのだ。
とすれば、あのラーメンの味は私だけの思い込みであり、それが故郷への懐旧の思いとつながっているだけかもしれない。
京都に移住してから、十数年後のことである。会社に就職していた私は、或る夏に仲間数人と共に日本アルプスに登山した。
列車で飛騨の高山駅に夜中に着き、翌朝まで駅の構内で寝ていたが、寒さのために真夜中に目を覚ましてしまった。空腹を覚えて、駅前の屋台のラーメン屋へ行く。
出てきたラーメンを見ると、麺がちぢれているではないか! 胸さわぎがして、一口食べかけたとたんに、あのラーメンとまったく同じ味がして、私は感動した。網走の屋台とのれんが、目の前に現れたように思った。網走時代から十五年の歳月を経て高度経済成長期にあり、我が食生活も豊かになっていたにもかかわらず、我が舌はうまいラーメンの味を確かに憶えていたことになる。
こうして、 網走ではじめて巡り合い、飛騨高山駅前で再会した屋台のラーメンは、その後、杳として消え去ったままである。だが、またいつの日にか、何処かであの味と形に巡り合えるかもしれない、という期待に胸はふくらむ。そのときには必ず網走が甦り、暗闇の中の屋台には、仄明るい提灯の灯がともっていることだろう。
~~凍てつく北の大地であえぐ馬の運命は?~~
我が故郷網走市の忘れ難い思い出のひとつは、ある冬の出来事であった。
市内には街を南北に分けてオホーツクに流れでる網走川があり、市中央に南北を結ぶ橋が網走橋である。
中学一年のとき、下校中に橋を渡って南側の橋の袂まできた。そこで、雪橇を曳く馬が橋にむかう緩斜路を登っているのが見えた。橇には長さ10メートルはあろうかと思える太い丸太が三本も積んであった。オホーツク海から吹き寄せる寒風で凍結している路面を、馬は喘ぎながら重たい雪橇を曳いている。
御者が、“ドー、ドー”と叫び馬に鞭打つ。鼻から激しい息を噴き出している馬は、硬い凍土を踏みしめることができず、とうとう橋の袂で動けなくなってしまった。口からは粘性の唾液がとろりと垂れさがり、雪面にまで届いている。馬は明らかに疲労困憊の極に達している。
対向車線はスムーズに流れているのに、馬橇の後に続く車は数珠つなぎになって待ち続けている。イライラした運転手がクラクションをしきりに鳴らす。御者が焦って、更に激しく馬に鞭打つ。その乾いた音が北風に混じって私の耳朶を打った。
傍らの学友がつぶやく。
「あの馬っこ、今にぶっ倒れて、死ぬべぇ」
その時だった。一人の老婆が駆け寄り、橇を押した。
だが、痩せこけた老婆の細腕では、焼け石に水ではないか? にも関わらず、老婆の惻隠の情が少年の私に伝わってきて、胸が熱くなった。
そこで信じ難いことが起こった。やおら、馬が一歩、また一歩と前に踏みこんだのだ。弾みがついた雪橇は、鈍い軋み音を発して滑り出した。やがて馬橇は鈴の音も軽やかに網走橋を渡り、北岸へと消え去った。
我に返った私たちは家路についた。黄昏迫る街には、家々の灯が点りはじめている。オホーツク海の北風が茫々と吹き寄せて、我が身体を凍えさせていたが、心の裡には、温かい微風が流れているようであった。
網走の冬の生活に欠かせないのが「雪下ろし」だ。一冬に数度大雪が降ると小学校が臨時休校となるので、我々子供たちには嬉しい日となる。
わたしは父に命ぜられて、よく雪下ろしをしたものだ。平屋の屋根とはいえ、落下すると危険だが、冬季には家と家の間にうずたかく積もっている雪がクッションとなって安全なのだ。
屋根の頂上にあがると周りがよく見晴らせるし、遠くにあるパチンコ屋の拡声機から流れて来る歌謡曲も聞こえた。雪下ろしをしながら聞いた歌は、そのころ流行っている春日八郎の「お富さん」だった。何度も聞いているうちに、歌詞を全部覚えてしまった。しかし、
「♬ 粋な黒塀 見越しの松に 仇な姿の 洗い髪…」
は、大人の前、とりわけ学校の先生の前では歌えない。
冬のスポートといえば、スケートとスキーであった。
スケートは網走川の氷上リンクや、校庭のグランドに水を撒いてできた仮設リンクで滑った。
インターネットで網走のスキー場を検索すると、「レークビュースキー場」がヒットし、”オホーツク海と網走湖の絶景を眺めながらスキーを楽しめる”とあるが、私の少年時代にはこの様な立派なスキー場はなかった。私は、スキー板を家からはいて、網走橋を越えて山まで滑りながら行った記憶がある。
山にリフトなどという便利なものは無かったので、10~20分かけて登り、1分足らずで滑り降りることの繰り返しであった。それが足腰の鍛錬にはよかったのだろう。
ゲレンデの端には雪で固めた1~3m高のジャンプ台があった。弱虫の私は、1m高で飛距離3mをだすのがせいいっぱいだった(それもスティックを持ちながら飛ぶ)。
国際的ジャンプ競技では、ノーマルヒル(70m級)とラージヒル(90m級)がある。当時網走シャンツェには、40mか50m級のジャンプ台しか無かったが、それでも台の真上から見下ろすと恐怖心を覚えるほどの高さで、こんなところから飛ぶ大人はよほど勇気のある人に違いないと思ったものだ。
それ以来、ジャンプ競技には格別の思い入れがあった。
1972年の札幌冬季オリンピックの70m級で、日の丸飛行隊が金銀銅を独占した快挙には感動した(金メダリストの英雄「笠谷選手」が2024年に死去された)。
厳しい冬を乗り越えた福寿草が雪の下から顔を見せ、北国に遅い春の到来を告げる。4月に雪解け水が路上を幾筋にもなって流れだすと、私たち男の児は決まって<パッチ>(北海道の用語だが一般的には<めんこ>と呼ぶ?)という遊びに熱中したものだ。
パッチとは直径6~10cmの丸型の厚紙に武者絵などがカラフルに描かれているもので、板の上にパッチを置き5人程度が立ったまま板の周りを囲んでゲームが始まる。順番が来れば自分のパッチを板にたたきつける。その勢いでパッチをひっくり返すか、板の外にはじき出すと自分の獲物になる。中にはだぶだぶの袖の上衣を着て風のあおりを強め、パッチをひっくり返し易くするような試合巧者もいた。
私は負けると母に5円か10円をおねだりして、新しいパッチを露店や駄菓子屋で買ってまたゲームに参加した。この遊びに熱中して野球の投手のように肩を痛める。しかし、それが慢性化することはない。雪解けが終わり路面が乾燥する4月末になると、不思議とパッチ遊びは自然消滅してしまう。誰かが決めた約束事ではないのに、毎年まいねん、これが決まったように繰り返されていた。
そして風薫る五月になると、本州より一ヵ月遅れの桜が咲く。品種はエゾヤマザクラだったろうか?
オホーツク海と濤沸湖に挟まれた細長い砂丘に原生花園がある(上地図)。本州では梅雨がしとしと降るときに、北海道では梅雨がなくて最も爽やかな天候の下でハマナスなど多数の花々が咲き誇る。近年、バックパッカーなど多くの観光客で賑わう6月〜7月には、JR釧網本線の「原生花園駅」が夏季限定で営業されるという。
一口メモ「蟹族」の由来
こうして、涼を求めて本州からバックパッカーが多数押し寄せてくる。1960年代後半から70年代末に、若者たちは横長の大型リュックを背負っていた。それでは、列車の通路を前向きに進めず横歩きしたので「カニ族」と呼ばれた。
若者たちは費用節約のために、車中で一泊できる夜行列車を汎用した。しかし、国鉄の財政の悪化による合理化のために、1975年以降には夜間急行列車が削減され蟹族は衰退した。私は後年サラリーマン時代、深夜京都をたち、早朝東京につく夜行列車「銀河」を愛用した思い出がある。
東京駅のホームで誰が待っていた? それは秘密。
~~転倒してもなお追いあげる選手~~
毎年夏に草競輪が開催された。プロの競輪選手ではなく、北海道各地からやってくるアマチュア選手(自転車店の経営者が中心の競輪愛好家なのだろう)が出場する大会だった。選手のユニフォームが赤黄青紫白とカラフルでかっこよかった。
競技場は現代のプロ競輪場のようなすり鉢型ではなく、網走高台にある学校のグラウンドが一日限りで使われていた。平たい土のトラックなので、コーナーを曲がるときには車輪を滑らせて、横転することがときどきあった。
ある年の大会のことである。先頭の選手がコーナーで横転したのがきっかけで、出場選手の約半数が連鎖的に転倒してしまった。転倒を免れた選手が、これ幸いと先行する。転倒した選手たちが体制を立て直して追いかけるが先頭集団との差は大きい。優勝者が先行集団の中からでることは間違いないと思われた。
ところが、道南の森町(?)出身の竹内という選手が猛然と追いあげて、最後のストレッチで先行者をゴボウ抜きにして優勝してしまった。ウイニング走行をする竹内選手の健闘を観衆が大喝采で讃えた。もう70年も前のことなのに、無名のこの選手の名前を今でも憶えているのだから、少年の私が彼の快挙に感動し、英雄として称えたのがわかるだろう。
この種の英雄譚はめったあることではないが、稀には起こり得る。それをやってのける競技者はよほど優れた能力の持ち主に違いない。
後年、1972年のミュンヘンと1976年のモントリオール両オリンピック陸上種目で、長距離5000mと10000mを連覇した(金メダル4個)フィンランドのラッセ・ビレンという天才選手のことが思い出される。
ビレン選手の驚異的追い上げ
特に最初の金メダルを獲得したミュンヘンの10000m決勝は、いまでも記憶に残る伝説のレースであった。彼は途中(四、五千メートルあたり)で、選手と接触して転倒しながらも立ち直り、ついに世界新記録で優勝してしまった。信じられない強さである。
私はビレン選手の快挙に感動しながら、あの草競輪の竹内選手を思い出した。少年のときの一瞬の感動はいつまでも忘れられないものだ。
学校で最も人気のあるのが相撲である。年中やっており、雪が舞うときでも、体育館にあるマット式土俵で欠かしたことがない。スケートやスキーでも鍛えた力自慢の私たちは、網走神社の大祭に開かれた奉納相撲の小学生の部に参加した。私は準決勝まで勝ちあがったが、他校の猛者にやられて優勝できなかった。
近郊の農村や漁師の若者が出場する大人の部では、優勝したら金一封に副賞として田辺酒造の清酒「君が袖」一升瓶が授与された。
網走近郊の北浜出身の「北の洋」が憧れの郷土力士だった。しばしば、大関・横綱を速攻でたおし「白い稲妻」と呼ばれており、ラジオの大相撲の実況放送にかじりついて応援していた。
大相撲地方巡業(網走場所)
夏になると大相撲の巡業が網走にやってくる。
網走川の堤の砂地(浜網走)に仮設された一日限りの「網走場所」を観戦することは、私たちの最高の楽しみであった。まず開催の前日に力士が分宿する旅館巡りからはじまる。当時テレビがなかったので、大相撲はラジオ中継か新聞、時に映画館のニュースで知るていどだったが、それでも上位の力士の名前と顔をよく知っていた。
旅館の玄関の紙に墨ででかでかと書かれた力士の名前をみるだけで胸が躍った。字の大きさは、横綱大関・幕内・十両・幕下と番付が下がるにしたがって小さくなる。旅館の前で実物の力士にお目にかかることはできなくても、幕内以上の力士なら四股名・風貌・体形などを全て覚えているのだから、想像しながら憧れたものである。こうして旅館巡りをしながら、翌日の観戦への期待がいやがうえにも高まるのだ。
個性的な力士の特色とは?
測量表示は、現代では「メートル・グラム」であるが、私の少年時代には「尺貫法」だった。尺貫法ほど、力士のサイズを実感させる表記法は他にないだろう。たとえば、
当時、最巨漢力士といえば、大起(おおだち)で、体重48貫もあった。最長身力士は大内山(おおうちやま)で、6尺6寸7分だ。相撲愛好少年の私は、力士の四股名を聞けば、たちどころに尺貫法で言い当てることができた。しかし、上の両力士は栄養事情が悪かった半世紀以上も前にしては異常に大きすぎた。
幕内の最小兵力士というと、神錦(かみにしき)だった。筋肉質なのでほかのスポーツに向いた体形だったが、力士としては体重不足で、幕内上位では活躍できなかった。神錦が23貫だから、21貫(81kg)の私は幕内力士として通用するかもしれない!
網走場所
網走場所がはじまった。この日、小学校は休校となり、相撲好きの父の子や金持ちの子は、朝から親に同伴して、土俵に近い上等の席(溜り席)に陣取る。私は、学友と連れだって、土俵からかなり離れた一般席で観戦した。
巡業場所ならではの「初切(しょっきり)」、美声力士の「相撲甚句」、太鼓の「バチさばき」などの余興が楽しい。幕下以下各段の力士が競うトーナメントもあった。地方巡業なのだから、いくら名力士同士でも真剣勝負の取組みとはならないことくらいは少年の私でも知っていた。それと較べて、まだよれよれの「下がり」をつけ、幕内力士のような「大たぶさ」の髪型ではない幕下以下の力士が賞金目指して真剣勝負をするトーナメントの方が面白かった。
こうして、我が少年時代には毎年やってくる地方巡業を見るのが最大の楽しみだったが、年によっては思いがけないことが発生する。
大相撲の巡業は、幾つかの部屋別に分かれて地方巡業するので、横綱が来る年は土俵入りがみられるが、ときには横綱・大関が一人も来ないことがある。ある年には、最高位が関脇の北の洋(御当地力士)と清水川の一行がきた。
小学校の校長(おそらく相撲に興味の無い方なのだろう)が、休校にする必要がないと判断して、相撲見物を取り止めにした。これに相撲愛好少年の我々は猛反発し、担任の先生に抗議した。子供が学校の方針に逆らうなど、前代未聞のことだったろうが、これだけは私には譲れなかったのだ。結局、見物したい者だけに休校を許すと、先生方が折れ、我々は意気揚々と網走場所にでかけた。
かくも“相撲狂い”だった私は、それが昂じて、お江戸の相撲部屋の門をたたけば、176cmだったので入門検査はらくらくパスしただろう。そして、神錦のように幕内力士として活躍できたかもしれない。
――あの国技館の大観衆の前で裸一貫の勝負!
そんな人生を夢想するだけで80歳を超えた今でも胸が躍る。だが、父母は私に学問をさせたくて、中学二年のときに網走から京都に移住した。たしかに私は、親の希望どおり大学に進学したが、卒業後に平平凡凡たる人生を歩んだことがよかったのか? 未だに結論が出ていない。
「5-夏-4」――網走市主催の火祭と「5-秋」――紅変するサンゴ草の能取湖群落地については、第四部No.27に詳述しているので、そちらをご覧ください。
2024年、週末にテニスをしていると、7月になりトンボらしき昆虫が芝生の上を飛び交うようになりました。ふと少年時代、故郷網走で見た『赤とんぼ』を思い出しました。
思い出のトンボは、雌雄が連なるアキアカネです。三木露風作詞、山田耕筰作曲の童謡『赤トンボ』を聞くと郷愁を憶えます。姐や(女中さん)に背負われて見た赤とんぼ、そして彼女が15歳で嫁にいくなんて、現在81歳の私ですら考えられない時代があったのですね。
当時の網走市内の道路は舗装されていなくて、雨上がりの路上には水たまりができていました。そこに赤とんぼが卵を産み落とすために多数飛来するのです。そして、悪童たちが竹箒でそれを捕まえます。
「赤とんぼ羽を取ったら唐辛子」だなんて、無慈悲なことをやったこともある。スマホゲームに興じる現代っ子の方が、心優しいのだろうか?
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~~優勝を呼び込んだ値千金のビンタと叫び声~~
我が家族が北海道から京都に転居し、私は2年生から加茂川中学校に通学した。北海道と較べて京都の教育レベルは高いはずだが、今から60年以上も前のことで、受験戦争などという言葉もなかった時代で、我が通う公立中学には学園生活を楽しむ雰囲気があった。年中行事である体育祭や文化祭のクラス対抗戦で学内が盛り上がっていた。
三年生のとき、我がクラスは演劇コンクールに出場することになった。
【劇のあらすじ】或る中学校で修学旅行が近づいた。主人公マー坊たちは、準備に余念がなかったが、貧しい副主人公源太は行けないようだ。マー坊たちは金を出し合って修学旅行に連れて行こうとしたが、源太が断った。
マー坊たちには、源太の屈折した心情が理解できず、親切の押し売りになっていたのだ。粗暴で僻み根性の源太は反発し、マー坊を殴るなど双方の対立が深まった。
しかし、紆余曲折を経た後に、クラス仲間たちは源太の心情を理解し、源太も学友の善意を受け入れ、クラス全員揃って修学旅行にでかけることになった。こうして劇は終局を迎え、どこからともなく『どこかで春が』の歌声が教室に流れてきて幕が下りる。
主人公マー坊を私が、荒くれ者の源太をノッポで野球部の選手のK君が演じた。
コンクールが近づくと、夜遅くまでハードな練習の毎日が続き、演劇コンクールの日がやってきた。
我々は講堂一杯にあふれる観客を前に、スポットライトを浴びながら体当たりの演技! 劇の中盤に一つの山場が訪れる。放課後、クラス仲間がくつろいで歓談している教室に、突如、荒くれ者の源太が飛び込んできて、諍いが始まる。激高した源太がマー坊の頬に猛烈なビンタを食らわせた。
これは劇の筋書きどおりだったが、源太を演じるK君の遠慮会釈のない張り手一発だった。ビンタの音が講堂に響き、マー坊こと私は、目の前が真っ白になった。
次の台詞をいう前に「お~お、痛~ッ」と、ついつい叫んでしまった。このビンタのド迫力と私への同情からか、観客席から一斉に溜息が漏れ出る。
K君は、初舞台の緊張と高揚感からか、迫真の演技をやらかしたので、私は大変な被害をこうむることになったのだ。
コンクールの結果、我がクラスが学年優勝の栄誉に輝いた。劇のテーマが正統でシリアスなものであったこと、出演者全員の用意周到な準備と熱演、そしてK君のド迫力演技によるものだろう。
優勝すると、全学年の生徒と父兄に向けて更に二回発表することになった。一回目は、今ひとつ気合いが乗らず、演技のあと審査委員から、「今日はだらけていて全然だめだ。そんなことでは困る」と、叱られた。それに発憤して、父兄を前にした二回には必死に頑張った。審査委員の先生から「今度はよかった」と褒められ、我々は小躍りした。この経験から、何度でも撮り直しのできる映画とは違って、舞台劇は一回一回が真剣勝負となる厳しいものがあることを学んだ。
私は北海道の田舎町から大都会京都に移り住んで、戸惑いとコンプレックスを抱いていた。しかし演劇コンクールをつうじて級友との交流を深めることができた上に、優勝したことが大きな自信となったように思う。
実は、主人公の「マー坊」役は、学業成績、人望ともに私より優れているT室長が演じるものと見られていた。しかし、慎み深い彼は、”目立ちたがり屋”の私に主役を譲った。副主人公源太を”体育会系風貌”のK君が演じたのも適役だった。学業成績よりも、適材適所の配置が大切であることを物語っているのかもしれない。
■荒くれ者の源太ことK君への誤解
私は数十年に亘り、ある誤解をし続けていたことがある。
2000年、京都『しょうざん』で中学三年生の同窓会があり源太役を演じたK君に再会した。卒業後、銀行に就職したK君は人をそらさない柔和な話しぶりで、私が抱き続けていた彼のイメージ(あの源太のように、少々粗暴で、コワモテ)とは正反対だった。
K君とはあの演劇で共演するまで、そしてその後もあまり付き合いがなかったために、強烈な源太のイメージがそのまま彼と重なり持続しつづけていたのだ。
それにしても、あの本番とお披露目公演、都合三発のビンタを受けた遺恨は、半世紀を経過した今でも忘れられない!
「お~お、痛~ッ」
それは、心底から発し、優勝を呼び込んだ、値千金のひと声であった。
~~母とは切なくも、悲しい存在か?~~
■ 出生の秘密
15歳の春だった。あと一ヵ月もすれば、満開の桜の下で高校の入学式が執り行われるだろう。京都西陣地区の住む私は、府立山城高校に入学することになっている。
三月のはじめころ、父に呼ばれて居間にいくと、父母の他に叔父がいた。その叔父が、
「これをちょっと見てごらん」
と、私に一枚の紙片を見せた。それは、今にして思うと、戸籍抄本というもので、最初に見知らぬ男女の姓名、その次に私の名前、そしてその後に、我が父母の名前が書いてあった。
私はその意味が深く理解できたわけではないが、ただ事ではなさそうだ、と直感が働いた。ふと母を見ると、今にも泣き出しそうな顔をしている。
ここで、取り乱してはいけない! 15歳の少年ながら分別が働いた。
「わかった」
ひとこと言っただけで終わった。
しばらくして叔父が帰っていった。戸籍抄本は入学手続きとして高校に提出しなければならないそうだ。いずれ、私が『養子』であることが分かるだろうから、叔父に頼んで今のうちに知らせておこうと父母は覚悟を決めたようだ。
我が家が京都に移住してからこの年で三年目、私は春のこの頃、毎年朝顔の苗を庭に植えることにしていた。叔父や父母の前では平静を装っていたものの、朝顔の苗を植えながら、先の戸籍抄本のことを思わずにはいられなかった。我が出生の秘密を知ってしまった驚きがじわじわと胸に迫ってきた。
もう黄昏時で猫の額ほどの狭い庭は、臨家の壁にさえぎられて西日も差し込まず、薄暗かった。
「昭、ご飯よ」
母の声がした。
仏間をはさんで向こうに居間が見える。父母と妹が食卓をはさんでいた。
――あの三人が私と血のつながっていない他人なのか?
しばらくすると、また母の声がした。
すぐにも行かなければならない、と思いながらも、体が動かない。
この庭と居間の間、わずかに十メートル足らずが無限の距離に思われ、私は薄暗い闇の底に沈んでいた。
それからの二週間、私は寝床で我が運命を思い続けて、枕を濡らした。私の実の父母とはどんな人なのか? 実父は実母が私を身籠ってる間に病死したという。では私は、網走に住んでいる間に生みの実母に会ったことがあるのか?
ふと思い当たることがあった。
私が小学生のころに、ある親戚のおばさんが我が家に泊まりにきたことがあった。たまたま私はそのとき風邪で臥せっていた。枕元にそのおばさんがきた。じっと私を眺め下しているらしいおばさんの視線に耐えかねて、私は目を開けた。
「○○のおばさんですか?」
おばさんは、そうよ、とくぐもった声でいったが、寝室が薄暗かったので顔が定かではない。
――きっと、あの人が実母にちがいない!
と、思い至った。
一ヵ月もすると、私は出生の秘密が事実だとしても実感がどうしても湧かない。今の養父母こそが実の親だと思えてならなかった。それは、養父母が私を実子のように愛育してくれたことへの信頼感が深かったからだろう。
■ 北海道旅行
高校を卒業してから二浪して私は大学生になった。
一年生の夏、北海道旅行をすることになった。
生まれ故郷網走への途上、産みの母の家に立ち寄ったらいい、と父が勧めてくれた。だが、母が反対した。なぜ、と訊くと、
「生みの親の処へ行ったら、もうここへ帰ってこなくなるから」
と言うので、私は笑ってしまった。そんなことなど、あり得るはずがない!
父が説得した結果、母は同意したが「ただし、一晩だけ泊まるように」と釘を刺した。
これにも、私と父は顔を合わせて苦笑した。
が、二十年もの親子の生活をしていながらも、実の母子の関係を意識したとたん、育ての母がこれほどの不安を抱いている。ようやく養母の悲しみを知ることになったのだ。
夏休みに入ると、私はさっそく北海道へ旅立った。網走から京都に移住してから7年後にはじめて生まれ故郷にいくことになる。急行「白鳥」で日本海岸沿いを北上し、青函連絡船に乗った。
戦後まもなくのころ、幼少の私は父に連れられて網走から父の故郷滋賀県へ行ったことがある。そのころは、衛生状態が悪いために、青函連絡船に乗る時に、DDTの白い粉を頭からかけられたことを思い出す(上の絵図:こんな毒性の強いものが使われていた)。
だが、戦後約20年が経過している1964年(東京オリンピックの年)には、日本は復興し経済的に発展しているので、快適な旅ができた。
北海道では、まず、産みの母の家に立ち寄ることになった。駅に降りると、兄が迎えにきてくれていた。気さくな人で、すぐに兄弟の関係になった。
母の家には、母と上の姉がまっていてくれた。母には二人の娘と二人の息子がいた。この日は、下の姉が所用で来られられなかった。四人の中で、上の姉と兄は中肉中背で、下の姉と私が長身で体形が似ているそうだ。
その下の姉の写真を見せてもらった。地元の衣服のファッション・ショーに出たときのものらしく、とてもスリムな美人だった。この姉に会えなかったのは残念だったが、今日まで会えずじまいのままである。母はそのころ五十歳くらいだったろうか、やや小太りしたふくよかな顔をしていた。母と姉兄と四人で楽しい語らいがつづいた。私は養父母の家庭では妹のいる長男であったが、ここでは末っ子であることが快かった。もし、養子にでなければ、三人もの姉兄の末っ子として甘えて暮らしていただろうか?
しかし、現実はそんな生易しいものではなかったようだ。戦中に夫を病いで喪った母には、三人もの子供がいるうえに私を身籠っていたのだ。生活に困窮した母は、生まれ落ちたばかりの私を、子宝に恵まれていない親戚夫婦に養子にださなければならなかった。戦後の混乱期にも母は幼少の三人もの子供を抱え苦労したであろう。
養子に来た私には一年もたたないうちに、実子の女の子が生まれた(私の妹である)。が、養父は私を実子のように可愛がり、親戚のうちでも評判の子煩悩であったという。私を二浪の末、大学に入れてくれた。おそらく、実の姉や兄はそのような恵まれた生活はできなかったであろう。
母と姉、兄と親子水入らずの楽しい語らいの中で夕食が終わった。母が家の中を案内する。
ある部屋に二人だけで来ると、母がいきなり私の背中に抱き着いてきて、私を困惑させた。
この母が、生まれて間もなく私を養子に出したときから、二十年後の今でも我が子として思い続けていることがわかった。だから、私は母の思うがままにさせて立ち続けた。
そのとき、私は京都の養母をふと思った。
実母に会うことに反対した母、そして今わたしに抱きついている母。立場が異なれど、我が子を思う気持ちに差はないのだろう。私は、
――母とは切ない、悲しい存在なのだ。
と思わずにはいられなかった。
養母の希望どおりに、私は実母の家には一泊しただけで、網走に向かった。兄は母の仕事を引き継いで、洋品店を経営していた。生活が安定しているらしいことを知って安心もした。
生まれ故郷「網走」に向かう車中で私にはまだ実母の家にいた余韻が続いていた。
じつは、私の母は、依然京都にいる養母であり、実母は親戚のおばさんにしか思えなかったのである。養父母との二十年間の幸せな生活による強い絆があったからだろう。産みの母もそれを理解して許してくれるだろう。
■ その後
一ヵ月後に京都に帰った。母が安堵の胸をなでおろしただろうが、実母に会ったときの話題には母から問われず、私からも話はしなかった。それでいい。養父母と妹、そして私の四人の平穏な家庭生活がつづいた。
母はその一年後に肺結核で亡くなった。北海道という過酷な気象条件と、ストレプトマイシンやPASのような化学療法剤が未だ普及していなかった戦後まもなくの頃に発病し、その後も病状は一進一退がつづいていた。肺結核が亡国病と恐れられていた時代の最後の犠牲者だったろう。
実母はその後も十数年、生き続けたが、あるとき病死したとの連絡を受けた。
浄土真宗の門徒である父は、私を西本願寺に連れて行って、仏事をした。
「これですべてがおわった」
と、父がいったのを覚えている。義理堅い父が仏事をすることにより、養子にくれた実父母へのお礼のけじめをつけたつもりなのだろう。
その養父も二十年前に亡くなって、私はいま80歳の老境に達している。これまでの人生を平平凡凡とすごしてきたにすぎないが、そのことに些かの意義があるとも思えるのだ。私は、我が子を残したまま夭折することもなく、これまで生き続けている。かつて自らが経験したような悲しみが、我が子供や孫にはないことが幸いである。
そして私は、二人の母が抱いた “切なくも、悲しい思い” を記憶にとどめながら、やがて死んでいくことだろう。
~~共に励まし合った夢の結末~~
私には高校時代から続いている『紺野』という親友がいる。彼とは、3、4ヵ月も経つと、特にさしたる理由もないのに会ってみたいな、と思うようになるのだから不思議だ。
そんな私の思いが通じたかのように、たいていは向こうから電話がかかってくる。会ったら、仕事のこと、妻や家庭のこと、女の話など、さして重要とは思われないことを話題にして、毎回飲んだり食ったりしていた。そんな話をして友と数時間過ごすのが忙中閑ありで、二人にとっては、ささやかながら心のオアシスになっているようだった。
紺野と私は、一つだけとても真面目な話をしたことがある。それは、二人の『夢』だった。私の夢は薬学博士になることで、彼の夢は司法試験に合格して弁護士になることだ。
優秀な人なら、大学院の博士コースにすすめば二十代後半には博士になれるし、大学の法学部に進学して司法試験対策のための勉強に集中すれば、30歳までには司法試験に合格できるだろう。ところが、できの悪い私は、大学院に進学できないまま、大卒で会社勤めをすることになったし、紺野も専門が異なる大学の学部を卒業後会社に就職した。お互いに本格的に博士や弁護士を目指したのが、三十歳を超えてからなのだから、これでは、まるで陸上の一万メートル競技で、先行集団から一周遅れのランナーみたいなもので、優勝はとても望めそうにない。
二人は目覚めるのが遅かったし優秀ではなかったのだから仕方のないことだ。
が、それでも人生には遅れて参加する者にも、努力さえすれば必ずチャンスがあるものだ。そう信じて、紺野と私はそれぞれの夢に向かって努力した。
チャンスは私の方に早く巡ってきた。
30代後半にある大学の薬学部へ会社から一年間出向させてもらうことができた。そこでコネのできた教授の指導をうけながら、会社にもどってからも博士論文のための研究をつづけた。平日は就業後の夜に、そして土日にも会社に出勤して研究に励んだ。五年間、ほとんど家庭を顧みずに研究に没頭していたので、子供には冷たい父親だったろう。
大学に論文を提出して博士号を取得できたときには、もう四十歳を越えていた。大学院でドクターコースを卒業した博士と比べると十数年の遅れだった。それだけに、私は嬉しかったし、仕事への意欲もいっそう高まった。
一方、紺野は会社を辞めて、物流関係会社の管理人などのパートタイマーという不安定で薄給に甘んじながら、司法試験の勉強を続けた。奥さんが働いて家計を支えてくれているのだ。彼は性格がとても穏和で、心優しい男だった。子煩悩で、野球少年団に入っている息子の世話をしたり、試合があれば遠征にまでよく同行していたようだった。しかし、そのような優しいパパぶりは、反面では肝心の司法試験の勉強には抜かりとなっているのかもしれない。毎年司法試験に失敗しつづけ、気がつけば40代も半ばを過ぎていたのだ。
■友の挫折
その頃、私は久しぶりに京都のレストランで紺野に会った。彼がいつになく元気のないのが気がかりだ。食事がはじまってしばらくした頃、紺野がぽつりぽつりと話し出した。
「オレ、司法試験をあきらめたよ。もう能力の限界を感じたし、家族にこれ以上迷惑をかけられないからなあ。今度、小さな会社に勤めることになった」
「そうか・・・」
私には次の言葉がでてこない。とても、就職おめでとう、とはいえない。何か重苦しい気分の中で、私たちはしばらく無言のまま食べていた。
そのうち、紺野がいった。
「これからもオレとつき合ってくれるか?」
わたしは、驚いた。
「何をいうんだ。当たり前じゃないか! 永いつき合いだ。これからも時々会おうぜ」
そういったら、いきなり彼の手が伸びてきて私の手を握り、
「ありがとう、ありがとう」
と、いって紺野が泣き出した。
その瞬間、私は彼の気持を察する余裕もないまま、周りの目が気になった。横のテーブルの客がジロジロと我々を見ている。むくつけき中年男が、相手の男の手を握って泣いている。これは、尋常なことではない。私は恥ずかしくなって、テーブルから手を引っ込めた。
だが、そのときの彼の心の裡はいかばかりだったろう。
司法試験に合格して弁護士になる、そんな夢に人生を賭けてきたことを断念しなければならなかった、挫折感、無念な思いが紺野にはあったのだろう。また、共に誓い合った一方の私の方が夢を実現していたので、彼は私への負い目もあったのだろう。それだけに、私が変わらぬ友情を持ち続けていることが、彼には嬉しかったようだ。あのときの彼の心中を察すると、いま思い出しても本当にせつなくなってくる。
友人と抱いた夢には難易度に差があった。
博士になることは、さほど困難ではない。日本では、大学はもとより企業ではたらく理系の研究者も博士になれる。私の勤めていた企業の研究所には、“石を投げたら博士に当たる” といわれるほど沢山いる。
一方、紺野が目指す司法試験はどうなのだろうか? わたしの専門と違うので分からないが、彼の苦労を見ていると博士になるよりかなり難しそうに思える。
中国には官僚任官試験として、漢代から清王朝まで『科挙試験制度』があった。浅田次郎の小説『蒼穹の昴』にも、帝都での最終試験の厳しさが描かれている。紺野の目指す司法試験もかなり難関だったのではないかと想像されるのだ。
しかし、ひとたび夢を抱いた以上、それを実現させなければならない。夢を実現できるかできないかは、その後の人生を大きく左右することを、紺野のその後を見たらわかる。
だが、どうあろうとも、友情にかわりはない。