1968年に大学薬学部を卒業した私は、製薬会社に入社して研究所に配属された。我が研究課の業務は開発中の新薬の吸収・分布・代謝・排泄を研究することである。
実験に使う動物はマウス(ハツカネズミ)、ラット(純系化したドブネズミ)、ウサギ、猫、猿、犬などである。
ラットがドブネズミだと書けば、読者は、都会の下水などに生息するあの汚いネズミを連想して、眉をひそめるかもしれない。実験に使うラットは長い年月をかけて純系化した白い毛並みと赤い目をした可愛い動物である。
あるとき、研究所ちかくの下水で白と黒のブチのある奇妙なネズミが発見された。どうやら、研究所から逃げ出した愛らしいラットをドブネズミが見初めた結果、生まれたハーフ(?)らしい。
薬を服むと、薬は主に小腸から吸収され血流に入る(薬を注射した場合には直接血流に入る)。その後、薬は体の組織に分布する。頭痛なら脳で、炎症ならその部位で薬は効果を発揮する。薬は主に肝臓で徐々に代謝されて、最後に尿糞中に排泄されて体外出る。
動物実験で血液や組織中の薬物濃度を測定すると、コンピュータでデーター解析が行われる。1970年代にはIBM社製の巨大なコンピュータだった。発熱するので電算機室には冷風が吹き荒れ、機械音がゴーゴーと唸る中で、数値計算をしていた。それが今では卓上のパソコンで同じ能力があるのだから、科学技術の進歩には驚かされる。当時の私は、時代の最先端をいく大型コンピュータを使うことに熱中していた。
■ 村から飼いネコが消えた?
私の学生時代には、サリドマイド事件をはじめ薬害事件が世間を騒がせ、医薬品の有効性と安全性が強く要求されるようになっていた。だから、私が製薬会社で新薬の開発に従事するようになった頃から、薬の有効性と安全性を科学的に証明することが重視されるようになった。それに伴い、純系化した(つまり由緒正しい)実験動物が使われるようになった。
それまでは、実験動物の品質はいい加減なものだったらしい。例えば、猫についてはこんな話を聞いたことがある。
先輩研究員のAさんは猫を薬理実験に使っていた。近郊の農村から通勤していた彼は研究熱心で、業者から買った猫を使い果たしたために、ひそかに村の野良猫を捕まえて実験に使ったらしい。そのうちに、村中の飼い猫までいなくなり、「どうやらAさんが怪しい」と、噂がたったそうである。愛猫をしらぬ間に実験で殺された村人にとっては、迷惑なことだろう。だが、野良猫はもとより愛玩動物として村人が飼っている猫は、雑種なので、実験結果がばらついて信頼性のあるデーターが得られないのだ。
犬も同様で、それまでは最寄りの保健所で殺処分する予定の野良犬を譲り受けて実験に使っていたので、いい実験結果が得らにくい。
私が勤務するようになったころからは、国内外の飼育業者(動物農場)が計画的に産ませ、よく管理して飼育した純系の動物が提供されるようになり、実験の質が向上した。こうして、研究所内の生き物は、全て純系である。ただし、研究所屋上に出没するドブネズミと研究員と呼ばれる人間だけは例外で、育ちの悪い雑種ということになる。
実験犬は、英国でもともと王侯貴族がキツネ狩りに使う猟犬であるビーグル犬を系統的に育てて供給されていた。だから、一匹10万円もする高価なものだ。1970年ころ、4万円程度の安月給取りの私は、由緒正しい家柄の高価な<お犬様>を使っていたことになる。
■犬との蜜月時代
薬理研究課から数匹の中古ビーグル犬を譲り受けて、本格的な犬実験がはじまった。犬実験の多い私が、犬の世話係になった。毎日屋上の犬舎にいって水と餌をあたえ、檻内の糞尿の掃除までやった。
犬に名前もつけてやった。四十数年後の今でも、三匹の名前だけは憶えている。一番元気のある雄犬に「太郎」、おとなしい雌犬に「なでしこ」、そして「胃郎」。「胃郎」とはヘンな名前だが、薬理試験で胃液を体外に流出する瘻管(ろうかん)の導入手術をして生き残った犬だからである。私はそれまで犬を飼ったことがないが、とても人懐こい動物である。階段をのぼり屋上に近づくだけで私の足音に気付き、犬たちはいっせいに吠え出して、私を歓迎する。
犬との蜜月は、しかし一年後に終わった。
――屋上の犬の鳴き声がうるさくて、夜も眠られない。
近隣の住民から苦情がでたのだ。
そこで、動物管理課の獣医の資格をもつ研究員が声帯除去手術をすることになった。しかし、この難解手術が初体験の獣医は、私が可愛がっている犬を次々と死なせてしまったので、泣いてしまった。
■高まる犬の需要
私が入社して十年目ころだったろうか、発展し続ける会社は、新薬開発に拍車をかけるために新研究所を竣工した。
そして、我が研究部門もそこに移った。新研究所では、屋内に犬の居住施設が完備しており、糞尿の掃除係も別にいる。もはや近隣住民からの苦情も言われずに済んだし、使用するビーグル犬も真新しいものを購入できた。だが、増え続ける業務に対応して犬の数も増えた。
ここで避けられない事実を述べねばならない。それは、実験(薬物投与)を重ねるにしたがい、犬に与える未知の障害が懸念されることだ。外見上は健康そうに見えても、どのような障害が犬の体内に発生しているかは分からず、ひいては、実験の信ぴょう性にも疑問がある。だから、投薬実績を配慮して、一定期間後には犬を殺処分しなければならなかった。接するたびに親愛の情が深まっている犬を殺処分するときは、『動物愛護の精神』に従って安楽死させるとはいうものの、心が痛む。
だが、更に犬が増え続け、毎年新規購入の犬と殺処分の古い犬との回転率が高まると、もう犬への思い入れの情など入り込む余地がなくなってしまった。かつては、「太郎」、「なでしこ」、「胃郎」と呼んで犬への親愛の情を寄せていたのに、今や犬の名前はなくなって購入時の《入れ墨》による識別番号だけになってしまった。
■尾っぽの生えたビーカー
あるとき、ドイツから提携会社の研究者が我が社を訪問した。そのとき懇親会の歓談中に、一人のドイツ人がこういったのを今でも鮮明に覚えている。
「実験動物は、犬でも猿でも、皆《尾っぽの生えた試験管》ですよ」
こう平然と言い切った彼に、私は半ば同意しながらも、それはちょっと違うなとも思った。それは、犬への思い入れがあったからだろう。
試験管はしょせん無生物であるのに対し、動物は生き物である。なるほど、マウスやラットとは心を通わせることは無理としても、犬や猿には喜怒哀楽の感情があり、人となにがしかの心の交流ができる存在なのだから。若かりし頃、「太郎」、「なでしこ」、「胃郎」と呼んで犬と仲良くしていたころが懐かしく思えた。
だが、時が経ち、私は平社員から係長、課長、部長へと昇進し、いっぱしの学者のような気分にもなっていた。が、もうその頃には、次年度の予算計画書に、ビーグル犬○○匹購入と書き入れるだけで、その裏で、役目を終えた犬が殺処分されることなど考えもしなくなっていたのだ。
■俺は犬殺し!
若かりし頃のこんな思い出を最後に紹介しよう。
ある日、仕事を終えて、夜道をあるいていた。なにやら、私の後をつけてくるものがある。振り返ると、野良犬らしい。私を見上げて、尾っぽを振っているところを見ると、私を襲うような気配はなかった。
思い当たることがある。このところ会社で毎日犬の実験が続いている。ビーグル犬は独特な体臭があり、知らず知らずのうちにその臭いが我が身体に染みついているのかもしれない。だから、
――この野良犬は私を仲間と勘違いしているのか?
犬に微笑みかけていった。
「おい、シロよ! おまえ、気をつけた方がいいよ。おれ、本物の『犬殺し』なんだからな。バイバイ」
~~会社での友情とは~~
とかく利害が複雑にからみ合い、またライバル関係になりかねない会社の中で、友情は育たないものなのだろうか? 私はそのことで痛切な悔悟の思い出があった。
私が勤務していた研究所に佐川という私と同年配の男がいた。佐川と私は同じ部に所属したことがあり、それ以来二人は親しくなった。私が課長のときに佐川は部長代理、私が部長代理のときに佐川は部長と、いつも彼の方が一ランク上だったが、対等な付き合いがつづいていた。
製薬会社の研究所の業務は、大きく分けて、
合成・薬理部門で新薬の卵を発見し、薬物動態・安全性部門が有効で安全な新薬に育て上げる役割分担がある。佐川と私は後者の部門に属していた。安全性研究は法規により、管理責任者の佐川には常に個室が与えられていた。社内は禁煙だったが、佐川の部屋では自由に吸えた。さらに、納入業者差し入れのブランディーやウィスキーが佐川の戸棚に隠し保管されていた。
私はよく佐川の部屋に出向き、紅茶にブランディーを少し混ぜて飲んだ。社内では飲酒厳禁であったが、赤ら顔の佐川とテニスで黒く灼けている私は、まるで教師の目を盗んで悪事をはたらき、舌をぺろりと出して喜び合う悪ガキのように、密やかな喜びを共有していた。残業で忙しくしている部下を尻目に、佐川と私は、早々に退社して会社近くの飲み屋に入り浸ることもあった。
二人は、合成・薬理部門の独善的態度をやり玉にあげていたし、公平さを欠いた運営をしている研究所長批判をよくやって溜飲が下がるのを楽しんでいた。佐川の舌鋒鋭く執拗な他部門批判を聞いていると、
――もしこの男を、敵に回すようなことになったときには、手強い相手になるのではないか?
私はふっとそう思うこともあったが、これまではそのようなこともなく、よい関係が続いた。厚労省への申請業務や提携会社との会議などで、東京へ一緒に出張することがよくあった。席上、佐川が厳しい質問をうけて困惑の表情を見せると私は直ちに相の手を入れたし、佐川も私を助けた。
それは、単なる会社の同僚という枠を越えた、友情のようなものが相互にあったからだ。帰りの新幹線の車内ではビール党の二人は、缶ビールで今日一日無事に仕事を終えたことの祝杯をあげながら、ほろ酔い気分で帰った。
■佐川が上司となる
そのうちに、佐川は研究所を出て外国部へ異動し、重役に昇進した。この頃から佐川が私に対して研究所時代のようなザックバランな態度がなりを潜めてきたように思えた。たぶん、そう思うのは私のひがみ根性によるもので、佐川はその頃から有能な会社幹部へと脱皮しようとしていたのだろう。
私のような研究者一筋といえば聞こえはいいが、研究所を一歩でれば何の使い道もないような無能者とくらべて、佐川は会社全体を見渡せる広い視野をもつ実力者なのだろう。
私は55歳のとき、研究開発本部の人事異動により、第二研究所長を拝命した。そして、佐川が横滑りの形で研究開発副本部長(重役)に就任した。こうして、私ははじめて佐川の部下となった。
会社ではこういうことがあるものだ。佐川との過去の友人関係はひとまず措いて、部下に徹していこう、と私は決意した。
半年後から、海外導出・海外委託製造・北海道工場への技術移管など、私の第二研究所に関わる業務は多忙を極めた。そこに北海道工場との関係で難問が発生した。
佐川副本部長の日頃のモットーは『問題が発生したら即行動をおこす』であった。私は佐川のそんな決断力を高く評価していた。だが、その速やかな行動が相手にとって迷惑となる場合もあるのだ。そのとき北海道工場は、道庁薬務局の査察を受けるための準備で大童であり、他の問題に対応する余裕のないことを、部下からの報告で私は知った。
北海道工場への対策会議が開かれた。
佐川は私に「すぐにも北海道工場へ出向いて問題の解決にあたるべきだ」と主張した。
一方、私は事情を説明して、「今はいくべきではない」と反論した。
議論は平行線をたどり、数度のやりとりの後、ついに私は怒鳴ってしまった。
「これだけ言っているのになぜ分からないのだ!」
翌日から佐川は私に口をきかなくなっていた。そして、二、三日後、研究開発本部の幹部の飲み会があった。
酔いが回って酒席が活気づいてきた頃、佐川が私と二、三言葉を交わしてから、いきなり私の胸ぐらをつかんだ。佐川の赤ら顔は赤黒く怒りに充ちみちていた。しかし、私はいっさい抵抗をしなかった。もし佐川が殴りかかってきたとしても私は堪えたであろう。
あの会議で、上司が自己の信念にもとづいて主張し、部下も自己の情報に基づいてそれに反論した。互いに己の信ずることを主張する限り、それはそれでいい。部下が一方的に折れる必要はない。必要なら本部長が判断を下して、どちらかの意見を採用すればいいことなのだ。私はそう信じていた。
にも関わらず、私が怒鳴ってしまったのは、佐川に対する格別の思い入れがあったからだ。
――佐川よ。お前とオレは研究所時代からの肝胆相照らす仲ではないのか。オレがこれだけ言っていることをなぜ分かってくれないのだ。友達甲斐のないヤツめ!
だが、これは『私情』の吐露である。甘えである。会社で絶対やってはいけない『公私混同』なのだ。そして上司の体面を甚だしく傷つけたことにもなる。
私はこう己を責めた。
その後、佐川と私は表面上は友好的な上司部下の関係を保っていたが、心を許す関係には戻らなかった。
一年後、佐川は資材輸出入部担当の重役として異動した。
あるとき、私の元部下で今は佐川の部下となっている男に仲立ちしてもらって、一席持つことにした。上司部下の関係が切れた今、私は佐川と仲直りしたかったのだ。佐川は韓国出張から帰国したばかりで風邪気味だったが、義理で出てきたという態度が透けてみえた。
もう、研究所時代のような楽しいかたらいは影をひそめており、少しも快く酔う気分にはなれなかった。
ーー覆水盆に還らず。
私はもうこれっきりにしようと決意した。
■消えた掃き溜めの鶴
2003年6月26日、60歳の誕生日に、私は定年退職した。恒例の各部署への挨拶回りがある。佐川の部署にも行った。挨拶すると、佐川は部下たちに大きな声で紹介した。
「皆さん起立! 第二研の所長様が、定年退職のご挨拶にこられました。長い間お世話になり、ありがとうございました」
佐川が深々と頭を下げながらいうと、部下たちも、「ありがとうございました」と唱和した。
佐川の部署を辞して会社の構内を歩きながら、佐川のわざとらしい大仰な態度を思い続けた。私にとって、今日一日の別れの中で、これほど偽善に充ちて、屈辱的な思いにさせられたことはない。
もう、何時帰ってもよかったが、私は夕刻までとどまった。
じつは、退社まで一、二ヵ月を残すのみとなった頃に、身辺整理をしていたら古い社内報が出てきた。そこに懐かしいエッセイが掲載されていた。入社3、4年目に書いたものである。
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~~掃き溜めに鶴~~
私の職場は、勢多川の支流沿いにある研究所の建物の一階である。
好きな宮本輝の小説の題名をそのまま拝借したような『泥の河』が研究所の傍を流れており、時々猫や犬の屍体まで浮かんでいる。悪臭が研究所まで漂ってくるので、職場の窓を開けることもできない。
研究所前の通りをちょっと西に向かうと、その川に小橋が架かっている。
ある日、帰りがけに橋のあたりを眺めると、パステル画を思い出すような美しい光景が浮かび上がっていた。
太陽が西の山際にしずむころ、橋の周辺には青味が退色するにつれて、淡い紅色がさしてくる。時の移ろいの中で茜色を増しながら、裸電球の光線がアクセントをつくる。やがて、その鮮やかな色も褪せて、闇が橋の上に忍び寄る。それからは、殺風景な電灯の明りだけが残り、なんの変哲もない工場地帯の夜景が橋を支配した。
もっとも美しいときは、ほんの十数分間だけだったが、見とれていた私は、
――これは、掃き溜めに鶴!
と思った。
私は、理科系人間で、絵画的センスにも欠けているのに、この美観に心を奪われている自分が、信じられないほどである。
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ここのエッセイを書いてから何年か後に、新築の研究所に移ったので、もうその川と小橋のことも忘れてしまっていた。
が、このエッセイを見つけたことがきっかけとなり、退職するこの日、もう一度あの小橋に行ってみたい、と思った。
会社の敷地の外側を一巡してから、小橋に立つ。悪臭はまったく無かった。護岸工事が施され、セメントで固められている河床の中央の溝には、清水が流れている。川上に眼をやれば、ところどころに樹が植えられている。まるで高級住宅地の中を流れる川のようである。あれから、30年のときを経て、都市環境の激変を目の当たりにした思いである。そして黄昏どき、ちょっと離れたところから、橋の辺りを眺めてみた。
が、もう『鶴』はいなかった。そのとき、ふっと佐川を思った。
部門間競争、上司部下・仲間同士の軋轢、出世レース、様々の打算やエゴが渦巻く会社の中に、友情があり得るのだろうか? もしあるとしたら、それは『掃き溜めに鶴』のような、かけがえの無いものだろう。が、天は人に会社の環境という厳しい試練を与えて、友情を試しているのだ。私はその試練に耐える覚悟も何もないまま、あっさりと『鶴』を捨ててしまった。自分はその程度の人間にすぎないのだろう、50歳をとうに過ぎて、人間的に成熟しているはずなのに。
そう思いながら会社を後にした。
それから2年後、私は日本語教師として西安市にいる。こちらで数度夢を見た。そのなかで、佐川が我が名前をしきりに呼びながら擦り寄ってくるのだ。そのつど私は「うるさい! 近寄るな」と怒鳴り散らす。そして、目を覚ます。フロイトの夢分析ではどう解釈されるのだろうか? 街灯に照らされて揺れる窓外の樹々を眺めながら私は考える。
こんな夢をそれからも、年に一、二度見ることになる。夢を見なくなったのは、中国へ来て五年くらい経ってからだった。
過去を忘れ去って、新天地で第二の人生を追い求めているはずの私だったのだが・・・
日本語教師として旅立ち
旅客機がゆっくりと関西国際空港を飛び立ち、波立つ朝の海が傾きながら遠ざかっていった。しばらくして、巡航高度を保ちだした頃、私はカバンから一通の手紙を取り出した。それは、昨日娘から手渡されたものだった。
――お父さんへ
昨年会社定年退職の際に言いそびれたので、今になってこのような手紙を書いています。長い間私たちのために一生懸命働いてくださり、お疲れ様でした。そして、常に向学心を持って、努力しているお父さんにはただただ頭が下がります。と同時に、娘としてお父さんがとても誇りです。明日からは、新天地中国であらたな出発ですが、呉々も体には気をつけて、あまりがんばり過ぎないよう、そして楽しく毎日を送ってください。近況報告を楽しみにしています。たまには帰ってきてくださいね。お母さんも淋しがっていると思うので。
2004年10月17日 千春
1年前に、男児を出産した娘は、私の家から歩いて5分ほどの近くに住んでおり、ほとんど毎日のように顔を合わせているのだから、こんな手紙を書く必要などなかったのだ。面と向かって話すのが恥ずかしかったのだろうが、娘が親父の背中をしっかりと見ていてくれたのは嬉しい。
私は35年間、製薬会社の研究所に勤めていた。定年後、日本語教師の資格を取得するために、1年間、週に3回、『日本語教師養成学校』(420時間カリキュラム受講)まで片道2時間を自転車で通学していた。だから、「常に向学心を持って、努力している」とは、将来に備えての当たり前のことをやっていただけなのだが・・・
ともあれ、”すまじきものは宮仕え”のサラリーマン生活を無事終え、二児を育て上げて結婚させた今となっては、父親としての責任からも解放されたのだ。残りの人生は、自分自身を中心に生きていきたい。私はそんな願いが実現されようとしていることに満足しながら、航空機の座席に身を任せていた。過去を忘れ去って新たな目標に向かおうとしている私を乗せた機は、まもなく北京空港へ到着し、トランジットのあと、目的地西安へと向かった。
■ 外国生活への憧れ
私は大学で薬学を学んだ後、製薬会社の研究所に勤務した。四十代で課長になった頃から、外国の製薬会社との業務提携(医薬品の導入・導出)により、しばしば外国企業の研究者が来社して会議をしたり、私自身がアメリカに出張する機会が増えた。
――アメリカに着いたら、特大のビーフ・ステーキをたらふく食ってやろう!
大食漢の私はいつもそう思って旅立つのだが、現地に着くと時差ボケと仕事のストレスで食欲不振に陥ってしまったものだ。
アメリカ人とは身勝手な国民で、話し相手が何処の国民であろうと英語で話すのが当たり前だと思いこんでいて、まるでマシンガンをぶっ放すように早口でペラペラと捲し立てるのだ。
こんな会議を1、2週間つづけた後に、ロスアンジェルスから帰国の途につく。ようやく安堵した気分で機窓から雲海を眺めながら、もう二度と海外出張などやりたくないと思ったものだ。が、また1、2年後には同じことの繰り返しだった。
だが、そんな気苦労の多い外国旅行でも、ほんの一、二日立ち寄るだけの見知らぬ土地の風物や人の暮らしを垣間見るうちに、いつの日にか、現地に長逗留してその土地の魅力に触れてみたいと思った。そこが世界中の何処でもいい、とにかく未知の土地で暮らすのを老後の生き甲斐にしてみたいとの思いがつのるばかりであった。しかし、さて、そのためにはどうしたらいいのかが、まだわからなかった。
■すまじきものは宮仕えから『日本語教師』へ
40代半ば、私は日本の製薬会社で20人の部下をもつ研究所の課長だった。部下を掌握して着実な業務管理によって上司の評価が良かったので、そろそろ部長になれる、と私は楽観していた。
だが、あるとき、幹部連の前で会社の経営方針を批判した。課長風情にすぎないのに尊大なヤツだと、私は嫌悪されたようだ。毎年の人事異動で、部長に昇格することはなく、気がつけば出世レースで後輩にも追い抜かれてしまった。
大学の先輩である某重役は、事情を知っているらしく、私を叱った。
「研究所のようなぬるま湯の中で永年ヌクヌクと暮らしているうちに、お前は世間の常識も、ものの言い方も知らないアホになってしまったのじゃ」
返す言葉がなかった。
こうして、課員を督励して意欲満々だった私が、徐々に無気力で怠惰な管理職になっていった。そして、その影響が部下に及び、課内には沈滞ムードが漂うようになった。
ある日、有能な部下がひとり、私に辞表を提出した。思い止まる説得も聞かず彼は会社を辞めてしまった。明らかに私に失望し、見限ったのだ。
己の舌禍が招いたことで、部下にまで迷惑をかけている自分が情けなかった。会社を辞めようとまで考えたが、妻子をかかえている身の上では、そんな決断をする勇気も結局なかった。
――我が人生とは何だったのか?
と、悶々とする日々が続き、あるとき、ふと思いついて、カルチャー・センターの『小説を書く講座』を受講した。
そこで書いた小説を講師の勧めで、全国雑誌の文学賞に応募したら、幸運にも受賞して本にもなった。しかし、その小説は会社で実際にあったことをフィクションにしてふくらませたもので、会社批判までした内容のために、人事部からも睨まれたようだ。小説を書くような社員はヤクザ者と見られたのだろう。ますます出世が遅れ、課長のまま定年を迎えるか、どこかの閑職に追い遣られるだろうと覚悟しながら、私は惰性のままサラリーマン生活をつづけていた。唯一の慰めは、小説を書いたり読んだりする趣味に耽ることだった。
【書評】舞台は企業の研究所。人間関係と理不尽な組織のなかで、はみ出してしまった男を、なんとか救済しようとする管理職の苦悩と敗北。追いつめられていく企業戦士の孤独と心労を描いた作品。(第13回潮賞受賞 1994年出版)
人間、鬱積した悩みを抱えていれば、プロの作家でなくても、一生に一度は心に響く作品が書けるということだろうか。主人公の妻のことも描いたら、家内から「私の悪口を書いている」と泣いて怒られた。書く以上、己をさらけだし、他人だけでなく身内からもロクデナシと嫌われる覚悟がなければ、いい小説にはならないのだろう。
50歳を過ぎた頃、思いがけないことが起こった。社長が癌で倒れ、間もなく死亡した。社葬が大葬儀場でおごそかに執り行われた。
翌年の人事異動で、私は部長に昇進した。部署名も『課』から『部』に昇格し、新にできた二つの課に私の後継者が課長に昇進した。部下たちが大喜びしている。私はしみじみと思った。
――やっぱりサラリーマンは出世しなければだめだ。出世は、自分の喜びであると同時に、部下の喜びでもあるのだ。もう一度ネジを巻き直して、頑張らねば。
こうして、私はサラリーマン人生で、権力者の意向に翻弄される浮き草のような身の上を経験した。ただし、社内の権力構造を見抜き、微妙な人間関係の綾を読んで、うまく遊泳するのもサラリーマン必須の能力だ、という意見もある。とすれば、私は会社員に不向きなタイプらしい。
55歳のとき、第二研究所長に昇進した。平研究員としてスタートした私は、紆余曲折をへながらも一つの目標点に達したといえるかもしれない。しかし、私には苦労の末に部長に昇格したときのような昂揚感はなかった。それは、己の能力に余る地位に座らねばならない居心地の悪さであった。
配下には私の専門の生物系だけでなく、工学系の幾つかの部署があったし、一本のバイアル購入価格を1円値切るためのソロバン勘定をしている部署まであった。所長就任後の一年間は、部下の専門領域を理解しようと努めていたが、2年、3年と経つと、もう部下に任せるしか仕様がないと悟った。そして、こんな役職が本当にやりたいことだったのか、と思うようになった。
課長時代には部長昇進が遅れると上司を恨み、研究所長に就任すると、またその業務に不満を抱く。人間とは身勝手なものだ。経営者的センスに欠ける私は重役候補にはほど遠く気がつけば60歳定年まであと数年を残すだけとなっていた。
――遣り甲斐と不満が交錯するサラリーマン生活三十数年、これで人生を十分に生ききったとはとても言えそうにない。定年退職後の第二の人生をどうやって生きようか?
私は思案した。はっきりと心に決めたことは、すまじきものは宮仕え、二度とサラリーマンはやりたくないということだ。
そんな時、某雑誌社から機関誌のコラムに『日本語の科学技術文の書き方』をシリーズで執筆するように依頼された。
その作業をしているうちに思いついた。
――外国の大学や語学学校で日本語の作文を指導してはどうか? 給料をもらえたら、外国で安定した生活ができる。
こうして、定年退職数年前にして、老後に外国で『日本語教師』となる目標が定まったのだった。
そして定年退職後、日本語教師の資格を得て、2004年ここ古の都『西安』で日本語師を始めようとしているのだ。
【追記】定年後、こう考えればラクになる
(江坂彰著 PHP文庫 2006年)
経済評論家 江坂彰氏 はこう書いている。
――『人生八十年の高齢化時代』を『人生二毛作時代』ととらえている。一毛作目は会社で働く時期で、昔は一毛作目で人生が終わってしまうケースが多かった。しかし、今はみんなに二毛作目のチャンスがある。この二毛作目はやりたいことを思う存分やれる時期であり、一毛作目とは別の人生、まったく新しい人生を送ることができる。これは豊かさが生んだ「生き方革命」だといっていいだろう。
この著書を読んで、”我が意を得たり”と納得した。じつは、公的年金を60歳で受給できるのは我が年代が最後で、その後一年づつ支給年が延長されていった。それと共に会社で60歳定年後に継続雇用される制度が一般化している。60歳を境に賃金は下げられるものの、高齢化しつづける日本の労働者の生活を支えるためのよき制度だといえるだろう。
しかし、同じ会社、同じ職種を継続するということは、よいことばかりではない。江坂氏が提唱する『二毛作目の新たな人生』に挑戦する意欲を低下させはしないか? 一毛作目を長く続ければつづけるほど、第二の人生で必要な時間と体力を減少させはしないか、との懸念もある。これは、第二の人生に対する価値観なので、人それぞれであろう。
ともあれ、私は”中国で二毛作目のバラ色(?)の人生”を模索しつつ、今後の章を書き進めていこう。