西安市の国立大学”長安大学”の日本語科に赴任してはや三ヵ月が経過した頃、日本語科教師連絡会で、楊教務主任がいった。
「日本語科と英語科の合同クリスマス学芸会があります。その余興で森野先生に歌でも歌っていただきたいのですが・・・」
私は日本ではカラオケにときどき行っている。新米教師として自己紹介のつもりで、学生の前で歌うくらいならできるので、軽い気持ちで引き受けた。
クリスマスマ学芸会は外国語学院の年末行事になっているらしいが、この年、発足したばかりの日本語科は初参加なので、日本人教師の私がだれか学生と一緒に歌うだけでいいことになった。私は張春梅とデュエットで“北国の春”を歌うことになった。
彼女は吉林省出身の朝鮮族で、中高校時代に民族学校で六年間の日本語学習歴があるので、日本語の歌を正しい発音で歌うことができるのだ。開催一週間前に『クリスマス学芸会』のプログラムを見た。それには、
――長安大学外語学院、2004年度”聖誕晩会”
と、表紙に仰々しくい書かれている。想像以上に盛大な行事らしい。しかも開催日の二日前にはリハーサルまであるという。私は不安になってきた。
リハーサル会場に出向くと、そこは数百人分の座席があり、正面には立派なステージまで設えてある大講堂だった。当日は満員のホールで、我々はステージに立って歌うことになる。
こんな晴れがましいところで歌うことが事前に分かっていれば、“引き受けはしなかったのに”と後悔したが、後の祭りだった。リハーサルにすぎないのに、私はスポットライトに照らされたステージの中央に立って完全に揚がってしまい、まともに声がでなかった。
それからの二日間というもの、私と張さんは『北国の春』のDVDを何度も聴き、デュエットで歌う練習を夜遅くまでした。こうして、61歳の私と19歳の張さんは、教師と学生の関係を超えて、艱難辛苦を乗り越える同志愛で結ばれていった。以後、同志の彼女を愛称「春さん」と呼ぶことにしよう
いよいよ『聖誕晩会』の当日がきた。春さんに会うと、顔に薄化粧がしてあり、晴れ舞台を前にとても魅力的な女性に変身していた。私がいった。
「もっと口紅を赤くぬったらよかったのに」
大会事務局の女性から化粧をしてもらったが、夕食を食べたのでとれてしまったのだそうだ。19歳の娘が自分の小物入れにリップスティック一本持っていないなんて、何とウブな人だろう。今度、家内が中国に来る時に、彼女のために化粧品を土産に持ってきてもらうことにしよう。
楊教務主任が会場に来て、こう言われた。
「森野先生。準備はできましたか。お歌を楽しみにしておりますよ。頑張ってください!」
そういわれると緊張が高まった。“鬱病の患者”に「頑張ってください」は禁句であり、その一言が病状を悪化させるといわれている。いま私がその症状に陥っているのだ。
私と春さんは、出場者の控え席である前列二番目に座った。彼女が後ろを振り向いて不安そうにいった。
「先生、人がいっぱいです」
確かに、講堂には立ち見席まで人ひとであふれている。外国語学院には女学生が圧倒的に多い。この日、他学院の男子学生がかなり詰めかけており、女子大の学園祭さながら“美女の多い外国語学院の学芸会”を鵜の目鷹の目で見物しようという魂胆らしい。
「あれは人だと思ってはいけない。単なる石だよ!」
こう春さんに言って聞かせたものの、それは私自身への激励だったかもしれない。
ステージの両脇にはクリスマスツリーが飾ってあり、七色の電球が明滅している。背後の大きな幕には「Merry Christmas」とある。日本や欧米と同じで、かつて文化大革命を経験した共産主義国とは思えない中国の大学の現状であった。
7時より開演。プログラムは、1 開会宣言、2 学院長挨拶、3 ストリートダンス(日本でも若者が繁華街の通りでよくやっているような踊り)の後、4番目と比較的はやく私たちの出番となっている。
舞台の裏側へ行って出番を待つ。
手にした小さな紙切れの歌詞を見続けている。春さんがささやいた。
「先生、わたし・・・歌詞を全部忘れてしまいました。私にも見せてください」
私もストレスの極限状態にあるのだから、気丈で頑張り屋の彼女でも、頭の中が真っ白になっているのは仕方の無いことだろう。
二人は薄暗いステージの真ん中に進む。そして、いきなりスポットライトに照らし出されたかと思うと、万雷の拍手とともにバックグラウンド・ミュージックが鳴り響いた。
♪ 白樺~、青ぞ~ら 南か~ぜ
最初の高音部を二人は確実に発声できて、出だしは順調だった。そのうちに、観客席から歌にあわせて手拍子が始まった。二番の前に、歌詞の書いた紙切れを春さんにチラリと見せると、笑いを誘う。
ーー観客を確実に惹きつけている。よし!
こうなれば、こっちのものだ。最前列にいるこわもての学院長の顔に笑みがこぼれ、教師たちの笑顔も視野に捉えた。心に余裕が出てくれば人間なんでもできるもので、“別れてもう五年”では、春さんを突き放した(不意を衝かれた彼女が横にふらふらと数歩)。そして、三番の“たまには酒でも飲んでるだろ~な”では、親指と人差し指でつくった杯をあおぐそぶりも。最後に、彼女を力いっぱい抱き寄せながら歌い終えた。かくして大喝采の中で二人のパフォーマンスは終わった。歌声は私が、そして春さんが可愛い操り人形役という名コンビぶりが受けたようだった。
やれやれ! 二度とこんなことはやりたくないが、今回は彼女と一緒に最高に“青春した”気分である。
観客席に戻ると一時間半の出し物を楽しんだ。ビートの利いた音楽に合わせて踊る男女若者の激しいダンスあり、寸劇あり、女性の漫才あり、民族舞踊あり、英語と朝鮮語の独唱あり、とりわけ柳腰の女学生の演じる“琵琶を抱いた飛天の舞”には見とれてしまった。唐の都の舞姫のようなコスチュームで彼女たちは妖艶に踊った。
総じて、二時間近くの出し物には、共産主義を賛美するような教条主義的傾向は見られず、日本の何処の大学でも見られるような若者文化と中国の伝統文化が、ほどよくブレンドされたものとなっているように思った。
学芸会のあと、春さんを誘って近くのレストランで打ち上げ会をやった。レストランの前に乞食がいたので、無事演技を終えることのできた感謝の気持ちで、少々施しをした。
緊張で夕食もロクに食べていなかったので、羊肉串の味は格別だ。同志の春さんが祝いのビールを一緒に飲んでくれなかったことだけが少々不満だったが・・・。
平和ボケした私
平和で治安のよい日本国からそうでない国に住むときには、それなりの心構え、発想の転換が必要である。しかし私は、典型的な『平和ボケ』した日本人のままで中国にきてしまったようだ。
中国人には日帝の侵略への恨みがいまだに消え去らず、政府の情報操作が加わって反日感情が民衆の中に拡散している。そこに、日本の政治家の言動に触発されて反日運動として沸騰することになるのだ。
私が西安に赴任した翌年、2005年の春に、小泉首相が靖国神社へ参拝したのを契機に反日運動が起こった。広州市や深圳市のような中国南部の都市から始まり、徐々に燎原の火のように全国に広がって西安市にまで及ぼうとしていた。
このような時に大学内では、共産党地方政府の出先機関のようなコワ~イ部署といわれている『外事処』が学内対策を取り仕切ることになる。反日デモが西安市で予定されている前日に、外事処の張科長が私の部屋に来た。
「明日は、絶対に部屋をでてはいけません。食堂にも行かないでください。私が食事を運びますから」
張科長は例外的に日本語が話せる人で、私を懇意にしてくれたが、このときは私への親切心というより、外事処の沽券に関わる重大事として、日本人教師を護らねばならないと考えていたのだろう。
彼女はこうもいった。
「今後、反日デモがどこまでエスカレートするか予測が困難です。最悪の場合、森野先生には日本へ帰ってもらわねばならない事態もあり得ますので、そのおつもりで」
私はすでに二年目の継続採用が決まっていたので、これには困惑し、ひたすら事態の沈静化を祈るばかりであった。今回の反日運動には、小泉首相の靖国神社参拝だけでなく、日本が国連で拒否権のない常任理事国入りを画策していることへの反発もあった。
数日前に、キャンパス内を歩いていたら、学生グループが反日キャンペーンの署名活動をしているのに出くわした。私は英語の話せる学生をつかまえて、日中の政治問題を話し合った。彼らは決して過激な反日主義者ではなく、私とはとても友好的な雰囲気で話ができたのだが。
また、授業中にも私は学生にいった。
「私は小泉首相の靖国神社参拝には反対だ。もし、西安のデモに参加したいと思う人がいれば、行ったらいい!」
ところが、事態は、馘になりかねないところまで急変しているのだ。私はなんと能天気な人間だろうか!
幸い反日運動はほどなく沈静化して平常に戻り、私の継続採用も予定通り可能となった。そんな頃に、我が宿舎で事件が発覚した。
宿舎の寝室は常時カーテンがかかっていた。あるとき、カーテンを開けると、窓ガラスに銃弾の貫通した丸い痕を発見した。寝室内を見回したところ、弾丸が落ちていないし、壁に突き刺さっている形跡もなかった。
私は弾痕と窓外の写真を撮った。二階の宿舎の窓から外を眺めると、向かいに二階建て、さらにその背後に四、五階建てのビルが見えた。その辺のビルから銃を発射したのだろうと想像される。
さっそく、張科長に連絡したところ、二、三人の公安警察が来て寝室を調査した。しかし、その後、張科長から事件に関する何の連絡も無かった。このことを知らせたら家族が心配するだろうと考えて、私は一切を我が胸の裡に秘めることにした。
この事件は、時期的に考えると、反日デモと何らかの関連があるかも知れないので、私は事態をもっと深刻に受け止めるべきであったろうか。
しかし、射撃者が日本人憎しの思いで私を狙い撃ちしようとすれば、常時カーテンを開けている居間にいる時を狙っただろう。そうではなくて、寝室に銃弾が撃ち込まれたということは、単なる嫌がらせか、あるいは別の目的(例えば鳥を撃つなど)で発射したものが流れ弾として寝室の窓にたまたま当たっただけの可能性も考えられるのだ。
私は生来の楽天家で、反日デモが鎮静してからは、さほど不安も無く学生と西安の街中へよく出かけたし、地方への旅行もした。こうして、この事件は長い間忘れたままだった。
後年、元日本語教師仲間のO氏に、この銃弾事件を説明して意見を訊いたことがある。彼は語った。
「そんな事件があったことに驚くとともに、失礼ながらあなたの考えの甘さを感じます。事件の顛末が不明のまま放置されいるのが問題です。これが日本で起こったことなら学内騒然となり、警察が徹底調査し、マスコミも加わって大騒ぎになるでしょう。国際問題に発展してもおかしくありません。
私だったら、徹底調査を外事処に要求し、場合によっては帰国を覚悟したかもしれません。欧米から来た語学教師なら、在中領事館と連絡を取りながら強硬な態度に出たでしょう。やはり海外へ行くからには、不測のリスクを背負って行く覚悟が必要でしょう」
こうして、O氏は能天気で平和ボケした私に対して率直で厳しい意見と助言をしてくれたのだ。
思い返せば、西安を振り出しに5大学で8年間も過ごしている間、危険な目にも遭わず楽しく過ごすことができたのは、私にとって幸運だったといえるだろう。そして、私に接してくれた学生をはじめとして多くの知人、また旅行中に行きずりの中国人民衆が、私を温かく迎え容れてくれたことにも、感謝しなければならないだろう。
■反日デモ(続き)
西安での反日デモから7、8年後(2012年)の秋に発生した反日デモがもっとも激しいといわれている。時系列的にはもっと後の章であつかうべきだが、上と関連しているので、続けてここに記載することにする。
私が雲南省昆明の大学に赴任してまもなく、日本政府の尖閣諸島国有化がきっかけとなって、激しい反日デモが中国全土を席巻し、昆明にも及んだ。大学当局が私にこう指示した。
「宿舎と大学との往復にとどめて、繁華街へは行かないように。もし、やむを得ざる事情で街へでるときには、必ず学内の中国人同伴のこと」
西安で経験づみの私は深刻にうけとめなかった。
そして、この反日騒動もほどなく沈静化した。
中国で反日デモが吹き荒れている時に、日本ではどうなっているのだろうか。日本の大学へ留学している数人の教え子の安否のほうが、むしろ気懸かりである。
その一人、広島大学院に留学している陳さんにスカイプ通信で訊いてみた。
すると、彼女は、
「研究室の日本人たちは、私たち中国人留学生に対して常日頃と変わりありません。キャンパス内も反中国感情はないので、ご安心ください」
と、拍子抜けするほどの返事だった。安心すると共に、両国の若者の政治に関する意識は驚くほど違うと感じた。日本人の若者が冷静で健全なのは喜ぶべきことだが、同時にそれは、ノンポリで個人的興味だけに内向する現代の若者の姿でもある。
中国でも日本語科の学生は、日本人教師に対して友好的である。しかし、尖閣諸島のように両国の利害が真っ向から対立している問題では、日本人教師が不用意に日本の立場を擁護するような発言をすれば、学生から反感を買う恐れがあり、授業に支障をきたす。私は、政治問題には沈黙せざるを得なかった。
中国人の反日的例を紹介する。
A:昆明赴任時に発生した反日デモ。
B:麗江古城の店の前の反日表示。
C:スクーターのNoプレートの標識。大学の駐車場で見つけた。Dの中国人を日本人に置き換えた日本への侮蔑的表現。この反日プレートは製品として市場に出回っており、意図的で悪質である。
D:戦前の上海租界にあった中国人への侮蔑的看板。
■山西省太原で遭遇した反日感情
太原市の浄土教の根本道場『玄中寺』に参拝したときのことである(第21章に記述)。お参りを終えて太原駅に戻り、その日のホテルを探すために斡旋を観光案内業者に依頼した。すると後で、業者の男から不当な金を要求された。言い争っているうちに、その男の仲間が私と同伴の学生を取り囲んだので、危険を感じて警察に連絡した。警察が来るのを待っている間、意外にも男は逃げる様子を見せないので、それほどタチの悪いヤツではなさそうだった。
ほどなくやって来た警察官の判断は、「日本人のあなたが正しいから金を払う必要はない」で、一件落着した。中国人の学生が同伴していたこともあるだろうが、警官はとてもフェアである。
私は中国の人々とは友好的につきあいたいと思っているので、その時も、男と握手して別れようと手をさしだした。すると、彼は「オレは日本人が大嫌いだ!」と怒鳴って去っていった。
これが、中国で経験した数少ない嫌な思い出である。ホテルの部屋に落ち着いてから、私は先ほどのことを思い出しながら同伴してくれた学生にいった。
「昔、石炭の町太原には日本軍が進軍したことがあるそうだ。もしかしたら、あの男の父母が日本軍のために辛い思いをしたのかもしれないね。それを父母から聞いていたから、彼は日本人の私を憎んでいるのだろうか?」
じつは私も、と学生がいった。
「『子供のときに日本軍が(江西省南部の)町にきて、恐い思いをしたことがある』と、祖母から聞いたことがあります」
私は第二次世界大戦中の生まれで、戦争のことは全くしらない。中国の民衆はどうかといえば、地方へ行けばいくほど彼らは純朴で日本人の私を温かく迎えてくれた。しかし、中国各地にはいまだに日本軍の侵略の傷跡が残っていることを、私は知らなければならないだろう。
長安大学日本語科で2年目を迎えた4月の後半に、「第一回日本語科スピーチコンテスト」が開催された。
出場者は、司会を担当する者2名を除いて、学生全員である。あらかじめ発表の内容を暗記して5分間のスピーチをおこなって、優劣を決めることになっている。
1年生は、日本の童話などの朗読で優劣を競う。
2年生は、私が担当している作文授業で書いたものの中から各自選んで発表する。既に私の添削済みの作文だから、日本語としては間違いないはずだ。だから、内容と魅力ある発表態度が優劣の決め手となるだろう。
このコンクールで一、二位になった2年生は、本年からはじまった『中華杯全国日本語スピーチコンテスト』への出場資格が与えられることになっている。
二時間かけたスピーチコンテストが滞りなく完了し、最後に入賞者の発表と表彰式があった。
その後、散会となり、三々五々会場の出口にむかっている学生の中に、王がいた。一年生のときに班長だった彼女は、今は辞めているので、私と会う機会が少なくなっていた。
――おや、彼女は今日、発表をしなかった?
そのことに私は、はじめて気づいたのだ。その日の夜、王を教師宿舎へ呼んだ。
夕食後やってきた彼女は応接間に腰掛けたが、落ち着かない表情であった。私が彼女を呼び寄せた理由を知っているからだろう。コーヒーを淹れて王の前においた。
「今日のスピーチコンテストで、発表しなかったね」
とたんに彼女の表情がこわばり、下をむいてしまった。
「なぜ、発表しなかったのだろうな。授業で作文を何回も書いているから、どれか一つ発表する題材はあったでしょう」
私はしばらく王の言葉を待った。両手でマグカップをつつむように持っている彼女は、ようやく私に顔を向けた。
「わたし・・・・・・吃(ども)りです」
王が小さな声でいった。眉間にしわを寄せている。
まさか、私は驚いた。
「12月のクラスの発表会では、ちゃんとスピーチをしていたじゃないか! それに、1年生のときから、王さんとはいろんな話をしてきたが、一度もドモッたことなどない」
「わたし、・・・子供のときから、大勢の人がいたり、知らない人の前ではドモるんです」
それで、教務主任の許可をえて、発表を免除されたわけだ。コーヒーをすすりながら、こんな時、どうやって慰め、勇気づけたらいいのかを思案していた。ややあって、王の方に体を寄せながら話しかけた。
「先生は、王さんが発表しなかったことを、とても残念に思っているのだよ。あなたは将来日経企業に就職したとき、課長から『王さんのたてた計画をこんどの会議で、日本語で発表しなさい』と言われても、断るつもりかい」
「・・・・・・・」
「会社の製品の宣伝をするために、見知らぬお客さんの前でスピーチをすることもあるだろう。それが怖い、イヤ、といっていたら、王さんは一生逃げてばかりいる人生を送ることになるよ。それでもいいの?」
「それは・・・・・」
王は困惑した表情を見せている。私は更にいった。
「中国人はメンツを大事にするって聞いたことがある。今日のスピコンで、後輩の一年生の前で失敗したら、恥ずかしいだろうね。でも、その時だけのことで、今なら失敗しても誰にも叱られない。会社で失敗したら、信用を失って困ったことになるよ。それはいやだろう。大学時代とはね、将来のための訓練・準備の時です」
王がうなずいた。
「初めから話し上手はいない。何事も経験だと思って、チャレンジしなさい! 来年、3年生になったら、参加するね」
王は小さい声で、はい、と返事した。
私は次の年に、王の発表を是非聴きたいと思ったが、その前に大学からの解雇が決まっていた。翌年の王の発表を聞くことができない。西安を去る時に、彼女にもう一度そのことの念を押したが、果たしてどうなることだろうか。
■ 長安大学から朗報来る
長安大学を二年で辞めた後、私は無錫市にある江蘇省立の三年制短期大学に赴任して、2年生に会話と作文の授業を担当することになった。
9月から授業がはじまり、3ヵ月が経過した12月3日の夜、宿舎に電話がきた。聞き覚えのある声が受話器から流れている。声の主は長安大学の王だった!
「先生、お久しぶりです。お元気ですか。今日ね、学内のスピーチコンテストがありました」
「それで?」
「わたし、発表しました」
「それはよかった」
「入賞はできなかったけど、ちゃんと発表できましたよ」
と、王の弾んだ声。
「それで、十分だよ。よかった、本当によかったね」
王の声のうしろで甲高い女学生たちのはしゃいだ声が聞こえてくる。スピーチコンテスを終えた後の、解放された雰囲気が伝わってくる。王の日本語も上達していた。
長安大を去ってから、もう半年以上が過ぎ、彼女は3年生になっている。前年度、彼女は緊張すると“どもる”という理由でスピーチコンテストに欠場した。だから王を励まして、次年度には必ず出場するようにと説得した。彼女はそのことを忘れずに、今回勇気をだしてスピーチコンテストに出場したことを、私にわざわざ報告してくれたのだ。
中国で日本語教師になったとき、学生の中から落ちこぼれ児を出したくないと決意した。上の王との一件では、それが叶えられたことが嬉しい。
しかし、いま教壇に立っている無錫の短大では、学生は学習意欲が低くて私を失望させた。一人の落ちこぼれ学生も出さないという私の願いは早くも崩れ去っている。
私は長安大学時代が無性に懐かしくなった。そして、王たち学生をもう一度教えることができたらどんなに幸せだろうかと思った。が、もう後戻りはできないのだ。
~~夏との不思議な縁~~
無錫職業技術学院で私が雇った二人の中国語の家庭教師の一人が「夏セイ」という学生だ。
彼女が父と死別している苦学生だったので、ささやかながら経済的援助をしてやろうと思ったのだ。彼女が江蘇省泰州市出身の純朴な田舎娘だったので、私は「泰州のイモねえちゃん」とからかったものだ。すると彼女は、私に足蹴りする格好をして怒った。彼女は、何かを求めるひたむきなところがあり、我が娘と似ていた。夏と一緒にいると、私はアットホームな気分になれる。彼女はいった。
「入試に失敗して国立大学に入れなかった私は、元々理科系志望だったので、1年生のときには日本語の勉強にあまり意欲が湧きませんでした。それが2年生になって、森野先生の授業をうけてから日本語の楽しさが分かるようになり、やる気が出てきました。一番よかったのは、先生の中国語の家庭教師になってから、日本語に触れる機会がふえたことです」
こうして、二人の学生が週二回、私の部屋にきた。料理上手の夏は毎回夕食を作ってくれたし、日本語能力もめきめきと上達した。無錫市を中心として江蘇省の大学・日本語専門学校が競い合う『太湖杯スピーチコンテスト』で準優勝するほど、わずか1年のうちに優秀な学生に成長した。
無錫の大学を退職して帰国するとき、夏は上海まで見送りに来て、別れを惜しんでくれた。そして、浦東国際空港行きのバスに乗る直前に、俯きながら一通の手紙を私に差し出した。車中でその手紙を読んだ。
――先生がこの手紙を読むころには、お別れしています。一年間お世話になりました。先生のおかげで私は日本語が上手になりました。先生との一年間はとても楽しかったです。先生と一緒にいると、お父さんとはいいものだと思いました。私は、母と一緒に暮らすだけで十分だと思っていましたが、今はそんな考えは間違いだと思うようになりました。母には今、再婚の話がすすんでいます。私は母の再婚に反対しないつもりです。もうこれで、先生と永遠の別れだと思うと悲しいが、先生の次の赴任地に遊びに行けると思えば、悲しくありません。先生、どうぞお元気で。
バスの中から「もう帰りなさい」と合図すると、夏が肩を落として去っていった。その後ろ姿が手紙の文面と重なり、私は胸が熱くなった。
私が江西師範大学に赴任中、休暇で南昌と日本を往復する途に上海で二度会っている。上海の郊外にある美しい水郷地帯として有名な『周庄』に行ったときのことだった。
川べりの小径を散策していると、私たちの前を中年の男性と若い娘が手をつないで歩いている。どう見ても父娘に思えた。
「夏さん、あの二人は親子かい?」
「そんな感じですね」
「中国では父と娘が手をつないで歩くことがあるの?」
「ええ、私はおじいちゃんとよくそうしていました」
私は冗談半分で、
「じゃ、私も夏さんのおじいちゃんみたいなものだね。ど~お?」
と、腕を夏の方に寄せた。
すると彼女は、微笑んで私の腕に手を組んでくれた。彼女は私を今は亡き父か祖父のようなつもりでいるのだろう。一方、私の方は、ちょっと青春時代にもどったように心が弾んだ。
夏とはもう一つ、忘れがたい思い出がある。
彼女は、3年生の12月に『日本語能力二級試験』をうけた。彼女の学校は短期大学なので、一級試験を大学から義務づけられてはいない。
夏はその年の11月ころから、求職活動をはじめる。無錫市の工業団地には多数の日系企業が進出しており、彼女が希望する就職先もそれらの会社だった。しかし、履歴書を提出すると、会社の求人担当者は、
「我が社は日本語能力一級試験の合格者しか採用しません」
と、履歴書すら受け取ってくれなかったそうだ。
こうして、何度も門前払いを受けた夏は、次年度に一級試験に合格するまで、就職浪人をしようとまで覚悟を決めかけていた。
次の赴任地『江西師範大』でそんな彼女の苦境をメールで知った私は、何とかして夏を助けてやる方法がないものだろうか、と思案した。
ふと、思いついたのが、無錫の日系企業のM社長のことである。M社長は、無錫日本企業会の幹事をしていて、夏が出場した『太湖杯スピーチコンテスト』で私と共に審査委員を担当した。コンテスト途中の休憩時間に喫煙所へ行ったときに、彼とタバコを吸いながらしばし立ち話をする機会があった。
M社長が直前に発表した夏を高く評価してくれたので、「じつは、私が彼女を指導した教師です」と伝えた。こうして彼としばしの会話が弾み、別れ際に名刺まで交換した。
それを思い出した私は、さっそくファイルからM社長の名刺を見つけ出し、Eメールで問い合わせた。
――○○機電(無錫)有限公司社長 M様
昨年『太湖杯スピーチコンテスト』の会場の喫煙所でM様とお話し、名刺を交換いたしました日本語教師・森野昭でございます。そのときに、M様が、準優勝した夏セイを高く評価してくださったことを覚えていらっしゃいますでしょうか。じつは、夏は今、無錫で就職活動を致しておりますが、未だご縁がなく就職が叶いません。夏は純朴な性格で真面目に勉学に励む、私の教え子の中で最も優秀な学生でした。もし、御社が日本語科出身者の採用をお考えなら、夏を採用候補者の一人にお加えくださることができませんでしょうか。何卒よろしくお願い申し上げます。
これに対してM社長から、準優勝した夏なら面接するから、履歴書を送るように彼女に伝えて欲しい、という色よい返事が来た。そして、新年早々、夏はその会社の面接試験をうけ、見事仮採用が決まった。彼女の喜びはいかばかりだったろうか。
M社長からメールをいただいた。
ーー夏さんの会話能力は我が社の通訳者に劣りません。ただし、ちょっと頑固者のようですね。
私は笑ってしまった。泰州のイモねえちゃんは、あこがれの日系企業の面接でかなり緊張していたのだろうが、M社長の性格判断はあながち間違いではない。我が娘が女だてらに3浪してようやく目指す大学に合格したのも、頑固一徹なところがあったからだ。二人は性格が似ていると思った。
中国の大学では、最終学年で仮採用が決まれば、研修(試雇)という名目で正社員と同様な労働条件で、働くことになっているようだ。そして、新年度の9月から正社員となる。
こうして、夏が日系企業に採用されたのは、学業が優秀であっただけでなく、スピーチコンテストに積極的に参加しようとするチャレンジ精神の賜でもあったのだ。夏のような経緯で幸運が巡ってくることは、めったにないことかもしれない。しかし、私はこの経験から、以後、教え子にスピーチコンテストに積極的に参加するように勧めた。
夏は会社で働きながら、翌年には日本語能力一級試験にも合格し、着実に日本語能力を高めていった。そして、その会社で知り合った男性と恋仲となった。
私が上海の大学に勤めているときに、夏は彼を連れて私のアパートへ報告にきた。良妻賢母型で堅実な生活態度の夏は、すでに男性をリードしているのが微笑ましい。
夕方、無錫へ帰る二人を地下鉄のホームまで見送った。
電車が来てドアが開いた瞬間、私は恋人にわからないように、夏の掌を強く握りしめ、しばし熱い視線を交わした。それが夏との永遠の別れとなった。その後彼と結婚した夏は、女児を出産して今も会社で働きつづけているという。
~~民族が心を一つにできる共有財産~~
江西師範大学には、クリスマス晩会とか新年会だとか、日本語科の教師や学生が一堂に集う演芸会があった。こんな時には、日本人教師は何か芸を披露しなければならない。この大学に赴任三年目には、安曇野の早春の情景を描いた『早春賦』を歌うことにしたが、ただ歌うだけでは芸がなさすぎる。そこで、一、二番を日本語の歌詞どおりに歌い、三番で、杜牧の『淸明』を中国語で歌うことにした。
・中国語の発音はとても難しい(特に四声が)。中国語の家庭教師をしてくれている学生から特訓を受けた。そうして、本番でインターネットからダウンロードしたメロディをバックに歌ったところ、拍手喝采をうけた。特に、三番を『清明』の詩で歌ったのがよかったようだ。
これに気をよくした私は、
「では次に、清明を朗詠します」
と、言ったが、やはり発音にはちょっと不安があった。が、はじめた途端、そんな不安は消し飛んだ。会場につめかけた学生全員が一斉に大声で唱和したのである。
中国人が自国の文化遺産を共有して、心を一つにした瞬間だった。かつての毛沢東語録や国家の指導で作り上げたスローガンなどは、時代の流れのなかで廃れる運命にある。
しかし、漢詩だけは中国の民衆の中で廃れることもなく生き続けることであろう。それは素晴らしいことではないか! 同時に、世界に二百あまりの国家地域がある中で、発音こそ異なれ漢字という文字媒体を共有している日本人だけが、漢詩を今も愛し続けている。それも、日本人として誇るべきことであると思う。
こうして学芸会をつうじて、中国文化の一端を知るいい機会となったのだ。
【付記】
私はこの大学で「日本概論」の講義をした。歌舞伎や茶の湯などの伝統芸能にくわえて、「5・7・5・7・7」の三十一音の伝統的な「和歌」を紹介し、その呼び名は「漢詩」に対する「日本の詩」という意味であると説明した。
学生が興味を抱きそうな和歌を二つ紹介した。
1 古来、日本人は漢詩の影響をうけており、漢詩に着想を得て和歌を創作した例がある。平安時代の歌人「大江千里」の古今和歌集に収載されている和歌は、
――月みれば 千々に物こそ 悲しけれ 我が身ひとつの 秋にはあらねど
これは、白居易の「燕子楼」から着想したといわれている。
2 曹洞宗の開祖「道元禅師」の和歌は、禅の精神を四季折々の花鳥風月に託して歌いあげている。日本人の死生観や美意識を描いて海外からも高く評価された「川端康成」が、ノーベル賞の受賞記念講演で紹介したことで知られる名歌、
――春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり
鎌倉時代に伝わった「禅宗」は中国の南宋時代に広まったものであるが、共産主義国の学生には、宗教そのものにあまり関心がない。私だって、この和歌から禅の思想を感じ取るのはむずかしいのだから、日本語を習得途上の学生には、詩そのものの読解が容易ではないだろう。
日本のメール友にこのことを伝えると、ある友人「渡邊捷弘」氏から返事がきた。彼は現代日本人には珍しい漢詩を作る風流人である。渡邊氏が創作した道元禅師の和歌の翻訳漢詩を、彼の許諾を得て紹介する。
渡邊捷弘 翻訳漢詩 (読み下し文)
爛曼春櫻笑 爛曼(らんまん)として 春は桜の花笑い
夏鵑山野青 夏、 鵑 (ほととぎす)に山野青く
玲瓏秋月晧 玲瓏(れいろう)として秋月は晧(あき)らかに
白雪冷冬庭 白雪は冬の庭に冷たく
坐庵觀四季 庵に坐して四季を観ずれば
万象自清泠 万象自ずから清泠(せいれい)たり
漢字そのものが母語の中国人学生の方が、私より理解が深かったのではないだろうか。
なお、日本語教師のなかには「5・7・5」の十七音の俳句を紹介して、学生に作らせる人もいる。ただし、旧暦に基づく「季語」は難しいので無視したようである。
江西師範大学に赴任していた時、CDプレーヤーを市内の電気店で買った。しかし、そのコードが短いので、壁のコンセントとの間を繋ぐ『延長コード』が必要となって、学内の超市(スーパー)で買った。ところが、十日前に買ったばかりの延長コードが故障してしまったので、その店へ行って女店員にいった。
「新品と交換するか、修理するか、どちらかにしてもらいたい」
だが女店員は、事務的な態度で首を横に振った。
「一週間の保証期間が過ぎているので、修理店へ行ってください」
ということは、私がお金を払って修理しなければならないのだ。中国にはそんな商習慣があるのかもしれないが、日本人の私にはとうてい納得できない。店員に抗議した。
「延長コードなど、10年は使えるものなのに、たった10日で故障したのはなぜだ。不良品を客に売るなんて、あなたの店は無責任だぞ!」
だが、店員は折れる様子がない。こんな時、中国人は絶対に非を認めたがらず、頑固である。国有鉄道の職員など公務員にこの種の横柄な態度が顕著で、私が一番嫌いなタイプである。
日本語の分からない中国人店員と中国語が分からないヘンな外人の私は、互いに下手な英語を交えながら延々と押問答を続けていた。気がつけば学生たちがたくさん私を取り囲んでいる。彼らは、私を同胞の店員を困らせている不良外人だと、敵意を抱いているのだろうか?
いや、純朴な学生にそんな悪意は無さそうである。彼らは、野次馬根性で、どちらに味方するわけでもなく、単に「何事が起こっているのだろうか?」と、興味本位で様子を眺めているのだろう。
一人の女学生が、英語で話す私と中国語で話す店員の間の通訳を買って出てくれた。英語科の学生らしい通訳嬢のお陰で、交渉は円滑にすすむようになり、私はますます元気が出てきた。それにはもうひとつ大きな理由と目的があったのだ。
――私の主張は、店員に向けるだけでなく、いやむしろ、周りの学生に伝えたい。
そんな願望が我が胸のうちに沸き上がっている。
日本の工業製品は、半世紀も前(私が子供の頃)には“安かろう、まずかろう”という評判が欧米各国で一般的だった。しかし現在、自動車・電子機器などあらゆる分野の日本製品が、高品質で低価格、そして故障しない、という高い評価を世界から受けている。
それは、科学技術の進歩と労働者の高い技術力によるものだ。もうひとつ忘れることのできないのは、安くて高品質の製品を要求する『消費者からの強い圧力』があったからなのだと思う。消費者の期待を裏切る不誠実な店があれば、客は二度とその店には行かないし、不良品を製造した会社の製品も買わないという、消費者の厳しい要求が高まっているのだ。客に見放された店やメーカーは、経営がいきづまり、最後に倒産してしまうだろう。だから、
――お客様は神様です!
という、顧客を大切にする精神を生みだすようになった。こんな “消費者パワー”では、中国はまだまだ日本に及ばない。さて、話を戻して、あの『延長コード』の問題はどうなったか?
とうとう、店員が折れて、新品と取り替えてくれた。
店員との二人芝居を見終わった野次馬たちの多くは、満足そうに散って行った。中には私と握手する学生すらいたほどだ。きっと、学生たちは私の“ツッパリ”の中から何かを感じ取ってくれたのだろう。
中国社会を改革・発展させていくのは、まず現役の大人たちだが、それに加えて、これから社会に巣立っていく若者の力に負うところ大だと思う。
――賢くて逞しい消費者は、この学園の中から生まれ育って欲しいものだ!
私はそう念願している。
江西師範大学の教え子に陳という女学生がいた。
彼女は2年生なのに小柄で、まだ高校生のような幼さを残している。半年前に、我が宿舎に遊びに来たときのことだ。
「来週、精読授業で故郷という題の作文を教室で発表することになっています。先生、この作文を添削してくださいませんか」
読んでみると、故郷での素朴な生活ぶりが淡々と語られている。
――私の故郷の家は、山の中の一軒家です。学校は一山越えたところにあるため、週日は学校の寄宿舎生活、そして週末に帰宅し、月曜日にまた学校へ戻るという生活をしていました。遠くて険しい山道を長時間かけて歩くのは辛いけれど、道々歌をうたったり、道ばたの花や山菜を採ったりしながらけっこう楽しかった。
お正月を迎えるときには、道にころがっている赤茶けた小石をチョークにして、家の前の標識板に年賀の挨拶文を書きました。細道には人通りがほとんどありませんが、誰かに読んでもらいたいと思って、毎年欠かさず書くことにしていました。両親は都会に出稼ぎにいっているので、私は祖父母に育てられました。最近、広州市に出稼ぎに行っている父が過労で病気になり、南昌市の病院に入院しています。
高校は遠くの町にあるために、家を離れて寄宿舎生活を3年間おくり、現在、もっと遠いこの大学に入学できたのです。しかし、この二年のうちに、祖父母が相次いで亡くなりました。そして、「あの故郷の家はもう崩れかけている」と母が言っています。大学で勉強に疲れたり、何か嫌なことがあったりしたときには、ふと故郷のあの一軒家を思い出します。あの頃のことが思い出されて懐かしい。でも、もうあそこには帰れないのです。
陳さんはこの作文を教室で皆の前で発表した。
「女教師が感動し、とてもいいと褒めて下さった」
と、後日私に報告してくれた。
じつは、彼女のように山村や農村で暮らす境遇の子は、教え子の中に少なからずいる。現在の中国には鄧小平の経済自由化路線によって、国民は確実に豊かになりつつあるとはいえ、上海などの臨海都市部と内陸部との経済格差が広がっている。貧しい山村・農村の親は子供の学費を捻出するために大都市に出稼ぎにでており、子供が祖父母に育てられている例が多い。両親や祖父母は、子供には大学教育を受けさせ、将来は大都市で就職して豊かな生活をさせたいと願っている。子供が都会に定住すれば、親も子と一緒に暮らせるかも知れないと思いつつ……。
そんな親の期待を担って大学生になった彼らは、厳しい現実に直面している。 国家政策により大学生を増やしすぎた(十年間に大学生が4、5倍に急増)ところに、経済不況が追い打ちをかけているのだ。
あ
この言葉は、元々「国を愛する熱情から行われる蛮行に罪はない」を意味していたが、現在はもっぱら反日デモのときに使われているようである。しかし私は、中国滞在中に反日デモに参加した学生運動活動家に一度も会ったことがない。おそらく、経済学部とか政治学部には反日的な学生がいるだろう。
旅行中にチャンスがめぐってきた。教え子と一緒に列車に乗っていたとき、私の前に中国人の大学生が座っている。文系の学部生らしい彼は、私が日本人であることに興味を抱いたようで、話が弾んだ。夜汽車だから時間はたっぷりあったし、日本語科の学生が側にいて通訳してくれるので、思う存分ザックバランな話し合いができた。そのうちに、話題が政治問題にも及び、小泉首相の靖国神社参拝について話した。
「小泉首相の本心は」と、私がいった。「中国への侵略戦争を是認するのが目的ではなくて、戦死した英霊に祈りをささげ感謝の気持ちを伝えたいからです」
しかし、学生は同意しない。わたしは、こうもいった。
「たとえば、南宋末の救国の英雄文天祥を君たちは尊敬しているだろう。毛沢東の共産主義革命で斃れた赤軍の兵士たちにも君たちは感謝と哀悼の気持ち持っているはずです。日本でも同じなんだよ。靖国神社に祭られているのは、明治維新という近代国家成立時やその後の戦争で国家のために死んだ英霊がほとんどで、戦争犯罪人はたった7人にすぎない」
救国の英霊へ感謝の気持を持つことには異存がないが、中国を侵略した戦争犯罪人がいる限り、靖国神社参拝は容認できない。これが学生の譲れないところのようだ。
わたしは、反日デモの『愛国無罪』について意見を訊いてみた。学生は、デモ隊の一部が日本のレストランに投石したり、会社敷地内で乱暴狼藉をはたらいたりしたのは良くないと、良識ある考えをいった。
夜汽車の気楽さから若者と政治談議
私はもう一歩踏み込んでみた。
「日本を憎む心情から反日デモをして『愛国無罪』を主張するのは、いいとしよう。しかしね、愛国を言うのなら、君たち学生には愛国の熱情を発揮しなければならないもっと大事な、本当の相手が別にあるんじゃないの? 人民の言論の自由を認めず、民主主義を許さず、そのうえ汚職まみれの相手に対して・・・」
学生はふいに暗い窓の外へ顔を向けた。車窓に映る彼の目にはとまどいが現れているのが見てとれた。私はいってしまった。
「二十年も前の学生は、その相手と戦おうとしたのじゃないかな? 例の天安門前で」
“天安門”と中国語で言いだしたとき、教え子が私の脇腹に肘を押しつけた。
――先生そんなことまで、ここで話すのはまずいですよ!
と、言いたいのだろう。学生の横に座っている若い女性は眠っているようだった。通路の向こうの乗客たちが、こちらの話に聞き耳を立てている様子もない。
確かに私の言ったことは、中国人学生に対しては、かなり意地の悪い質問だったろう。ここで、会話が途切れてしまった。そのうちに、私の教え子が舟を漕ぎ出して、私の肩に頭を傾けてきた。わたしは目を瞑ったが、まだ寝付けない。
以前に観たことのある映画『ノルウェイの森』(村上春樹原作)を思いだした。小説の良さが映画では十分に表現されていない不満があったが、あるシーンが印象に残った。早大で講義中に学生運動家が講師の前に出てきて、「残りの時間は、学生の自由討議に使いたいので、授業を止めてください!」といった。すると講師は不満ながら授業を切り上げて退出した。
○あの頃、大学ではベトナム戦争反対など学園紛争が吹き荒れていて、授業を放棄して抗議集会を開いたり、デモに参加したことを、私は懐かしく思い出す。当時の学生は、エリート意識があって、学生とは天下国家を論ずる者という自意識過剰なところがあった。やたらに青臭い理論を振り回して侃々諤々の議論に明け暮れていたものだ。そんな議論には生活臭がまるでない、地に足のついていないものではあったが、「オレはこう考える」という強い主張を皆それぞれが持っていた。
私が会社に就職した翌年の1969年に、学園紛争はクライマックスに達した。ついに東大をはじめ早稲田などには機動隊が入り、学内のバリケードが破壊されて、学生運動は鎮圧されてしまった。京都にある我が母校でも同じような状況にあったが、会社員の私はそれをテレビで傍観していたのだ。
その年の夏に、仕事で母校の薬学部の教授を訪問した。そのついでに共に学生運動をしていた友人Aに会った。彼は院生になっており、一方、私の方は、指導教授の薦めで会社に就職していた。
わたしが、会社の仕事ぶりを話したら、Aはいきなりいった。
「おまえ、ヒヨッタな!」
それは、当時の学生用語で『日和見主義者に成り下がった』という、最も侮蔑的な表現だったのだ。
「何を言う」と、私は怒った。「お前などに、会社のことが分かってたまるか!」
私は早々に立ち去った。
今にして思えば、私は当時、反体制的学生の雰囲気の中では仲間と同じ行動をとり、会社にはいると、古い外套を脱ぎ捨てるように、新たな環境に染まっていったのだろうか? 私は、会社で労働組合運動に参加したが、過激な学生運動活動家のAから見れば、しょせん体制内の活動だといえるのかもしれないだろう。
だから、そんな私が、目の前の中国人学生に、偉そうなことをいう資格はないのだろう。天安門事件の後、政府の締め付けが厳しく、若者は徹底した愛国教育を受けているそうだ。そして、厳しい受験戦争を生き抜くことで精一杯だった中国の学生にしてみれば、その不満のはけ口には、反日デモしか無いのかもしれない。
実は、この車中で学生と話していたときには知らなかったのだが、2008年に人権活動家の劉暁波氏を中心とする人々が、『08憲章』と呼ばれる、政府に民主化や人権保護などを求める宣言をインターネットで公開していた。政府の監視機関によって直ちに削除されたらしいが。劉氏が国家政権転覆扇動罪で服役中の2010年に、ノーベル平和賞を受賞したことを、私は日本の報道で知った。
劉氏はその後、獄中で癌を患った。そして、十分な治療をうけることもなく亡くなった。国際社会は中国を批判したが、共産主義政府は何の反省もなく、人民の弾圧を続けている。
『08憲章』が出た頃に、私は江西師範大学に赴任中であったが、日本語科の学生は『08憲章』を知らなかったであろう。あるいは、うすうす知っていたとしても、そのようなことには無関心で私には話さなかったのだろう。このように、日本語科の中だけで生活している私は、『政治的無風地帯』にいるようなものであった。