琵琶湖変遷の歴史
琵琶湖は400万年前に南方三重県を起源とする。
その後、盛衰を繰り返して北上して、ネアンデルタール人がヨーロッパで活動していた40万年前に現在地に定着した。遠い将来には更に北上して、日本海に没すると予測されている。
琵琶湖の名所を紹介
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吉田初三郎画伯 鳥瞰図でめぐる 母なる湖 びわ湖
https://web.ambula.jp/ambula_web/dist/?ui=AMBLLKCD&mi=76&h=true&bd=true&bg=true&in=false
を参考にしてPhotoshopで改作した。
琵琶湖には3つの島と『沖の白石』と呼ばれる岩礁がある。上の鳥瞰図では観光地『竹生島』が大きく描かれているが、実際には、琵琶湖最大の島は『沖ノ島』で、約300人の島民が漁労に従事している。
江戸時代の浮世絵師歌川広重の「近江八景」
「琵琶湖八景」をご紹介
浮世絵「近江八景」は琵琶湖の南西岸に偏っていた。
1950年に琵琶湖が国定公園に指定されたのを機に、新たに琵琶湖周辺に名所を選定して「琵琶湖八景」を定めた。
「琵琶湖の城・寺・工人」をご紹介
大津市からこんにちわ
大津市 人口は34万人
滋賀県の県庁所在地。
日本最大の琵琶湖に面している。
逢坂山を越えると西側に京都市が隣接。
県内の地理的位置は下をご参照ください。
大津市は北緯35度に位置し、同一緯度上の世界の都市は以下のとおり。
大津市の鳥瞰図
大津は江戸時代、日本橋から数えて最後の宿場であり、次は終着駅「京の都」。逆をたどると、「京」から難所「逢坂山」を越えて最初の宿場が「大津宿」となる。
広重は「木曽街道六十九次」の浮世絵で大津宿を描いている。彼は本陣近くから北側の湖岸までの町並みを眺めながら、この絵を描いたのであろう。私は大津駅の近くに住んでいる。そこから湖岸までは緩やかな坂道となっており、自転車に乗るとペダルを軽く踏むだけで「なぎさ公園」に至る。広重の絵でも琵琶湖岸まで家並が徐々に沈みこむ遠景がよく描かれており、とてもリアルで構図的にも見事な傑作である。
琵琶湖水運にめぐまれて街道一の賑わいを誇った大津宿が、現在は一地方都市にすぎないものの、この絵は大津の美観を今も伝えている。
歌川広重が描く大津宿周辺の浮世絵
水との戦い ~琵琶湖疎水~
京都市は明治維新による東京遷都に伴い、人口が減少して産業も衰退した。そこで、京都府知事北垣国道が、京都復興のために琵琶湖疏水を計画し、工部大学校(現在の東京大学工学部)で琵琶湖疎水の優れた卒論を書いた21歳の田邉朔郎に設計監督にあたらせた。
逢坂山をくりぬく難工事が1890年に完成した。水運、利水に加えて日本初の水力発電所を稼働させ、日本ではじめてとなる京都の市電の運行が実現できた。
しかし、大津京都間に鉄道が敷設されてからは、琵琶湖疎水の水運の役目を終えた。現在は、春のサクラ、秋のモミジが美しい。
大津、春秋の色模様
紅葉が散りはじめ、いよいよ最後に一葉だけが残った。それがねばり強く枝にしがみついているので、不思議な生命力を感じた。そして一週間ほどした頃に消え去っていた。ふと下の小説を思い浮かべた。
わたしは、この小説を二度ほどそれぞれの言語で皆の前で紹介した記憶がある。一度目は、日本のYMCA英会話教室で、二度目は、大連交通大の中国語教室だった。