我が人生で最も印象に残っている教師は、小学生の先生だった。その教師が良い人、悪い人に関わらず、教師という窓をとおして『大人の世界』を垣間見ることにより、子供が成長するきっかけになっているように思う。
私が少年の頃には、町にも山野にも、遊び戯れる子供たちの叫び声が響いていた。そして遊びを取り仕切っている年長のガキ大将が必ずいたものだ。
ガキ大将になるには、ローカル・ルールがある。当時の北海道では、相撲が強くて草野球が上手なら、仲間から一目置かれる存在であったように思う。勉強は二の次だが、学校でのガキ大将は勉強が出来ればなおけっこう、というところか。私は、クラスで一、二を争う長身で屈強だったので、一学年上の子でないと勝負にならないほど相撲が強かった。
五年生のときだった。
はじめて男の先生がクラスの担任になった。林先生は若い教師で、相撲の相手までしてくれたので、私たちは兄貴分に思えてよくなついていた。
国語の授業では、先生におねだりして時々『話し方教室』を開いた。私は、少年クラブや漫画王などの少年雑誌から仕入れたネタを脚色し、面白可笑しく話して、クラス仲間から喝采を浴びていた。目立ちたがり屋のネアカ小僧であった私は、ガキ大将の条件がほぼ備わっており、ホーム・ルーム委員長にも選ばれていた。
ガキ大将は、野生のボスザルと同じで、子分やクラスの仲間が、他のグループからイジメに遭ったり、何か苦況に立たされたときには、助けてやらなければ、その地位に留まることは難しい。
厳冬のある日、林先生が出張したので、隣のクラスの担任(ベテランの男性教師で、A先生と呼ぶことにする)が、私たち児童の世話をすることになった。当時、一クラス60人もの児童がいたので、A先生は二クラス120人を受持たなければならなかった。
午前中は自習で過ごし、午後には体育の授業に振り向けられた。オホーツク海から吹き寄せる雪まじりの寒風に押し込められるように、百人以上の児童が体育館に集まった。だがこんなに多くの人数では、スポーツを全員ですることができない。ドッジボールを入れ替わり立ちわりやっている間にも、待機中の子供たちは、暇を持て余してあちらこちらで勝手に遊び回っていた。A先生は児童たちを持て余し気味で、だんだん機嫌が悪くなっていたようだ。
体育館には、式典用のステージがついていた。そこにも上がって、悪ガキたちは暴れ回っていた。ステージの移動式壁を動かしているうちに、天井から吊り下がっている照明器具に誤ってぶつけ、電球が割れた。
A先生の怒りがここで爆発した。割れた照明のそばにたまたまいた児童二人が、先生の許に呼びつけられて、激しい叱責を受けた。先ほどまでの喧噪が嘘のように鎮まり、A先生の怒声が体育館に鳴り響いている。私は、叱られるのはやむをえないと納得しながらも、何か割り切れないものを感じた。叱られている二人は、私のクラスの仲間だったのだ。
A先生のクラスの児童も、一緒にステージで遊び回っていたのに、なぜ叱られないのだろう?
「ありゃ~、不公平だべぇ」
クラス仲間の一人がいった。
林先生不在中の事件に対して、ホーム・ルーム委員長の私は黙っていていいのか? 何か一言いわなければ・・・。でも、あの怒り狂っている先生に抗議するのは恐ろしい。
見守る仲間を眺めながら、私の中で、この二つが葛藤していた。
そのうちに、あの叱られている二人は私の子分であり、自分はガキ大将として傍観してはいられないとの思いが、ついに私の背中を押した。これが高倉健さんのヤクザ映画なら、もろ肌脱いだ主人公が花と竜の彫物を背負って颯爽と登場し、単身悪に立ち向かう最高の見せ場となるはずである。が、現実の私は、ふるえる脚を恐るおそる先生の近くまで運ぶのが精一杯、といったところだった。
そして、言った。
「あのう・・・」
「なんじゃ。おまえ!」
Uターンして、皆の中に隠れてしまいたい思いをこらえて、先生に不公平をやんわりと舌足らずに抗議した。
これが先生の怒りに油を注ぐことになってしまった。今にして思えば、彼の肚の裡には、弱味を衝かれたことへの腹いせもあるのだろう。小生意気にも児童のぶんざいで教師に向かって何をぬかすか、とA先生は猛り狂ったのだ。
眼の前が真っ白になって、体育館に満ちあふれている百人からの児童の姿は消え失せた。 私は、ガキ大将の矜持など木っ端微塵に打ち砕かれて、悪意に満ちた大人に蹂躙されるがまま堪え続けた。
叱られている二人は、事態の急変をどう受け止めていたのだろうか? 嵐の鉾先が転じて、ほっとしたい気分にもなっていただろうが、それだけではなかったはずだ。
■林先生の説教
翌朝、私たちには、もっとつらい事態が待ちうけていた。
前日の一部始終をA先生から聞かされた担任の林先生は、出張帰りの一時限目の授業を中止して、説教をはじめたのだった。林先生が私たちを頭ごなしに叱りつけるような態度にでたのなら、私にも言い分がある。それは冤罪であり、A先生の処置の方がけしからぬ、と抗弁することもできただろう。
だが、林先生は我々児童に高圧的な態度をとるようなお人柄ではなかった。
――先生は君たちを信じていた。にも関わらず、不在中に信頼を裏切られたことに失望しており、誠に残念でならぬ。
林先生はそのようなことを、切々と訴えかけていた。これには参った。教室は静まり返り、一同、息を潜めて俯きながら聴いているばかりだった。
林先生は不満の対象を名指しすることは一切無かったが、不満のある部分が私によるものであることは容易に察せられる。
しかし私は、声を発して先生に詫びることも、ましてや言い訳することもなかった。そんなことは、小賢しい大人の発想であり、林先生を前に小学五年生には思いもよらぬことである。
林先生の説教をただひたすら聴き堪えねばならない辛さは、A先生の罵倒する声に堪えていたときより、遙かに苦痛で無念ではあった。
この一件はまもなく忘れてしまい、林先生との関係も旧に復した。子供とは、嫌なことはすぐにも忘れることのできる天才で、無邪気な存在なのだ。そして、クラス仲間と私との結束はいっそう深まった。
人生には不条理がたくさんある。後年長じてサラリーマン時代には、或る時には誤解され、或る時には立場上、不条理に耐え忍ばなければならないことが幾らでもあった。それが人生というものだ。A先生と林先生の上の一件では、我が人生で最初に不条理に耐えた貴重な経験であったと思う。