~~母とは切なくも、悲しい存在か?~~
■ 出生の秘密
15歳の春だった。あと一ヵ月もすれば、満開の桜の下で高校の入学式が執り行われるだろう。京都西陣地区の住む私は、府立山城高校に入学することになっている。
三月のはじめころ、父に呼ばれて居間にいくと、父母の他に叔父がいた。その叔父が、
「これをちょっと見てごらん」
と、私に一枚の紙片を見せた。それは、今にして思うと、戸籍抄本というもので、最初に見知らぬ男女の姓名、その次に私の名前、そしてその後に、我が父母の名前が書いてあった。
私はその意味が深く理解できたわけではないが、ただ事ではなさそうだ、と直感が働いた。ふと母を見ると、今にも泣き出しそうな顔をしている。
ここで、取り乱してはいけない! 15歳の少年ながら分別が働いた。
「わかった」
ひとこと言っただけで終わった。
しばらくして叔父が帰っていった。戸籍抄本は入学手続きとして高校に提出しなければならないそうだ。いずれ、私が『養子』であることが分かるだろうから、叔父に頼んで今のうちに知らせておこうと父母は覚悟を決めたようだ。
我が家が京都に移住してからこの年で三年目、私は春のこの頃、毎年朝顔の苗を庭に植えることにしていた。叔父や父母の前では平静を装っていたものの、朝顔の苗を植えながら、先の戸籍抄本のことを思わずにはいられなかった。我が出生の秘密を知ってしまった驚きがじわじわと胸に迫ってきた。
もう黄昏時で猫の額ほどの狭い庭は、臨家の壁にさえぎられて西日も差し込まず、薄暗かった。
「昭、ご飯よ」
母の声がした。
仏間をはさんで向こうに居間が見える。父母と妹が食卓をはさんでいた。
――あの三人が私と血のつながっていない他人なのか?
しばらくすると、また母の声がした。
すぐにも行かなければならない、と思いながらも、体が動かない。
この庭と居間の間、わずかに十メートル足らずが無限の距離に思われ、私は薄暗い闇の底に沈んでいた。
それからの二週間、私は寝床で我が運命を思い続けて、枕を濡らした。私の実の父母とはどんな人なのか? 実父は実母が私を身籠ってる間に病死したという。では私は、網走に住んでいる間に生みの実母に会ったことがあるのか?
ふと思い当たることがあった。
私が小学生のころに、ある親戚のおばさんが我が家に泊まりにきたことがあった。たまたま私はそのとき風邪で臥せっていた。枕元にそのおばさんがきた。じっと私を眺め下しているらしいおばさんの視線に耐えかねて、私は目を開けた。
「○○のおばさんですか?」
おばさんは、そうよ、とくぐもった声でいったが、寝室が薄暗かったので顔が定かではない。
――きっと、あの人が実母にちがいない!
と、思い至った。
一ヵ月もすると、私は出生の秘密が事実だとしても実感がどうしても湧かない。今の養父母こそが実の親だと思えてならなかった。それは、養父母が私を実子のように愛育してくれたことへの信頼感が深かったからだろう。
■ 北海道旅行
高校を卒業してから二浪して私は大学生になった。
一年生の夏、北海道旅行をすることになった。
生まれ故郷網走への途上、産みの母の家に立ち寄ったらいい、と父が勧めてくれた。だが、母が反対した。なぜ、と訊くと、
「生みの親の処へ行ったら、もうここへ帰ってこなくなるから」
と言うので、私は笑ってしまった。そんなことなど、あり得るはずがない!
父が説得した結果、母は同意したが「ただし、一晩だけ泊まるように」と釘を刺した。
これにも、私と父は顔を合わせて苦笑した。
が、二十年もの親子の生活をしていながらも、実の母子の関係を意識したとたん、育ての母がこれほどの不安を抱いている。ようやく養母の悲しみを知ることになったのだ。
夏休みに入ると、私はさっそく北海道へ旅立った。網走から京都に移住してから7年後にはじめて生まれ故郷にいくことになる。急行「白鳥」で日本海岸沿いを北上し、青函連絡船に乗った。
戦後まもなくのころ、幼少の私は父に連れられて網走から父の故郷滋賀県へ行ったことがある。そのころは、衛生状態が悪いために、青函連絡船に乗る時に、DDTの白い粉を頭からかけられたことを思い出す(上の絵図:こんな毒性の強いものが使われていた)。
だが、戦後約20年が経過している1964年(東京オリンピックの年)には、日本は復興し経済的に発展しているので、快適な旅ができた。
北海道では、まず、産みの母の家に立ち寄ることになった。駅に降りると、兄が迎えにきてくれていた。気さくな人で、すぐに兄弟の関係になった。
母の家には、母と上の姉がまっていてくれた。母には二人の娘と二人の息子がいた。この日は、下の姉が所用で来られられなかった。四人の中で、上の姉と兄は中肉中背で、下の姉と私が長身で体形が似ているそうだ。
その下の姉の写真を見せてもらった。地元の衣服のファッション・ショーに出たときのものらしく、とてもスリムな美人だった。この姉に会えなかったのは残念だったが、今日まで会えずじまいのままである。母はそのころ五十歳くらいだったろうか、やや小太りしたふくよかな顔をしていた。母と姉兄と四人で楽しい語らいがつづいた。私は養父母の家庭では妹のいる長男であったが、ここでは末っ子であることが快かった。もし、養子にでなければ、三人もの姉兄の末っ子として甘えて暮らしていただろうか?
しかし、現実はそんな生易しいものではなかったようだ。戦中に夫を病いで喪った母には、三人もの子供がいるうえに私を身籠っていたのだ。生活に困窮した母は、生まれ落ちたばかりの私を、子宝に恵まれていない親戚夫婦に養子にださなければならなかった。戦後の混乱期にも母は幼少の三人もの子供を抱え苦労したであろう。
養子に来た私には一年もたたないうちに、実子の女の子が生まれた(私の妹である)。が、養父は私を実子のように可愛がり、親戚のうちでも評判の子煩悩であったという。私を二浪の末、大学に入れてくれた。おそらく、実の姉や兄はそのような恵まれた生活はできなかったであろう。
母と姉、兄と親子水入らずの楽しい語らいの中で夕食が終わった。母が家の中を案内する。
ある部屋に二人だけで来ると、母がいきなり私の背中に抱き着いてきて、私を困惑させた。
この母が、生まれて間もなく私を養子に出したときから、二十年後の今でも我が子として思い続けていることがわかった。だから、私は母の思うがままにさせて立ち続けた。
そのとき、私は京都の養母をふと思った。
実母に会うことに反対した母、そして今わたしに抱きついている母。立場が異なれど、我が子を思う気持ちに差はないのだろう。私は、
――母とは切ない、悲しい存在なのだ。
と思わずにはいられなかった。
養母の希望どおりに、私は実母の家には一泊しただけで、網走に向かった。兄は母の仕事を引き継いで、洋品店を経営していた。生活が安定しているらしいことを知って安心もした。
生まれ故郷「網走」に向かう車中で私にはまだ実母の家にいた余韻が続いていた。
じつは、私の母は、依然京都にいる養母であり、実母は親戚のおばさんにしか思えなかったのである。養父母との二十年間の幸せな生活による強い絆があったからだろう。産みの母もそれを理解して許してくれるだろう。
■ その後
一ヵ月後に京都に帰った。母が安堵の胸をなでおろしただろうが、実母に会ったときの話題には母から問われず、私からも話はしなかった。それでいい。養父母と妹、そして私の四人の平穏な家庭生活がつづいた。
母はその一年後に肺結核で亡くなった。北海道という過酷な気象条件と、ストレプトマイシンやPASのような化学療法剤が未だ普及していなかった戦後まもなくの頃に発病し、その後も病状は一進一退がつづいていた。肺結核が亡国病と恐れられていた時代の最後の犠牲者だったろう。
実母はその後も十数年、生き続けたが、あるとき病死したとの連絡を受けた。
浄土真宗の門徒である父は、私を西本願寺に連れて行って、仏事をした。
「これですべてがおわった」
と、父がいったのを覚えている。義理堅い父が仏事をすることにより、養子にくれた実父母へのお礼のけじめをつけたつもりなのだろう。
その養父も二十年前に亡くなって、私はいま80歳の老境に達している。これまでの人生を平平凡凡とすごしてきたにすぎないが、そのことに些かの意義があるとも思えるのだ。私は、我が子を残したまま夭折することもなく、これまで生き続けている。かつて自らが経験したような悲しみが、我が子供や孫にはないことが幸いである。
そして私は、我が二人の母が抱いた “切なくも、悲しい思い” を記憶にとどめながら、やがて死んでいくことだろう。