1968年に大学薬学部を卒業した私は、製薬会社に入社して研究所に配属された。我が研究課の業務は開発中の新薬の吸収・分布・代謝・排泄を研究することである。
実験に使う動物はマウス(ハツカネズミ)、ラット(純系化したドブネズミ)、ウサギ、猫、猿、犬などである。
ラットがドブネズミだと書けば、読者は、都会の下水などに生息するあの汚いネズミを連想して、眉をひそめるかもしれない。実験に使うラットは長い年月をかけて純系化した白い毛並みと赤い目をした可愛い動物である。
あるとき、研究所ちかくの下水で白と黒のブチのある奇妙なネズミが発見された。どうやら、研究所から逃げ出した愛らしいラットをドブネズミが見初めた結果、生まれたハーフ(?)らしい。
薬を服むと、薬は主に小腸から吸収され血流に入る(薬を注射した場合には直接血流に入る)。その後、薬は体の組織に分布する。頭痛なら脳で、炎症ならその部位で薬は効果を発揮する。薬は主に肝臓で徐々に代謝されて、最後に尿糞中に排泄されて体外出る。
動物実験で血液や組織中の薬物濃度を測定すると、コンピュータでデーター解析が行われる。1970年代にはIBM社製の巨大なコンピュータだった。発熱するので電算機室には冷風が吹き荒れ、機械音がゴーゴーと唸る中で、数値計算をしていた。それが今では卓上のパソコンで同じ能力があるのだから、科学技術の進歩には驚かされる。当時の私は、時代の最先端をいく大型コンピュータを使うことに熱中していた。
■ 村から飼いネコが消えた?
私の学生時代には、サリドマイド事件をはじめ薬害事件が世間を騒がせ、医薬品の有効性と安全性が強く要求されるようになっていた。だから、私が製薬会社で新薬の開発に従事するようになった頃から、薬の有効性と安全性を科学的に証明することが重視されるようになった。それに伴い、純系化した(つまり由緒正しい)実験動物が使われるようになった。
それまでは、実験動物の品質はいい加減なものだったらしい。例えば、猫についてはこんな話を聞いたことがある。
先輩研究員のAさんは猫を薬理実験に使っていた。近郊の農村から通勤していた彼は研究熱心で、業者から買った猫を使い果たしたために、ひそかに村の野良猫を捕まえて実験に使ったらしい。そのうちに、村中の飼い猫までいなくなり、「どうやらAさんが怪しい」と、噂がたったそうである。愛猫をしらぬ間に実験で殺された村人にとっては、迷惑なことだろう。だが、野良猫はもとより愛玩動物として村人が飼っている猫は、雑種なので、実験結果がばらついて信頼性のあるデーターが得られないのだ。
犬も同様で、それまでは最寄りの保健所で殺処分する予定の野良犬を譲り受けて実験に使っていたので、いい実験結果が得らにくい。
私が勤務するようになったころからは、国内外の飼育業者(動物農場)が計画的に産ませ、よく管理して飼育した純系の動物が提供されるようになり、実験の質が向上した。こうして、研究所内の生き物は、全て純系である。ただし、研究所屋上に出没するドブネズミと研究員と呼ばれる人間だけは例外で、育ちの悪い雑種ということになる。
実験犬は、英国でもともと王侯貴族がキツネ狩りに使う猟犬であるビーグル犬を系統的に育てて供給されていた。だから、一匹10万円もする高価なものだ。1970年ころ、4万円程度の安月給取りの私は、由緒正しい家柄の高価な<お犬様>を使っていたことになる。
■犬との蜜月時代
薬理研究課から数匹の中古ビーグル犬を譲り受けて、本格的な犬実験がはじまった。犬実験の多い私が、犬の世話係になった。毎日屋上の犬舎にいって水と餌をあたえ、檻内の糞尿の掃除までやった。
犬に名前もつけてやった。四十数年後の今でも、三匹の名前だけは憶えている。一番元気のある雄犬に「太郎」、おとなしい雌犬に「なでしこ」、そして「胃郎」。「胃郎」とはヘンな名前だが、薬理試験で胃液を体外に流出する瘻管(ろうかん)の導入手術をして生き残った犬だからである。私はそれまで犬を飼ったことがないが、とても人懐こい動物である。階段をのぼり屋上に近づくだけで私の足音に気付き、犬たちはいっせいに吠え出して、私を歓迎する。
犬との蜜月は、しかし一年後に終わった。
――屋上の犬の鳴き声がうるさくて、夜も眠られない。
近隣の住民から苦情がでたのだ。
そこで、動物管理課の獣医の資格をもつ研究員が声帯除去手術をすることになった。しかし、この難解手術が初体験の獣医は、私が可愛がっている犬を次々と死なせてしまったので、泣いてしまった。
■高まる犬の需要
私が入社して十年目ころだったろうか、発展し続ける会社は、新薬開発に拍車をかけるために新研究所を竣工した。
そして、我が研究部門もそこに移った。新研究所では、屋内に犬の居住施設が完備しており、糞尿の掃除係も別にいる。もはや近隣住民からの苦情も言われずに済んだし、使用するビーグル犬も真新しいものを購入できた。だが、増え続ける業務に対応して犬の数も増えた。
ここで避けられない事実を述べねばならない。それは、実験(薬物投与)を重ねるにしたがい、犬に与える未知の障害が懸念されることだ。外見上は健康そうに見えても、どのような障害が犬の体内に発生しているかは分からず、ひいては、実験の信ぴょう性にも疑問がある。だから、投薬実績を配慮して、一定期間後には犬を殺処分しなければならなかった。接するたびに親愛の情が深まっている犬を殺処分するときは、『動物愛護の精神』に従って安楽死させるとはいうものの、心が痛む。
だが、更に犬が増え続け、毎年新規購入の犬と殺処分の古い犬との回転率が高まると、もう犬への思い入れの情など入り込む余地がなくなってしまった。かつては、「太郎」、「なでしこ」、「胃郎」と呼んで犬への親愛の情を寄せていたのに、今や犬の名前はなくなって購入時の《入れ墨》による識別番号だけになってしまった。
■尾っぽの生えたビーカー
あるとき、ドイツから提携会社の研究者が我が社を訪問した。そのとき懇親会の歓談中に、一人のドイツ人がこういったのを今でも鮮明に覚えている。
「実験動物は、犬でも猿でも、皆《尾っぽの生えた試験管》ですよ」
こう平然と言い切った彼に、私は半ば同意しながらも、それはちょっと違うなとも思った。それは、犬への思い入れがあったからだろう。
試験管はしょせん無生物であるのに対し、動物は生き物である。なるほど、マウスやラットとは心を通わせることは無理としても、犬や猿には喜怒哀楽の感情があり、人となにがしかの心の交流ができる存在なのだから。若かりし頃、「太郎」、「なでしこ」、「胃郎」と呼んで犬と仲良くしていたころが懐かしく思えた。
だが、時が経ち、私は平社員から係長、課長、部長へと昇進し、いっぱしの学者のような気分にもなっていた。が、もうその頃には、次年度の予算計画書に、ビーグル犬○○匹購入と書き入れるだけで、その裏で、役目を終えた犬が殺処分されることなど考えもしなくなっていたのだ。
■俺は犬殺し!
若かりし頃のこんな思い出を最後に紹介しよう。
ある日、仕事を終えて、夜道をあるいていた。なにやら、私の後をつけてくるものがある。振り返ると、野良犬らしい。私を見上げて、尾っぽを振っているところを見ると、私を襲うような気配はなかった。
思い当たることがある。このところ会社で毎日犬の実験が続いている。ビーグル犬は独特な体臭があり、知らず知らずのうちにその臭いが我が身体に染みついているのかもしれない。だから、
――この野良犬は私を仲間と勘違いしているのか?
犬に微笑みかけていった。
「おい、シロよ! おまえ、気をつけた方がいいよ。おれ、本物の『犬殺し』なんだからな。バイバイ」