■はじめに
70歳にたっした私は、中国の大学では教師として採用される道が途絶えた。しかし中国に魅せられた私は、語学留学生として、なおも中国に留まる道をさがした。
大連はどうだろう? この都市は戦前には「満州国」に隣接する日本の租借地として栄えた。その名残だろうか現在でも日本語学習熱が高いので、私は日本語教師の就職先として中国の中では真っ先に希望したのが大連であった。しかし、大学からの求人広告がなかったので断念した経緯がある。
大連を舞台とした清岡卓行の芥川賞受賞作『アカシヤの大連』を読み、北国の詩情あふれるこの街に憧れてもいた。こうして、2014年に大連交通大学に留学した。
留学生の中には、カンボジアやモンゴル、カザフスタンなどからの国費留学生がいる。彼らはこの学院で1、2年中国語に習熟した後には、専門学部の本科生に転じることを目指している若者なので、優秀で学習意欲も高い。
下の写真中の多くは、中国周辺の各国から来た国費留学生
一方、私のような老人留学生は、語学学習より留学生活を楽しむことに関心がある(日本から逃げ出した遊び人?)。
そして気取りながら、“馬賊の歌”を嘯く。だから、上の若者たちと較べてあまり優秀ではないが…。
アイ・ジョージの「馬賊の唄」は下のURLをクリックしてお聴きください。ただし、この歌には戦前の「大アジア主義」的色彩がありますのでご注意ください(私はそのような思想に賛同してはおりません)。
■囲碁クラブ
この大学の囲碁クラブに参加した頃は、中国人もふくめて十数人が集い活況を呈していた。しかし、クラブ長の三浦さんが病気で帰国してから参加者が激減して、留学3年目にはクラブ員が私一人になってしまった。そこで、留学生仲間で、囲碁が滅法強いと噂されている韓国人の申さんに頼み込んで、ようやくクラブに参加してもらうことになった。
■変人・奇人の韓国人《申さん》
老人留学生の中で一人だけの変わり者は、韓国人の『申さん』である。彼は留学歴が長く、私よりも中国語の能力が高いが、さほど授業に熱心であるようには見えない。時々授業をサボルし、出ても必ず15分遅刻の常習者だった。我々日本人は、授業開始時間前に着席して教師を迎えるのが礼儀だと考えているので、彼のマナーには悪評が立っている。しかし、申さんは他人の評判など意に介していないようだった。一クラスに我々日本人留学生が六、七人いるのに対して韓国人留学生は彼一人であったこと、そして不愛想で人づきあいの悪さから、孤立していた。
彼の韓国での前歴は、学校の校長先生だったという。
――元教育者とは思えない、ちょっとヘンな人だ。
日本人留学生仲間は彼と距離を置いている。
申さんはおそらく70歳前後だろう。だが、それにしては、ふさふさとした頭髪は黒々としており、おそらく髪を染めているのだろう、と私は想像した。
ある日のこと、朝一番の授業が8時からはじまった。15分を過ぎ、8時半になっても彼は現れない。教師はあるヘンな予感がして、学生に彼の居室の様子を窺いにいかせた。我々は留学生宿舎に住んでおり、教室も宿舎の中にある。
「先生、大変です」と学生が報告した。「ドアをノックしても返答がありません」
じつは、数年前に老人の留学生が倒れて、病院で死亡する事故があったのだ。教師が心配して、宿舎の管理人を呼び出した。
教師が申さんの部屋のカギを開けて中にはいる。
ベッドを眺めると、見知らぬ男が寝ている。頭がてかてかの丸坊主だった。
「あなた誰?」
男が目を覚まして、「え? どうしたんですか」と逆に問うた。よくよく見ると、紛れもなく申さんであることがわかり、「ああ、よかった」と、教師が安堵の胸をなでおろした。
禿げ頭の申さんが人前では《カツラ》をしていることがばれて、それ以来、留学生のなかで笑い話の種として語り継がれることになる。不愛想だが、ユーモアを誘う風体の彼に、私はちょっとだけ親しみを抱いた。
■華(ハナ)ちゃん
囲碁クラブには、大人が私と申さんだけなのに、中国人の少年が数名、母親同伴で参加している。中国では父母が小学生の我が子にテニスのようなスポーツや囲碁のような文化活動をさせることに熱心である(中学校からは勉学一色だが)。あるときから、華ちゃんという小学一年生のあどけない少女が母親同伴で囲碁クラブにくるようになった。児童の登下校や、この種の活動に親が同伴するのは、日本では信じ難いことだが、人さらいを恐れてのことだろう。
申さんは、私が6子置かねば勝負にならないほど強いので、私との対局にはあまり関心がないようだ。ところが、彼は華ちゃんを指導することに興味を抱きはじめた。華ちゃんは、小型の碁盤で石の並べ方のイロハを学ぶことから始まり、詰碁を学習し、最後には対局ができるまでに上達した。
囲碁クラブは水曜日の午後1時から開催される。ある週末に、囲碁クラブ室に電灯が点いているので、のぞいてみると、華ちゃんが申さんの個人指導をうけている。我が子の埋もれた才能を伸ばしてやろうとする母親の熱意と、それに応える申さんの教育的情熱が、室内に立ち込めていた。
■華ちゃんとの対局
華ちゃんがクラブに来てから、1年ほど経ったころだった。たまたま国慶節休暇の直後で、申さんはまだ韓国に帰国中だった。そのとき、私ははじめて華ちゃんと対局することになった。わたしは、当然、華ちゃんに三、四子を置かせて対局しようとしたが、華ちゃんが、互先の勝負を主張した。
――この娘っ子、鼻っぱしらが強いな。
わたしは笑いながら受け入れて、彼女の先手で対局が始まった。ところが大接戦となり、華ちゃんの上達の速さに驚いた。これは母親や申さんの意欲だけではなく、華ちゃんの優れた才能によるものであることを認めなければならない(当時の私の棋力は初段手前程度だった)。
翌週、申さんが戻ってきた。そして、彼が見守る中で、私と華ちゃんが再度対局した。
今度は、わたしが大勝した。申さんが講評してくれた。私と華ちゃんがまだまだ未熟であることがわかって、私には参考になった。
申さんの解説中、華ちゃんは俯いてばかりいた。そして、彼女の頬に一筋の涙が伝っているのを発見して、感動した。私には一局の勝敗はささいなことだ。しかし、華ちゃんにとっては、師事している申さん注視の下で無様な負け方をしたことが無念であり、少女ながらに自らを恥じたのではないだろうか。その心映えこそ立派ではないか!
申さんも涙に気づき、私に微笑んだ。
――この子こそ、私が手塩にかけて育てた愛弟子だよ。
彼は誇らしげにそう言いたかったのだろう。
――世有伯樂、然后有千里馬(世に伯楽有りて、然る後に千里の馬有り)。
そして、人と人との間においては、
――優れた指導者を得て、人の才能は開花する。
つまり、教育が大切だともいえるだろう。
中国で日本語教師だった私は、これまで申さんの行状を見ていて、こんな人物が韓国で校長先生だったのかと、大いに疑っていた。しかし、成長した華ちゃんを知ると、申さんが今も立派な教育者であることが信じられる。そんな私の好意を彼が感じ取ったのだろうか、私と申さんは親しい友人となった。
■その後
わたしが大連交通大で4年間の留学を終える半年前に、申さんは先に韓国に帰国した。それと共に、少女と母親が囲碁クラブに来なくなってしまった。私では、申さんの代理が務まりそうにないのだから当然である。
帰国してから早や5年が過ぎた。日本でのつれづれに、中国の生活記録を懐古しながら整理している。
中国で知り合った友人の中で、特異な人物として第一に思い出すのが『申さん』である。彼は一見だらしなく風采のあがらない変人・奇人といってもいいだろう。だが、そんな彼があるとき、教師として光輝いている現場に、わたしは立会うことができた。それは古物市で偶然発見した掘り出し物に似て、すこぶる気に入った。人間とは分からないものだと思う。
教師には二つのタイプがあるように思う。一つは、吉田松陰のように、ほとばしる全人格で弟子を感化させる。もう一つは、大工の棟梁のように、ある一点を精緻に造りあげる技術と情熱を弟子に教え込む。おそらく、申さんは後者のタイプなのだろう。
こうして、申さんは我が中国生活に彩をそえてくれた、忘れがたい人となった。
彼とはその後、音信不通のままである。カカア天下の日々の中で、しょぼくれた老人になっていないことを祈るのみだ。