<黄鶴楼>
武漢市は、長江と支流『漢江』が合流する地点にあり、そこの『黄鶴伝説』や『李白』の詩は有名である。黄鶴楼の最上階からは長江が見下ろせた。
その後、長江に架かる『武漢大橋』のたもとへ行き、対岸や遥か下流の方角を眺めた。
長江は春霞でぼんやりとかすんでおり、遙か下流が天空と一体となっている様は、李白の詩そのものであった。李白の作詩した季節も旧暦の3月だから、ちょうど今私がいるときと同じだ。李白が詠じた時と千数百年の時空を超えて、長江は今も往時と変わりなく滔々と流れている。日本にいて李白の詩を吟じているだけでは味わえない、現地に佇んでいる感動というものだろうか。
<岳陽楼>
武陵源の帰り道にこの楼閣を訪れた。楼閣内で同行した学生が『登岳陽楼』を吟唱してくれた。これで、李白、杜甫の二大詩人にまつわる楼閣を訪問できたことは最高の歓びである。しかし、杜甫は長江のすこし下流でついに病死した。上の絵図はそれを描いた場面である(インターネットから引用)。
なお、九江長江大橋は武漢よりすこし下流に架かっている。私は乗っていた夜行列車がこの大橋を渡っている間、黒洞々たる長江の水面を眺め続けていた。その間、約20分が無限の長さに思え、長江の広大さを実感したのだった。
<客家土楼>
客家はもともと中原に住んでいた漢民族の一部が異民族の支配と戦乱から逃れるために、南方に移住してきた人びとであった。そこの先住者から“よそ者”『客家(はっか)』と呼ばれ、相互の軋轢が発生した。そこで、客家は外敵から身を守るために、外部から立ち入り禁止の大きな土楼を建て、その中で自己完結型の生活をしていた。福建(省)土楼が有名で3~5階建、80家族が生活している(上の写真)。
江西師範大学で教鞭をとっていたとき、江西省南部の山岳地帯寄りに住む教え子、客家の子孫がいた。その女学生が作文授業で、「客家人の我が家では独特の郷土料理を作っています」と書いていたので、私が食べてみたいというと彼女の母が作った料理をわざわざ我が宿舎へ運んでくれた(上の写真)。
客家は居住や農業に悪条件の山間部やその周辺にしか定住できなかったので、その過酷な労働条件にたえられる食事文化が育まれたようだ。学生の母が作った客家家庭料理はやや塩味の濃いものだったように思う。
客家は海外(華僑・華人)も含めた総人口が1億2千万人というから、日本の人口に匹敵する大勢力である。歴史上、思想家、革命家、政治家に客家出身者がいる。
雲崗石窟・竜門石窟
両石窟は、中国の北部を支配した鮮卑族による北魏王朝時代に造営された。
<大同市の雲崗石窟>5世紀中後半に開削された。地元民がこの石窟を便所や物置場所として粗末にあつかっていたのを、日中戦争のとき日本軍により調査され戦後に公表されてから、世界的関心が高まった。
<洛陽市の竜門石窟>平城(大同市)から洛陽に遷都した494年に始まる。北魏が滅亡したのちも掘削が継続し、唐時代に竜門最大の『盧舎那仏』が完成した(写真左下)。この温和なお顔は東大寺の大仏のモデルとなっているそうだ。
両石窟の美術史的な違いは代表的座像を比較するとよくわかる。
雲崗の『釈迦如来坐像』には、西方(ガンダーラ美術やグプタ朝の様式)の影響が色濃いといわれている。一方、龍門の『盧舎那仏坐像』には、中国固有の造形も目立つようになり、西方風の意匠は希薄となる。
私は両石窟を見学できたことに満足しているが、中国三大石窟の一つ、『敦煌莫高窟』には行けなかったことが心残りである。