7 歴史遺産

歴史遺産の都市地図

 

山海関(秦皇島)

 漢民族にとって北方騎馬民族の侵略を防ぐことが最大の課題であった。その防衛施設として『万里の長城』を築き、秦の始皇帝時代に一応の完成を見たとされている。その後歴代王朝が補強をかさねてきたが、現代に残っている万里の長城はほとんど明代に築いたものである

万里の長城と山海関
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山海関とのちに呼ばれるこの地域は、満洲から中原に向かう軍が必ず通らなくてはならない交通の要所(兵家必争之地)であったために、明代に強固な軍事要衝として『山海関』が築かれた。

私は同行の学友と一緒に関内と長城に連なる城壁上をあるき、山海関の堅固さに納得した。しかし、如何に強固なモノも、人の心の弱さには敵わないようだ。ここを守っていた明の将軍呉三桂が、『李自成の乱』に動揺して清軍に投降したために、山海関を無血開城してしまったのだ。明末清初の事情は司馬遼太郎の『韃靼血風録』に描かれている。韃靼とは女真族あるいは満州族のことである。

 

万里の長城は、東は渤海に突き出た砦を含む山海関から西へ北京の北側の『八達嶺』をとおり、西端の『嘉峪関』までとされていた。しかし、2009に中国政府が丹東市の虎山長城』を長城の東端と訂正している。私は虎山長城も訪問したが、これは完全に復元されたものである。しかし、北京の八達嶺ほど観光客で混雑していないので、ゆっくりと見分できた。

 

秦&唐王朝・三国志

西安と漢中

私が訪れた名所旧跡のなかで、西安市周辺には数えきれないほどあって紹介できない。三国志ゆかりの地も同様である。 

なお、諸葛孔明の墓は盛り土をしただけの素朴なものだった。孔明と同時代人の魏の猛将『張遼』、そして千年以上後の清の二代皇帝『ホンタイジ』も同様である。また、農民の墓も盛り土の簡素なものが多い。一方で、『始皇帝』や唐の『武帝』のものは、全山が墓となっている。

盛り土の墓
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平遥古城・麗江古城

平遥古城と麗江古城

<平遥古城>

明代に金融の中心地として栄えたが、その後没落して近代化が進まなかった。それがかえって幸いし、明・清代の中国の典型的な古建築が保存された城郭都市として観光地になっている。『中国の馬籠』といっていいだろう。

わたしは貸自転車で城内を散策した。そして夜は、門をくぐると中央の庭を四辺の部屋で囲んでいる古民家(四合院)に宿泊した。ホテルというよりは旅籠屋の雰囲気に魅力があった。

 

<麗江古城

 赴任地昆明から夜行列車に乗ると、早朝に麗江についた。標高2,400mの高地にあって、少数民族ナシ(納西)族によって築かれた人気の観光地である。平遥古城が強固な城壁で街が守られているのに対し、こちらの古城はそんなものは無く、いたって平和そうな佇まいで、土産物屋がひしめく左右の細道を散策した。

 しかし、夜もとなれば、カフェやディスコハウスからにぎやかな音楽が流れ出る、若者天国になっていた。