■その1 教師が語る脱獄譚
これも小学校5年生のときのことだ。
国語の授業で、私たちは先生におねだりして、ときどき「話し方教室」を開いた。少年雑誌から仕入れた題材を脚色して皆の前で発表しあうので、退屈な国語の授業よりよほど楽しい。
ある日の「話し方教室」の最後に、林先生が「私にもひとつ面白い話があるんだ」と前置きして、次のように語った。
「網走刑務所に “五寸釘の寅吉” という強盗殺人犯が服役していた。その寅吉がある日脱獄した。監視のわずかな隙をついて独房を抜け出し、高い刑務所の塀を登り、外に、えいっ、とばかり跳び降りたんだ。ところが運わるく地面に五寸釘が落ちていて、寅吉の足にグサリと突き刺さったからたまらない」
「ええっ! 痛そう~」と私はわがことのように身震いした。「ぼくなんか、とげが刺さっただけでも痛いのに、釘が刺さったらどうなるの?」
「痛い、痛くないって、いっているときじゃないさ。寅吉は足に釘が突き刺さったまま、刑務所の裏山へと逃げた」
「誰も寅吉のことに気付かなかったのですか?」
学友がきいた。
「もちろん、刑務所の監視員がすぐに気づいて、総出で追いかけたよ。ただちに警察署にも連絡し、町の中には非常線が引かれて、水も漏らさぬ厳重警戒さ。なにしろ、寅吉は凶悪犯だから、町の人に危害があってはならない。そして、刑務所と警察が一体となって、山狩りをやったんだよ」
ここまで聞いていた私たちは、目を輝かせていた。寅吉を恐れてはいたが、ことの顛末がどうなるのかと、興味津々で期待に胸を膨らませる。林先生の講談調の語りはいよいよ佳境に入っていく。
「追っ手から逃れるために、寅吉は山中の道なきみちをイノシシのように駆けにかけ、ヒグマのように走りにはしりまくったな。雨が降って身体は冷え込むし、そのうえ釘が刺さったままの足は痛む! 三日三晩逃げににげ回った。そして四日目の朝がきて、寅吉はようやく一息ついた。
――これで逃げきれた。オレは自由の身になったのだ!
寅吉はほくそ笑んだのさ」
そうか、やっぱり脱獄に成功したんだ、と私たちは互いに笑顔を交わした。
「雨がようやく止んだが、あたりは深い霧に覆われている。そのうちにオホーツク海から北風が吹きつけてきて、霧が徐々に晴れてくる。と、向こうに塔のようなものがうっすらと墨絵のように浮かびあがる。『あれは何だ?』と、寅吉が眺めているうちに霧が晴れ上がった。『ヤバイ、刑務所の物見櫓だ!』と、寅吉が叫び終わるかおわらないうちに、刑務所員が大勢かけつけてきて、寅吉は “御用” となったのさ」
「チェ。な~んだ、つまんねぇ」
私たちは、あっけない幕切れに、期待を裏切られて不満だった。今風に言えば、水戸黄門さんの勧善懲悪テレビドラマのようで、“悪が栄えることはない"ーーということか? しかし、当時の子供は先生の話を疑うことは許されない。終業ベルが鳴って林先生の講談が終った。
学校から帰ると、父にそのことを訊いてみた。父は笑いながらいった。
「先生がそう言っているのだから、本当だろうよ!」
実は、父の姉の嫁ぎ先が網走で手広く呉服屋を営んでおり、父は番頭だった。皇室御用達ならぬ刑務所御用達で、衣類納入のために父は時どき刑務所に出入りしていた。今にして思えば、当時の刑務所内の状況を詳しく聞いておくべきだったが、子供の私にはさほど興味がなかったし、父も子供に刑務所のようなヤバイ所の話をするのが、はばかられたのであろう。既に他界している父にもう聞き出すことはできない。
こうして私には、凶悪犯・故郷の刑務所・脱獄・五寸釘を刺したままの逃亡・・・・と、どれもこれも魅力的で刺激がある。“五寸釘の寅吉” の脱獄譚が強い印象として脳裏に刻まれたまま、後々まで持続することになった。
だが、遠くに逃げたつもりが刑務所の門前に “逆戻り” したなんて、寅吉の間抜けぶりには不満がのこった。
しかし、これも網走の地形を理解するためによかったのかもしれない。先生は最後にいっていた。
「北の大地網走は、北側がオホーツク海、残りの三方をぐるりと山で囲まれている上に、湖も川もあるんだ。だから、脱獄犯は山中を駆けにかけたつもりでも、けっきょくは、網走の周りを一巡するだけだったのさ!」
――そういうことか、網走刑務所は、世界に誇るべき最適地にあるんだ!
そう信じて疑わなかった。
我が家は中学二年生から京都に転居した。京都の学友は、網走刑務所のことなど知らず、北海道から来た私に、「お前はアイヌか?」と希に訊く程度だった。しかし私は相撲がつよくて都人の子孫をつぎつぎに投げ飛ばすものだから、「やっぱり北海道のやつらは “荒くれ者” だ」と思ったことだろう。
大学生のころに、高倉健の『網走番外地シリーズ』が始まり人気を呼んでから、【網走=刑務所】のイメージが定着した。網走出身だということで、刑務所服役犯の子であると疑われたことがある。そんなときには口元に少々ニヒルな笑みを浮かべて言ったものだ。
「そうさ、オレの父ちゃんは、強盗殺人未遂で、“ムショ” にくらいこんでいたのさ。母ちゃんは幼いオレと妹をつれて網走に行き、父ちゃんの出所を待っていた。三年前に、ようやく仮釈放となって京都にやってきた。あの頃を思い出すとオレは・・・」
これを信じた学友は私を驚きと憐憫の念で見つめていた。が、真実を明かすと、「なんだ、オレに一杯食わせやがって!」と大笑い。そのついでに、『五寸釘の寅吉』も紹介した。
■ その2 「五寸釘の寅吉」は実在したか?
こうして、私は成人してからも、網走の思い出の一つとして『五寸釘の寅吉』と刑務所を結びつけるようになっていた。今や我が胸の裡には、寅吉は故郷の英雄にまで膨らんでいる。 義民「惣五郎」や「長嶋茂雄」を生んだ佐倉市とは趣きがことなるが・・・
だが? と、私には疑問もあるのだ。五寸釘といえば、15 cmもの巨大な釘である。そんな物を突き刺したまま三日三晩、山中を駆けぬけることなどできるのだろうか?
長い間、疑問であったことが、最近インターネットで調べた結果、明らかになった。
インターネット「ホームページ 博物館 網走監獄」やウィキペディア(西川寅吉)に紹介されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%B7%9D%E5%AF%85%E5%90%89
●監獄秘話・明治の脱獄王「五寸釘の寅吉」
五寸釘の寅吉こと西川寅吉が初犯をおかしたのは14歳の時で、賭場で殺された叔父の仇を討とうと敵の親分と子分4人を斬りつけ火を放って逃げた。逮捕されて収監後、脱獄したのが1回目である。
4回目の服役中に脱獄したとき、逃走中に路上で板についた五寸釘を踏み抜いてしまったが、そのまま12キロも逃走し力つきて捕まった。
5回目に遠い北海道の樺戸(かばと)集治監に送られて服役するころになると、脱獄犯寅吉の名は全国に知れわたることになり、彼を畏敬する囚人たちの援助でさらに三度も脱獄を繰り返した。逃走中に、盗んだ金を貧しい開拓農民や出稼ぎ中の留守宅に投げ込んだりもしたため、一躍有名になって庶民からもてはやされヒーローになった。
7回目の服役中に脱獄した頃には、老いかけている寅吉はすぐに逮捕され、網走集治監(後の「網走刑務所」)に服役した。
網走に収監されてからの寅吉は沈黙した穏やかな生活に入る。監獄で働いて得たわずかな金を、故郷の妻子に送金し続け、手紙も書き送っていたという。
大正13年、72歳の寅吉は長い獄中生活を終える。人気者の彼は、仮出所後に興行師に利用されて、「五寸釘寅吉劇団」という一座を組み、全国を巡業した。彼には人情に篤い江戸時代の渡世人といった雰囲気がある一方で、ちょっとおだてに乗りやすいお調子者にも見える。最後には故郷の息子に引き取られて、平穏な生活の中で安らかな往生を遂げている。
以上の実録で、我が疑いは晴れた。寅吉は総計8回脱獄するという輝かしい経歴の持ち主ではあるが、残念なことに(?)網走刑務所は脱獄していない。
しかし、「4回目の服役中に脱獄したとき、逃走中に路上で板についた五寸釘を踏み抜いたまま12キロも逃走した武勇で、「五寸釘の寅吉」の異名がつけられた」とある。
それにしても、林先生の語る「五寸釘の寅吉」の英雄譚は中々よくできている話ではないか! これほど有名で、網走刑務所にも服役していた彼のことを、町の人も噂で知っていたに相違ない。寒い北国の夜長に、赤々と燃えるストーブの周りに集まって、暇つぶしの炉辺談義には、寅吉のエピソードは恰好の話題だったろう。林先生が寅吉の実話をどれほど知っておられたかは知る由もない。だが、私たち児童が「話し方教室」をしばしば開き、面白可笑しく話しては、学友から拍手喝采を浴びていたのだ。これを聴いていた林先生が、
――ガキ共に負けてはいられない。ひとつオレもとっておきの話で、小僧っ子どもを驚かせてやろう!
と、考えられたのはあり得ることではないか。そして、林先生の虚実取り混ぜた「五寸釘の寅吉の英雄譚」に、私たちはまんまと乗せられたというわけだ。
ちなみに、私は数十年前に、林先生に時候のご挨拶のお手紙をさしあげたことがある。もう定年退職されていた先生は、「海釣りが趣味だ。そのうちに釣り上げた秋味(鮭)を送ろう」と、お返事をくださったが、実現しないうちに他界されている。
ともあれ、網走刑務所は、施設・警護共に十分行き届いており、脱獄が日本一困難なところであるとされている。だがもし、寅吉が若い頃に網走刑務所に収監されていたら、脱獄を実行し、成功していたのかもしれない。スポーツ選手のように、脱獄には知力と体力、胆力が不可欠である。寅吉が老いを感じる歳になって網走に送られて来たことは、刑務所長には幸いした。結果として、網走刑務所は脱獄困難な牙城としての栄光を保ち続けることになる。
■ その3 網走刑務所からの脱獄犯がいた!
網走刑務所から脱獄した者がいたことは、小説『破獄』(吉村昭著、新潮文庫)に詳述されている。この力作を読んで、脱獄に成功した「佐久間清太郎」(本名、白鳥由栄)のものすごさに圧倒された。「五寸釘の寅吉」もさることながら、佐久間の方が一口で形容すれば「知力あふれる行動の人」という意味で、もう一段優れていると感じたほどである。
佐久間は5回目の服役中に、刑務所長の温情あふれる扱いに心和んだ刑務所生活を送り、もう脱獄することがなかったという。しかし、彼の3回目の脱獄が網走刑務所であったことより、明治時代以来破られたことのない、<網走刑務所>の栄光はもろくも崩れさったことになる。
佐久間清太郎の網走刑務所を脱獄した様子を伝える蝋人形。
彼は怪力の知能犯で、頭が入るスペースさえあれば、全身の関節を脱臼させて、容易に牢獄を抜け出すことができた。
写真は「HP博物館網走監獄」より
ホームページ「博物館 網走監獄」では、五寸釘の寅吉が「明治の脱獄王」に対して、佐久間は「昭和の脱獄王」と形容されている。私の印象では、前者が浪曲の主人公にでもなりそうな大衆受けのする人間なのに対して、後者は現代スリラー小説に登場してもおかしくない知性を秘めた不気味な人物である。
ここで冒頭に戻ろう。林先生が語った「五寸釘の寅吉英雄譚」は、五寸釘を足に刺したまま逃走した寅吉と、網走刑務所を脱獄した佐久間との合作によって作り上げられたと見るべきだ。そして、二人は、共に希代の英雄として、網走の人々に語り継がれていくだろう。
■ その4【後記】
「刑務所」は網走市民には迷惑な存在だったろう。それさえなければ、網走は山、川、湖、海と美しい大自然に囲まれた町なのだから。戦前には、刑務所名を “網走”とは違う、例えば、所在地の名をつけて「大曲刑務所」のように替えてほしいと国に陳情したが、認められなかった経緯があるという。
しかし、平和な時代を迎えて、刑務所のイメージも様変わりしている。日本が豊かになり旅行・観光ブームの中で、かつては忌まわしい存在だったものが、観光名所の役割を担うことがある。網走では、1、2月に網走海岸に「流氷」がやってくると、漁師は船を出すことができないし、最も冷え込む酷寒(北海道人は”しばれる”凍りつくと形容する)の時を迎える。が、今では「流氷祭」が開催されて、本州からわざわざ「流氷」を見にくる観光客が多いという。
少年の私などは寄り付きもしなかった網走刑務所(番外地)も、観光名所になっている。そして、刑務所を建て替えると同時に、五寸釘の寅吉や佐久間清太郎がいた旧い建物が、「博物館 網走監獄」として観光客に開放されるようになった。
2016年に網走市の「博物館網走監獄」に保存されている旧網走監獄など関連施設が重要文化財に指定された。なお、刑務所からの脱走は戦前から1960年代までは頻発したが、1982年以来起きていないという。
(なお、宮本顕治元日本共産党委員長が、終戦末期に「治安維持法違反」などで網走刑務所に収監されていた。)