23 麗しき傾国の女王(楊貴妃と西施)

古代中国の四大美人(西施・王昭君・貂蝉・楊貴妃)の中で、楊貴妃と西施が「傾国の美女」として有名である。

  

楊貴妃

楊貴妃

 姓は楊、名は玉環で、容貌が美しく、唐代で理想とされた豊満な肢体を持ち、音楽・楽曲・歌舞に優れて利発であったため玄宗皇帝に見初められた。また『長恨歌』によれば、髪はつややか、肌はきめ細やかで体型はほどよく、物腰が柔らかであった。

安禄山の乱

しかし、楊貴妃との血縁で宰相になった従兄の楊国忠の専横のため楊一族は多くの恨みを買うこととなった。

「安禄山の乱」で玄宗が首都長安を抜け出し蜀へ出奔するとき、楊国忠が部下の兵に殺され、最後に玄宗はやむなく楊貴妃に自殺を命ずることになってしまった。

温泉華清池
本当は立派な湯殿だったでしょうが、日本式温泉になってしまった

楊貴妃は大の風呂好きであった。温泉「華清池」で彼女の豊満な肢体に魅せられた皇帝が骨抜きになって唐王朝が衰退する一因となった。

楊貴妃はかなり「男ウケする美人」だったようだが、多彩な芸能の才能の点では、次に紹介する「西施」より優れているようだ。

 

西施(せいし)

越国の軍師「范蠡」

 呉と越の両国が覇を競った紀元前5世紀(春秋時代)のことだった。会稽山で呉国にやぶれた越国の王「勾践」が会稽山の恥をそそぐ対策を軍師「范蠡(はんれい)」に命じた。

洗濯女「西施」

范蠡は富国強兵を着実に実行しつつ、更に奇策、美女を呉王夫差に献上することを考えついた。国中の美女を探しているうちに、とある谷川で洗濯女をみつけた。それが「西施」と呼ばれる絶世の美女である。

 

呉王夫差

呉王夫差をいかにしてたらしこむか、范蠡が西施に教えた方策などについては歴史上不明である。司馬遷「史記」越王勾践世家には西施の名すらでてこない。

 

この策略が見事にはまり、夫差は彼女に夢中になり、呉は弱体化して、ついに越に滅ぼされた。

呉が滅びた後の西施のゆくえは不明だが、一説によれば、呉の怨みを買った彼女は生きたまま皮袋に入れられ長江に投げ捨てられたという。

西施と范蠡

そんな悲劇の末路では可哀想だとの庶民感情が働いてか、危機を事前に見抜いた軍師范蠡が彼女を引き取り(二人は恋仲であったとも)、舟でいずこともなく消え去ったとか、蠡湖に舟を浮かべながら二人仲良く余生を安楽に暮らしたとかいう伝説が生まれた。やはり美女は得だね!

芭蕉も西施の清楚な美しさをたたえている。

  ――象潟や雨に西施がねぶの花

 

西施と楊貴妃を女優に例えたら

西施と楊貴妃を往年のハリウッド女優に譬えるならこうなるか?