泰州のイモねえちゃん(無錫の大学)

 

~~夏との不思議な縁~~

無錫職業技術学院で私が雇った二人の中国語の家庭教師の一人が「夏セイ」という学生だ。

彼女が父と死別している苦学生だったので、ささやかながら経済的援助をしてやろうと思ったのだ。彼女が江蘇省泰州市出身の純朴な田舎娘だったので、私は「泰州のイモねえちゃん」とからかったものだ。すると彼女は、私に足蹴りする格好をして怒った。彼女は、何かを求めるひたむきなところがあり、我が娘と似ていた。夏と一緒にいると、私はアットホームな気分になれる。彼女はいった。

「入試に失敗して国立大学に入れなかった私は、元々理科系志望だったので、1年生のときには日本語の勉強にあまり意欲が湧きませんでした。それが2年生になって、森野先生の授業をうけてから日本語の楽しさが分かるようになり、やる気が出てきました。一番よかったのは、先生の中国語の家庭教師になってから、日本語に触れる機会がふえたことです」

スピーチコンテストで準優勝

こうして、二人の学生が週二回、私の部屋にきた。料理上手の夏は毎回夕食を作ってくれたし、日本語能力もめきめきと上達した。無錫市を中心として江蘇省の大学・日本語専門学校が競い合う『太湖杯スピーチコンテスト』で準優勝するほど、わずか1年のうちに優秀な学生に成長した。

無錫の大学を退職して帰国するとき、夏は上海まで見送りに来て、別れを惜しんでくれた。そして、浦東国際空港行きのバスに乗る直前に、俯きながら一通の手紙を私に差し出した。車中でその手紙を読んだ。

 

 ――先生がこの手紙を読むころには、お別れしています。一年間お世話になりました。先生のおかげで私は日本語が上手になりました。先生との一年間はとても楽しかったです。先生と一緒にいると、お父さんとはいいものだと思いました。私は、母と一緒に暮らすだけで十分だと思っていましたが、今はそんな考えは間違いだと思うようになりました。母には今、再婚の話がすすんでいます。私は母の再婚に反対しないつもりです。もうこれで、先生と永遠の別れだと思うと悲しいが、先生の次の赴任地に遊びに行けると思えば、悲しくありません。先生、どうぞお元気で。

 

 バスの中から「もう帰りなさい」と合図すると、夏が肩を落として去っていった。その後ろ姿が手紙の文面と重なり、私は胸が熱くなった。

私が江西師範大学に赴任中、休暇で南昌と日本を往復する途に上海で二度会っている。上海の郊外にある美しい水郷地帯として有名な『周庄』に行ったときのことだった。

川べりの小径を散策していると、私たちの前を中年の男性と若い娘が手をつないで歩いている。どう見ても父娘に思えた。

「夏さん、あの二人は親子かい?」

「そんな感じですね」

「中国では父と娘が手をつないで歩くことがあるの?」

「ええ、私はおじいちゃんとよくそうしていました」

 私は冗談半分で、

「じゃ、私も夏さんのおじいちゃんみたいなものだね。ど~お?」

 と、腕を夏の方に寄せた。

 すると彼女は、微笑んで私の腕に手を組んでくれた。彼女は私を今は亡き父か祖父のようなつもりでいるのだろう。一方、私の方は、ちょっと青春時代にもどったように心が弾んだ。

 

  夏とはもう一つ、忘れがたい思い出がある。 

 彼女は、3年生の12月に『日本語能力二級試験』をうけた。彼女の学校は短期大学なので、一級試験を大学から義務づけられてはいない。 

 夏はその年の11月ころから、求職活動をはじめる。無錫市の工業団地には多数の日系企業が進出しており、彼女が希望する就職先もそれらの会社だった。しかし、履歴書を提出すると、会社の求人担当者は、 

「我が社は日本語能力一級試験の合格者しか採用しません」 

と、履歴書すら受け取ってくれなかったそうだ。 

こうして、何度も門前払いを受けた夏は、次年度に一級試験に合格するまで、就職浪人をしようとまで覚悟を決めかけていた。 

次の赴任地『江西師範大』でそんな彼女の苦境をメールで知った私は、何とかして夏を助けてやる方法がないものだろうか、と思案した。 

喫煙室で日系企業の社長と立ち話

ふと、思いついたのが、無錫の日系企業のM社長のことである。M社長は、無錫日本企業会の幹事をしていて、夏が出場した『太湖杯スピーチコンテスト』で私と共に審査委員を担当した。コンテスト途中の休憩時間に喫煙所へ行ったときに、彼とタバコを吸いながらしばし立ち話をする機会があった。 

M社長が直前に発表した夏を高く評価してくれたので、「じつは、私が彼女を指導した教師です」と伝えた。こうして彼としばしの会話が弾み、別れ際に名刺まで交換した。 

それを思い出した私は、さっそくファイルからM社長の名刺を見つけ出し、Eメールで問い合わせた。

 

――○○機電(無錫)有限公司社長 M 

 昨年『太湖杯スピーチコンテスト』の会場の喫煙所でM様とお話し、名刺を交換いたしました日本語教師・森野昭でございます。そのときに、M様が、準優勝した夏セイを高く評価してくださったことを覚えていらっしゃいますでしょうか。じつは、夏は今、無錫で就職活動を致しておりますが、未だご縁がなく就職が叶いません。夏は純朴な性格で真面目に勉学に励む、私の教え子の中で最も優秀な学生でした。もし、御社が日本語科出身者の採用をお考えなら、夏を採用候補者の一人にお加えくださることができませんでしょうか。何卒よろしくお願い申し上げます。

 

これに対してM社長から、準優勝した夏なら面接するから、履歴書を送るように彼女に伝えて欲しい、という色よい返事が来た。そして、新年早々、夏はその会社の面接試験をうけ、見事仮採用が決まった。彼女の喜びはいかばかりだったろうか。 

M社長からメールをいただいた。

ーー夏さんの会話能力は我が社の通訳者に劣りません。ただし、ちょっと頑固者のようですね。

私は笑ってしまった。泰州のイモねえちゃんは、あこがれの日系企業の面接でかなり緊張していたのだろうが、M社長の性格判断はあながち間違いではない。我が娘が女だてらに3浪してようやく目指す大学に合格したのも、頑固一徹なところがあったからだ。二人は性格が似ていると思った。 

中国の大学では、最終学年で仮採用が決まれば、研修(試雇)という名目で正社員と同様な労働条件で、働くことになっているようだ。そして、新年度の9月から正社員となる。 

 

こうして、夏が日系企業に採用されたのは、学業が優秀であっただけでなく、スピーチコンテストに積極的に参加しようとするチャレンジ精神の賜でもあったのだ。夏のような経緯で幸運が巡ってくることは、めったにないことかもしれない。しかし、私はこの経験から、以後、教え子にスピーチコンテストに積極的に参加するように勧めた。

夏は会社で働きながら、翌年には日本語能力一級試験にも合格し、着実に日本語能力を高めていった。そして、その会社で知り合った男性と恋仲となった。

 

私が上海の大学に勤めているときに、夏は彼を連れて私のアパートへ報告にきた。良妻賢母型で堅実な生活態度の夏は、すでに男性をリードしているのが微笑ましい。

 

夕方、無錫へ帰る二人を地下鉄のホームまで見送った。

電車が来てドアが開いた瞬間、私は恋人にわからないように、夏の掌を強く握りしめ、しばし熱い視線を交わした。それが夏との永遠の別れとなった。その後彼と結婚した夏は、女児を出産して今も会社で働きつづけているという。