平和ボケした私
平和で治安のよい日本国からそうでない国に住むときには、それなりの心構え、発想の転換が必要である。しかし私は、典型的な『平和ボケ』した日本人のままで中国にきてしまったようだ。
中国人には日帝の侵略への恨みがいまだに消え去らず、政府の情報操作が加わって反日感情が民衆の中に拡散している。そこに、日本の政治家の言動に触発されて反日運動として沸騰することになるのだ。
私が西安に赴任した翌年、2005年の春に、小泉首相が靖国神社へ参拝したのを契機に反日運動が起こった。広州市や深圳市のような中国南部の都市から始まり、徐々に燎原の火のように全国に広がって西安市にまで及ぼうとしていた。
このような時に大学内では、共産党地方政府の出先機関のようなコワ~イ部署といわれている『外事処』が学内対策を取り仕切ることになる。反日デモが西安市で予定されている前日に、外事処の張科長が私の部屋に来た。
「明日は、絶対に部屋をでてはいけません。食堂にも行かないでください。私が食事を運びますから」
張科長は例外的に日本語が話せる人で、私を懇意にしてくれたが、このときは私への親切心というより、外事処の沽券に関わる重大事として、日本人教師を護らねばならないと考えていたのだろう。
彼女はこうもいった。
「今後、反日デモがどこまでエスカレートするか予測が困難です。最悪の場合、森野先生には日本へ帰ってもらわねばならない事態もあり得ますので、そのおつもりで」
私はすでに二年目の継続採用が決まっていたので、これには困惑し、ひたすら事態の沈静化を祈るばかりであった。今回の反日運動には、小泉首相の靖国神社参拝だけでなく、日本が国連で拒否権のない常任理事国入りを画策していることへの反発もあった。
数日前に、キャンパス内を歩いていたら、学生グループが反日キャンペーンの署名活動をしているのに出くわした。私は英語の話せる学生をつかまえて、日中の政治問題を話し合った。彼らは決して過激な反日主義者ではなく、私とはとても友好的な雰囲気で話ができたのだが。
また、授業中にも私は学生にいった。
「私は小泉首相の靖国神社参拝には反対だ。もし、西安のデモに参加したいと思う人がいれば、行ったらいい!」
ところが、事態は、馘になりかねないところまで急変しているのだ。私はなんと能天気な人間だろうか!
幸い反日運動はほどなく沈静化して平常に戻り、私の継続採用も予定通り可能となった。そんな頃に、我が宿舎で事件が発覚した。
宿舎の寝室は常時カーテンがかかっていた。あるとき、カーテンを開けると、窓ガラスに銃弾の貫通した丸い痕を発見した。寝室内を見回したところ、弾丸が落ちていないし、壁に突き刺さっている形跡もなかった。
私は弾痕と窓外の写真を撮った。二階の宿舎の窓から外を眺めると、向かいに二階建て、さらにその背後に四、五階建てのビルが見えた。その辺のビルから銃を発射したのだろうと想像される。
さっそく、張科長に連絡したところ、二、三人の公安警察が来て寝室を調査した。しかし、その後、張科長から事件に関する何の連絡も無かった。このことを知らせたら家族が心配するだろうと考えて、私は一切を我が胸の裡に秘めることにした。
この事件は、時期的に考えると、反日デモと何らかの関連があるかも知れないので、私は事態をもっと深刻に受け止めるべきであったろうか。
しかし、射撃者が日本人憎しの思いで私を狙い撃ちしようとすれば、常時カーテンを開けている居間にいる時を狙っただろう。そうではなくて、寝室に銃弾が撃ち込まれたということは、単なる嫌がらせか、あるいは別の目的(例えば鳥を撃つなど)で発射したものが流れ弾として寝室の窓にたまたま当たっただけの可能性も考えられるのだ。
私は生来の楽天家で、反日デモが鎮静してからは、さほど不安も無く学生と西安の街中へよく出かけたし、地方への旅行もした。こうして、この事件は長い間忘れたままだった。
後年、元日本語教師仲間のO氏に、この銃弾事件を説明して意見を訊いたことがある。彼は語った。
「そんな事件があったことに驚くとともに、失礼ながらあなたの考えの甘さを感じます。事件の顛末が不明のまま放置されいるのが問題です。これが日本で起こったことなら学内騒然となり、警察が徹底調査し、マスコミも加わって大騒ぎになるでしょう。国際問題に発展してもおかしくありません。
私だったら、徹底調査を外事処に要求し、場合によっては帰国を覚悟したかもしれません。欧米から来た語学教師なら、在中領事館と連絡を取りながら強硬な態度に出たでしょう。やはり海外へ行くからには、不測のリスクを背負って行く覚悟が必要でしょう」
こうして、O氏は能天気で平和ボケした私に対して率直で厳しい意見と助言をしてくれたのだ。
思い返せば、西安を振り出しに5大学で8年間も過ごしている間、危険な目にも遭わず楽しく過ごすことができたのは、私にとって幸運だったといえるだろう。そして、私に接してくれた学生をはじめとして多くの知人、また旅行中に行きずりの中国人民衆が、私を温かく迎え容れてくれたことにも、感謝しなければならないだろう。
■反日デモ(続き)
西安での反日デモから7、8年後(2012年)の秋に発生した反日デモがもっとも激しいといわれている。時系列的にはもっと後の章であつかうべきだが、上と関連しているので、続けてここに記載することにする。
私が雲南省昆明の大学に赴任してまもなく、日本政府の尖閣諸島国有化がきっかけとなって、激しい反日デモが中国全土を席巻し、昆明にも及んだ。大学当局が私にこう指示した。
「宿舎と大学との往復にとどめて、繁華街へは行かないように。もし、やむを得ざる事情で街へでるときには、必ず学内の中国
人同伴のこと」
西安で経験づみの私は深刻にうけとめなかった。
そして、この反日騒動もほどなく沈静化した。
中国で反日デモが吹き荒れている時に、日本ではどうなっているのだろうか。日本の大学へ留学している数人の教え子の安否のほうが、むしろ気懸かりである。
その一人、広島大学院に留学している陳さんにスカイプ通信で訊いてみた。
すると、彼女は、
「研究室の日本人たちは、私たち中国人留学生に対して常日頃と変わりありません。キャンパス内も反中国感情はないので、ご安心ください」
と、拍子抜けするほどの返事だった。安心すると共に、両国の若者の政治に関する意識は驚くほど違うと感じた。日本人の若者が冷静で健全なのは喜ぶべきことだが、同時にそれは、ノンポリで個人的興味だけに内向する現代の若者の姿でもある。
中国でも日本語科の学生は、日本人教師に対して友好的である。しかし、尖閣諸島のように両国の利害が真っ向から対立している問題では、日本人教師が不用意に日本の立場を擁護するような発言をすれば、学生から反感を買う恐れがあり、授業に支障をきたす。私は、政治問題には沈黙せざるを得なかった。
中国人の反日的例を紹介する。
A:昆明赴任時に発生した反日デモ。
B:麗江古城の店の前の反日表示。
C:スクーターのNoプレートの標識。大学の駐車場で見つけた。Dの中国人を日本人に置き換えた日本への侮蔑的表現。この反日プレートは製品として市場に出回っており、意図的で悪質である。
D:戦前の上海租界にあった中国人への侮蔑的看板。
■山西省太原で遭遇した反日感情
太原市の浄土教の根本道場『玄中寺』に参拝したときのことである(第20章に記述)。お参りを終えて太原駅に戻り、その日のホテルを探すために斡旋を観光案内業者に依頼した。すると後で、業者の男から不当な金を要求された。言い争っているうちに、その男の仲間が私と同伴の学生を取り囲んだので、危険を感じて警察に連絡した。警察が来るのを待っている間、意外にも男は逃げる様子を見せないので、それほどタチの悪いヤツではなさそうだった。
ほどなくやって来た警察官の判断は、「日本人のあなたが正しいから金を払う必要はない」で、一件落着した。中国人の学生が同伴していたこともあるだろうが、警官はとてもフェアである。
私は中国の人々とは友好的につきあいたいと思っているので、その時も、男と握手して別れようと手をさしだした。すると、彼は「オレは日本人が大嫌いだ!」と怒鳴って去っていった。
これが、中国で経験した数少ない嫌な思い出である。ホテルの部屋に落ち着いてから、私は先ほどのことを思い出しながら同伴してくれた学生にいった。
「昔、石炭の町太原には日本軍が進軍したことがあるそうだ。もしかしたら、あの男の父母が日本軍のために辛い思いをしたのかもしれないね。それを父母から聞いていたから、彼は日本人の私を憎んでいるのだろうか?」
じつは私も、と学生がいった。
「『子供のときに日本軍が(江西省南部の)町にきて、恐い思いをしたことがある』と、祖母から聞いたことがあります」
私は第二次世界大戦中の生まれで、戦争のことは全くしらない。中国の民衆はどうかといえば、地方へ行けばいくほど彼らは純朴で日本人の私を温かく迎えてくれた。しかし、中国各地にはいまだに日本軍の侵略の傷跡が残っていることを、私は知らなければならないだろう。