第20章 仏教寺院巡礼の旅

■はじめに

江西師範大に勤務3年をすぎたとき66歳になった。このときより、中国政府の外国人雇用基準が厳格化されて、私は解雇された。帰国せざるを得ないと観念したが、新学期がはじまる直前の8月末に、上海理工大学日本語科から求人が広報された。

――日本語教師に欠員が生じたので、70歳まで採用可能。

予定の日本人に不都合が発生した緊急事態のようである。応募したところ、幸いにも代理として採用された。

これまでの大学では3,000元~5,000元だった月給が、はじめて1万元の大台を超えたのは嬉しい。ただし、物価も高い! こうして中国一の経済都市「上海」での優雅な生活を満喫したが、翌年(2011年)には解雇された。

これで7年間の中国生活を終える覚悟をきめたが(注)、この国で未だ実現できていない心残りが一つあった。

 

(注)思いがけない縁により、雲南省であと一年、教師を続ける幸運に恵まれたが、それは後の章で述べる。

 

日本の精神文化に与えた中国(漢民族)の偉大な影響として「仏教」を忘れることができない。華厳宗・真言宗・天台宗・禅宗などは中国由来である。そして、我が家の「浄土真宗」も中国における「浄土教」が源流となっている。

そこで、中国生活の最後を浄土教の古刹をはじめ仏教の寺院を訪問する旅で締めくくりたいと考えた。6月下旬から夏期休暇が始まり、旅行シーズンにはいる。各地を訪問する長旅は、私独りではとてもできそうにない。幸い、江西師範大で私の教え子であり、また中国語の家庭教師でもあった黄誉婷さんと陳亜雪さんが、卒業間近の忙しい中を、南昌から北京までの二週間の長旅を、半分づつ私に同行してくれることになった。

 

以下に、訪問地を順次紹介することにする。

廬山の東林寺と西林寺

6月22日に夜行列車で上海を発ち、翌朝、南昌駅で黄さんと落ち合い、新幹線で一時間後九江駅に着いた。九江市は江西省の北端にある長江中流の港町で、二年前に、東晋の田園詩人陶淵明の記念館を訪問するために来たことがある。ここからバスを乗り継いで、廬山山系の僻地にある西林寺にいった。

私が参考にした「仏教の来た道」(鎌田茂雄著、講談社学術文庫)によれば、この寺について「唐時代に建設された西林寺は焼失して、今は六角七層の塔だけが残っている」とある。しかし、今回訪れると、広い敷地に立派な寺院が再建されている。

今は尼寺になっており、境内を歩いていたら、尼さんが「食事をしてください」と一室に案内された。福建省から来たという56人の巡礼がいた。廬山の山懐深く素朴な信仰を守っている尼さんたちが、巡礼を温かく迎え入れてくださることに感謝して、私たちもご相伴にあずかった。

 

次に、近くにある東林寺に入ると、見張り番の僧が短パン姿の黄さんを見とがめて、「控え室で長ズボンにはきかえてください」と言った。本日は猛烈な暑さで、他にも脚線美を露わにしている女性数人がいて、僧侶指示の長ズボンにはきかえている。

大雄宝殿でお参りして境内をひととおり見学してから、本日のホテルを探すことにした。

 黄さんが仏務所の僧に一夜の宿舎の斡旋を頼んだところ、「寺ではお世話できないので外で探してください」と断られた。ところが、“お経”らしきモノ(じつは、浄土真宗の「正信偈」)を持っている私を見とがめた僧が、「この方は?」と尋ねたので、黄さんが紹介した。

「この方は、日本の浄土教信者で、中国各地の浄土教の聖地を巡礼しております。ガイドの私は、本日、東林寺をご案内したくて参りました」  

すると、僧の態度ががらりと変わった。

「では寺の宿舎を提供いたしましょう」

機転の利く黄さんが同伴してくれたことが幸いした。僧が彼女の学生証と私のパスポートを確認すると、迎賓館に案内してくれる。一、二階で男女に分かれているが、部屋に案内されてその立派さに驚いた。バス・トイレ、空調が完備しているだけでなく、廬山の絶景が一望できるバルコニーまである一流ホテルなみの豪華な部屋だった。

ついでながら付記すると、私は中国生活もそろそろ終わりになると予感していた。だから、半年前の年末に一時帰国したとき、「正信偈」と線香・蝋燭を取りそろえて準備していたのだ。それが今回の仏教寺院巡礼の旅に役だったわけである。

 

先の西林寺では食事を振る舞われ、ここでは立派な宿舎まで無料で提供されて感激! 共産主義国家中国では、公式には宗教が否定されており、三十数年前の「文化大革命」では紅衛兵により多くの寺院・廟が破壊された。しかし、民衆の中には仏教がなお息衝いており、現在、中国では改革開放により修復され有名な寺院がたくさんある。しかし、廬山の山懐にいだかれた西林寺・東林寺のようなお寺では観光客をあてにはできず、それがかえって、巡礼をもてなす素朴で宗教本来の活動を守り続ける条件が整っているのかもしれない。今日一日、このような聖地を訪ねることができただけでも、本旅行の意義があった、と私は満足した。

 

夕食は、寺の外の一見農家風のレストランで食べた。目の前には池があり、池の魚や泳いでいるアヒルが、たちまち食卓に出てきた? 牧歌的雰囲気の中で、二人で貸し切りのような店でゆっくりと食事ができたのも、楽しい思い出になった。

 

 ■虎渓三笑

中国浄土教の先駆者である廬山東林寺の住職「慧遠」は、仏道に専心するために、外出は寺のすぐ近く虎渓に架かっている橋までと決めていた。ところがこの日、詩人の陶淵明 掛け軸の下側に橋を渡る三人を左図に拡大    と道士の陸修静の二文人を見送った時、話に夢中になって虎渓を越えてしまい、虎の吠える声を聞いてはじめて気づいた三人は、大笑いしたというのだ。これが、「虎渓三笑」と世に知られる故事で、画題になっている。しかし、これは寓話で、三賢人は時代的に離れているので実際に会うことはできなかったようだ。

 

■香炉峰と廬山瀑布

翌日、李白の詩で有名な「廬山瀑布」を見物するために山懐に分け入ることになる。早朝からかなり暑い。登山口の売店まで来たとき黄さんがいった。

「喉が乾いたから、ビールでものみましょうか」

彼女は大学生にしては例外的に酒につよい。祖母が白酒(火をつけたら燃え上がるほどの強い酒)を毎日欠かせないほどの酒豪だそうだから、彼女は隔世遺伝を受け継いだのだろうか?

ちなみに、彼女の家系は、戦乱や異民族の侵入から逃れて中原から南方に移住した客家(ハッカ)であり、正統な漢語を話す漢民族として知られている。中国語の家庭教師に雇った理由の一つもここにある(もう一人の案内者“陳”さんは班長だった)。

この暑さの中でよく冷えたビール、大瓶一本を二人で空けて景気づけしてから、やおら登山開始!

急斜面と階段が交互にまじっている坂道を歩き、途中で河原に下りて、冷たい水で汗をふいたりもした。滝壺の一歩前まで来たところで、時間不足のために引き返したが、滝を間近に見ることができたので満足した。

 その夜は廬山温泉に一泊。

            廬山域にそれぞれ二つある「香炉峰」と「滝」

■香炉峰と瀑布の所在地(後日談)

高名な李白の「廬山瀑布」を訪ねたのが、本旅行の最大の成果の一つである。ところが、その後2020年にインターネットで興味深い論文をみつけた。

 

●中国詩文論叢 第三集(pdf、植木久行著)

「香炉峰と廬山瀑布――二つの香炉峰の存在をめぐって」

中国歴代の文人・漢学者による漢詩や漢文が多数引用されている学術的論考なので、私には十分解読できたとは言い難いが、植木氏の論旨は概略以下のようなものである。

上の廬山の地図を参照しながら理解されたい。

 

 香炉峰は廬山の山域に、南と北に少なくとも2峰ある。

 南北それぞれの峰の近くに瀑布がある。

 白居易の有名な詩のなかで「香炉峰の雪は簾を撥げて看る」とあり、清少納言の『枕草子』にも登場する峰は、「北香炉峰」である。

 李白の詩(望廬山瀑布)に描かれている雄大な瀑布は、「北香炉峰」の近く(東林寺の南方)にあったはずだが、既に消滅しているか、または水量が衰えてしまっている。だから李白が詩に描いた瀑布は現存しない可能性が極めて高い。

(なお、東林寺で僧に「ここから香炉峰が見えるか?」と尋ねたが、僧は知らないようであった。)

 

以上のことより、私が登って眺めた瀑布は李白の詩とは無関係となる。中国の観光地には、永い年月の経過により消滅している場合があるものだ。李白の詩に登場する世界的に高名な瀑布がニセモノだとすると、私は何のために苦労して登ったのだ! しかし、廬山山域に現存し、私が登り、確かに見た滝は南瀑布(「開先瀑布」と呼ばれる)であるらしい。それしか、李白の詩を彷彿させる滝がないのなら、仕方がないのだろうか。

 

植木久行氏の論文は下のURLをクリックして一読されたい

https://waseda.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=29585&item_no=1&attribute_id=162&file_no=1

植木久行氏の論文を分かり易く補足解説した下定雅弘氏の「香爐峰は二つある!」について下のURLも参照されたい。

http://chinese.art.coocan.jp/koloho.html

 

再び、九江市に戻り、草魚料理を食べた。そして、夜に西安行きの寝台列車に乗った。 

列車に揺られて18時間後の夕方、西安に着いた。駅前のホテルにチェックインしてから、久しぶりに北門院の回族街路へ行って、羊肉串焼きと小籠包を食べた。

 

■西安の寺院、浄土教の香積寺

浄土教玄中寺の第三祖「善導大師」(後述)が長安の都で布教活動をした。入寂後、供養のために「善導塔」が建てられ、後に塔の周辺に建立された寺院が「香積寺」であるといわれている。

中唐の詩人“王維”の詩「過香積寺」に、

――香積寺は、雲湧く高山に深く分け入って数里、古木がうっそうと茂る中、人が歩いてできる小道もない。

とある。西安市内から南郊外へバスで平地を行くこと1、2時間でついたので、香積寺はいつの時代にか現在の平地に移築されたのだろう。文化大革命で大きな被害を受けたが、その後、修繕・再建されたという。

 

日本の浄土宗の開祖「法然上人」は善導大師の継承者とされ、香積寺は日本の浄土宗の発祥の地とされている。ということは、法然の弟子親鸞さんとも縁の深いお寺なので、私は今回訪問し、我が家の浄土真宗の教本「正信偈」を読経した。老僧が黄さんに仏前礼拝の仕方を教えてくれた。中国式の方が日本式より丁寧だった。境内に日本から来た「浄土宗」の巡礼が記念に植えた海棠と立て札がたっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

塔の最上階の屋根が崩れ落ちているように見える。

夕方、南昌から陳亜雪さんが駆けつけてくれた。黄・陳両嬢は大学卒業時のいそがしい中を私のために旅行に同行してくれ、西安から先は陳さんが担当してくれることになっている。  

夜、三人で大雁塔境内を散策し、そのあと黄さんは夜行列車で南昌に帰った。

 

■平遥古城

平遥は明時代(四百年前)に商業で栄え、その後さびれたが、往時の旧いたたずまいがそのまま保存されている街である(中国の「馬籠」)。ここだけは、抹香くさい仏教寺院とは無関係に、城壁で囲まれた街の観光を楽しむことができたので、若者陳さんにはよかったかもしれない。

 

■浄土教古刹『玄中寺』

~~浄土真宗門徒にとって最も尊いお寺~~

平遙古城からバスで太原駅についた。駅前で「玄中寺」へ行くタクシーをチャータした。価格交渉で日本人だけでは観光業者の言い値でぼられる可能性があるが、陳さんがいてくれるので心強い。中国人は学生であっても、金のことになると、“締まり屋”でたくましいのだ!

 

平地を走ってから山道にはいり、約2時間で駐車場についた。参道を歩くと標高900mの山懐に抱かれた山門にたどりつく。献灯所で日本から持参した線香と蝋燭(中国製と較べて小さい)に火をつけてたむける。

大雄宝殿に人影はなかった。


 玄中寺は、「浄土教」の開祖・曇鸞(どんらん)が北魏時代の西暦472476年に開山し、つづいて道綽(どうしゃく)、善導(ぜんどう)により「浄土教」を発展・完成させた。この三高僧が作り上げた思想体系が後年日本に伝わり、鎌倉時代に法然(浄土宗)とその弟子親鸞(我が家の浄土真宗)に受け継がれたのだ。

私は子供のときから、仏前で父の後ろに座って、浄土真宗の「正信偈」を“お西”風の節回しで唱和していた。その中に「七高僧」という言葉がある。父と違って信仰心の薄い私は、その意味も分からないまま齢をかさねていたが、あるとき、その七高僧の中の三人が他ならぬ、曇鸞・道綽・善導の三大師であることを知った。そして、今いる玄中寺こそが、阿弥陀仏による浄土信仰の発祥の地なのだ。

既に他界している父は、若い頃、二度ほど中国に出征した(日支事変と第一次上海事変)。もちろん、一庶民の父が中国を侵略しようなどという考えは無かったものの。父は信仰心が篤かったが無教養であったので、中国に来ても玄中寺のことなど知らなかっただろう。だから今、その息子が玄中寺に巡礼していることを天国で知って、どれほど喜んでいるだろうか。曇鸞・道綽・善導の三大師と親鸞さんも「よくぞ参られた」とお慶びであろう。そんな思いで、私は「正信偈」を読誦した。

◆二河白道(にがびゃくどう)の譬え

 第三祖『善導』大師が浄土教の信心を喩えたとされる。

(欲を具現する)東岸の盗賊や獣の群れに追われる旅人に、釈迦が「逝け」と言い、西岸からは阿弥陀仏が「来たれ」と招く。 そこで旅人は、貪りや執着の心を表す右岸の『水の河』と怒りや憎しみの心を表す左岸の『火の河』が逆巻く間の一本の細い白道を一心不乱にあゆみ、ついに悟りの世界である西岸の極楽へ達する(往生を果たす)というもの。 

 

日中の政治的関係は、巡礼したときより現在(2024年)さらに悪化している。しかし、私は中国の歴史を学び、漢民族の偉大さと日本に与えてくれた多大の恩恵を思うとき、共産党政府に対する悪感情はさて措おき、中国に畏敬の念を抱いている。

 

なお、玄中寺から太原駅に戻って、その日のホテルを探しているときに、ちょっと中国人とのもめ事があったが、それは13に既述した。

 

■雲崗石窟

 

北魏王朝初代「道武帝」を模した如意座像   音楽窟

 

翌日、太原から更に北にある大同市へと列車で移動した。緯度的には北京の北にあるこの地方には、車窓からも北国の雰囲気が感じられた。

大同市では中国三大石窟寺院の一つ、「雲崗石窟」を訪問した。この石窟は、後に開鑿した洛陽市の「龍門石窟」と共に鮮卑族の「北魏王朝」によるものとして中国史上名高い。5世紀後半に開鑿された「雲崗石窟」は、東西1kmにわたる51の壮大なる石窟からなる。その多彩な窟像の中から、音楽窟と代表的巨大座像を上に紹介する。

 

  雲崗石窟は、その後見捨てられて現地民により物置や便所として粗末に扱われていたそうだ。それを日中戦争時に日本の学者が調査し、戦後にその報告書を出版して、この石窟の存在を世界にしらしめたという。

◆石像の穴の理由

 石像の至る所にある穴は、仏師が石像を彫り込むときの足場に使うためのものか? 

じつは、石像の表面に泥をぬりその上に色彩鮮やかに顔料で色づけしてあった。穴はその泥が落ちないための支え棒を差し込むためのものであった。しかし、長い年月の間に、表面の泥が落ちて穴が露出している。

 私は西安時代に訪ねた洛陽の「龍門石窟」につづいて今回雲崗石窟を見学することができた。しかし、中国三大石窟寺院のもう一つ「敦煌莫高窟」には、ついに訪問できなかった。

次に、北京市についた日に、私は67歳の誕生日を迎えた。その夜に、世界的に有名な王府井の北京ダック店「全聚徳」で陳さんが祝いをしてくれた。

 

■刻経の始まりーー房山石経

~~北京の敦煌とよばれる房山石経~~

二週間の仏教寺院巡礼の旅もいよいよ最後になった。

そこは、北京郊外の「雲居寺」である。

お釈迦様が始めた仏教は、その後シルクロードをたどって中国に伝えられた。インドに渡った中国僧としては、『上には飛ぶ鳥なく、下には走獣なし』の過酷なタクラマカン砂漠を踏破した「法顕」や仏典を自国に持ち帰った「玄奘三蔵」がよく知られている。仏教は中国で独自の発展を遂げた(いわゆる大乗仏教)が、在来の思想「儒教」、「道教」と時に対立し、時に共存する経緯をたどる。そして、歴代王朝の皇帝の中には、仏教を厳しく弾圧することもたびたびあった。

北周の武帝もその一人で、廃仏政策により多くの経典が焚書に遭った。秦の始皇帝による“焚書坑儒”を想起させる。紙に書かれた経典は簡単に焼くことができるので、経文を石版に刻んで永遠に残そうと考えた人が「静琬」である。彼は「虎渓三笑」で紹介した廬山の慧遠(浄土教の先駆者)の弟子で、北京市郊外の老木が生い茂る深山幽谷の中にある洞窟に立て籠もり、死ぬまでの三十年間その事業に専心したという。

さらに驚くべきことに、彼の死後もその遺志は引き継がれ、隋時代から明時代までの約千年もの長きにわたってつづいた。宗教心の篤さというべきか、その情念の峻烈さというべきか、驚くしかない。

 

静琬とその後千年にわたる刻経の営みは、房山石経として麓の「雲居寺」の倉庫に一万四千余枚保存されている。私には、石の経文は難解でとうてい理解できないし、これまでに訪れた秦の始皇帝兵馬俑坑や雲崗石窟のような視覚に訴える派手さもない。私たちが訪れたとき、他に誰も観光客はおらず、偉業を伝える碑文がひっそりと置かれていた。しかし、そこには何か崇高なる人間の営みに触れた静かな感動がある。

 

なお、房山石経は「北京の敦煌」と呼ばれているそうで、実際に房山へ分け入って石刻の現場を見たかったが、山が荒れていて入山禁止だったのが、残念である。

 

こうして、2週間にわたる仏教寺院巡礼の旅は、黄誉婷さんと陳亜雪さんの協力により無事終わった。翌日、私は帰国のために北京空港へ、陳さんは南昌へと別れた。