いじめっ子
少年時代、私がおおらかで品行方正だったわけではない。むしろ粗野でガキ大将だった。
小学校1年生のとき、子分数人を従えて、クラスのちょっとグズな男の子をイジメていた。
たまりかねたその子が親にいうと・・・
担任の若い女教師に叱られた私は涙をポロポロ流して、イジメをピタリとやめた。当時の子供は可愛らしいものだった。
いじめられっ子
二年生になると、こんどは私が虐められる番になった。網走市は当時、人口が3万人程度だが、オホーツク海に面した北海道の東北部の中では、開拓事業が早くから始まっており、ちょっとした都会なのだ。
その街の子である私に対して、郊外の農村から通学している腕白小僧が、私をイジメるのだ。いかつい顔をしたイガグリ頭の少年は「荒熊」と呼ばれていた。一方、私は「白熊」と綽名されていた。荒熊は授業の合間の休憩時間になると単身で堂々とやってきた。怖くて机の下に隠れたが、大きな体の私は頭隠して尻隠さずで、すぐに見つかってしまう。
上には上があるもので、荒熊は単身で堂々とやってくるのだ(どう見ても、白熊より荒熊の方が強そうだ)。私は怖くて机の下に隠れたが、頭隠して尻隠さずで、すぐに見つかってしまう。私はクラスでは一番強いので、誰も助けてくれる子などいない。ガキ大将もこうなったら哀れなものだ。虐められる立場になって、はじめてその辛さがわかった。
たまりかねた私は父に窮状を訴えた。
ある日曜日の朝、父がいった。
「ちょっと出かけるから一緒にこい」
父の自転車の後について子供用自転車を走らせる。荷馬車の轍がつづく山道をいくこと2時間で、畑が一面に広がっている一軒家についた。そこが荒熊の家だった。
父が荒熊の父親に談判をしているらしく、その間、荒熊と私はだだっ広い庭で待たされた。鶏が周りをうろついて餌をついばんでいる。家の周りは一面の畑で遠くに隣家が見えるていどで、街の子である私には牧歌的な雰囲気が珍しかった。
二人は手持ち無沙汰で時ににらみ合いながら待ちつづける。そのうちに、家の中から笑い声が聞こえてきた。
「こっちへ来い」
家に入ると、父と荒熊の父親が囲炉裏を囲んで酒を飲んでいるではないか。二人はそれぞれの親の横にちょこんと座った。荒熊の親父が「もう、はんかくさい(注)ことすんな!」といって、荒熊のイガグリ頭をグイと抑えこむ。荒熊は首を亀のようにひっこめるような仕種でかしこまった。
(注)「ばかげた、あほらしい、愚かな」という意味で、本州各地の類義語から派生した北海道方言。
これですべてが終わった。荒熊のお母さんが手料理を運んできた。男爵芋の煮付け、まさかりカボチャ、トウモロコシを、ふうふうと息を吹きかけながら食べた。とても美味しい。
陽が西に傾くころ、元来た道を帰った。私は、途中で轍の溝に車輪をひっかけて転倒してしまった。ズボンが破れて泥まみれで血のにじんでいる膝小僧を、父が舐めてくれた。それは、迷信深い父のおまじないか? いや、後年私は薬学の研究者になったが、ヒトの唾液中にはリゾチームという消炎鎮痛効果のある酵素が含まれているのだ。
こうして傷口を舐めてくれる父の仕種は、子をいたわる愛情だけでなく、神がヒトに与えてくださった最大の贈り物でもあったのだ。往時を思い出すとき、改めて父の情愛の深さに胸が熱くなる。