網走市は北海道の東北部にあり、緯度は中国吉林省にほぼ等しいので冬は厳寒の地であった。父は独立して、小さな衣料品店を経営していた。常連客の一人がラーメン屋のオヤジである。貧乏で店舗を構えることなどできず、リアカーの屋台がひとつあるだけだ。
ある日、彼が父にいった。
「とても買掛金を払うことができません。すまんことじゃが、ラーメンを食べてもらい返済に充てるわけにはいきませんか?」
秋も深まったある夜、父は私と妹をつれて、横丁の屋台のラーメン屋へいった。テントで囲まれた屋台の外には仄明るい提灯の灯が点り、風にゆらゆらと揺れていた。オヤジが湯気のたちこめる熱々のラーメンを差し出した。とたんにコショウの香りがぷーんと我が鼻腔をくすぐり、食欲をそそった。このいい香りのものがラーメンというものか?
スープを一口すする。うま~い! そして麺を一口、うまーい! その麺は黒人の髪の毛のようにちぢれている。冷たい北風がぴゅーぴゅー吹いて、我が身体をこごえさせていたが、熱々のラーメンが体内をじわっと温めてくれる。
――なんて、幸せなんだろう。この世にこんなうま~い食い物があるなんて知らなかった!
父に連れられて冬中、何度もこの屋台に通った。こうして私には、たまたま巡り合ったこの屋台のラーメンが故郷の忘れがたい思い出の味となったのだ。
私が中学二年生のときに、我が家は京都に移住した。四十年も住んだこの大都市は、悠久の文化と歴史的名所旧跡がたくさんあるし、伝統的美食もあった。しかし、ことラーメンに関するかぎり、京都のいかなるラーメンといえども、少年時代に食べたラーメンに勝るものはない。
「屋台のラーメン」の味、その後
今日日本は豊になり、食べ物に関しては飽食の時代と言われている。グルメブームの中、世界中のどんな食品でも望めば手に入れることができる。私は未だにあの少年時代に食べた屋台のラーメンが世界中で一番うまいと信じているが、
――あの屋台のラーメンが、いま目の前に出たら、本当にうまいと言えるのか?
と問われたら、ちょっと自信がぐらつく。
今を遡ること60年も前、北辺の地にいた私たちは貧しかった。だから、たまたま巡り合ったあの屋台のラーメンがことのほかうまかったにすぎないのではないか、とも思うのだ。
とすれば、あのラーメンの味は私だけの思い込みであり、それが故郷への懐旧の思いとつながっているだけかもしれない。
京都に移住してから、十数年後のことである。会社に就職していた私は、或る夏に仲間数人と共に日本アルプスに登山した。
列車で飛騨の高山駅に夜中に着き、翌朝まで駅の構内で寝ていたが、寒さのために真夜中に目を覚ましてしまった。空腹を覚えて、駅前の屋台のラーメン屋へ行く。
出てきたラーメンを見ると、麺がちぢれているではないか! 胸さわぎがして、一口食べかけたとたんに、あのラーメンとまったく同じ味がして、私は感動した。網走の屋台とのれんが、目の前に現れたように思った。網走時代から十五年の歳月を経て高度経済成長期にあり、我が食生活も豊かになっていたにもかかわらず、我が舌はうまいラーメンの味を確かに憶えていたことになる。
こうして、 網走ではじめて巡り合い、飛騨高山駅前で再会した屋台のラーメンは、その後、杳として消え去ったままである。だが、またいつの日にか、何処かであの味と形に巡り合えるかもしれない、という期待に胸はふくらむ。そのときには必ず網走が甦り、暗闇の中の屋台には、仄明るい提灯の灯がともっていることだろう。
~~凍てつく北の大地であえぐ馬の運命は?~~
我が故郷網走市の忘れ難い思い出のひとつは、ある冬の出来事であった。
市内には街を南北に分けてオホーツクに流れでる網走川があり、市中央に南北を結ぶ橋が網走橋である。
中学一年のとき、下校中に橋を渡って南側の橋の袂まできた。そこで、雪橇を曳く馬が橋にむかう緩斜路を登っているのが見えた。橇には長さ10メートルはあろうかと思える太い丸太が三本も積んであった。オホーツク海から吹き寄せる寒風で凍結している路面を、馬は喘ぎながら重たい雪橇を曳いている。
御者が、“ドー、ドー”と叫び馬に鞭打つ。鼻から激しい息を噴き出している馬は、硬い凍土を踏みしめることができず、とうとう橋の袂で動けなくなってしまった。口からは粘性の唾液がとろりと垂れさがり、雪面にまで届いている。馬は明らかに疲労困憊の極に達している。
対向車線はスムーズに流れているのに、馬橇の後に続く車は数珠つなぎになって待ち続けている。イライラした運転手がクラクションをしきりに鳴らす。御者が焦って、更に激しく馬に鞭打つ。その乾いた音が北風に混じって私の耳朶を打った。
傍らの学友がつぶやく。
「あの馬っこ、今にぶっ倒れて、死ぬべぇ」
その時だった。一人の老婆が駆け寄り、橇を押した。
だが、痩せこけた老婆の細腕では、焼け石に水ではないか? にも関わらず、老婆の惻隠の情が少年の私に伝わってきて、胸が熱くなった。
そこで信じ難いことが起こった。やおら、馬が一歩、また一歩と前に踏みこんだのだ。弾みがついた雪橇は、鈍い軋み音を発して滑り出した。やがて馬橇は鈴の音も軽やかに網走橋を渡り、北岸へと消え去った。
我に返った私たちは家路についた。黄昏迫る街には、家々の灯が点りはじめている。オホーツク海の北風が茫々と吹き寄せて、我が身体を凍えさせていたが、心の裡には、温かい微風が流れているようであった。
網走の冬の生活に欠かせないのが「雪下ろし」だ。一冬に数度大雪が降ると小学校が臨時休校となるので、我々子供たちには嬉しい日となる。
わたしは父に命ぜられて、よく雪下ろしをしたものだ。平屋の屋根とはいえ、落下すると危険だが、冬季には家と家の間にうずたかく積もっている雪がクッションとなって安全なのだ。
屋根の頂上にあがると周りがよく見晴らせるし、遠くにあるパチンコ屋の拡声機から流れて来る歌謡曲も聞こえた。雪下ろしをしながら聞いた歌は、そのころ流行っている春日八郎の「お富さん」だった。何度も聞いているうちに、歌詞を全部覚えてしまった。しかし、
「♬ 粋な黒塀 見越しの松に 仇な姿の 洗い髪…」
は、大人の前、とりわけ学校の先生の前では歌えない。
冬のスポートといえば、スケートとスキーであった。
スケートは網走川の氷上リンクや、校庭のグランドに水を撒いてできた仮設リンクで滑った。
インターネットで網走のスキー場を検索すると、「レークビュースキー場」がヒットし、”オホーツク海と網走湖の絶景を眺めながらスキーを楽しめる”とあるが、私の少年時代にはこの様な立派なスキー場はなかった。私は、スキー板を家からはいて、網走橋を越えて山まで滑りながら行った記憶がある。
山にリフトなどという便利なものは無かったので、10~20分かけて登り、1分足らずで滑り降りることの繰り返しであった。それが足腰の鍛錬にはよかったのだろう。
ゲレンデの端には雪で固めた1~3m高のジャンプ台があった。弱虫の私は、1m高で飛距離3mをだすのがせいいっぱいだった(それもスティックを持ちながら飛ぶ)。
国際的ジャンプ競技では、ノーマルヒル(70m級)とラージヒル(90m級)がある。当時網走シャンツェには、40mか50m級のジャンプ台しか無かったが、それでも台の真上から見下ろすと恐怖心を覚えるほどの高さで、こんなところから飛ぶ大人はよほど勇気のある人に違いないと思ったものだ。
それ以来、ジャンプ競技には格別の思い入れがあった。
1972年の札幌冬季オリンピックの70m級で、日の丸飛行隊が金銀銅を独占した快挙には感動した(金メダリストの英雄「笠谷選手」が2024年に死去された)。
厳しい冬を乗り越えた福寿草が雪の下から顔を見せ、北国に遅い春の到来を告げる。4月に雪解け水が路上を幾筋にもなって流れだすと、私たち男の児は決まって<パッチ>(北海道の用語だが一般的には<めんこ>と呼ぶ?)という遊びに熱中したものだ。
パッチとは直径6~10cmの丸型の厚紙に武者絵などがカラフルに描かれているもので、板の上にパッチを置き5人程度が立ったまま板の周りを囲んでゲームが始まる。順番が来れば自分のパッチを板にたたきつける。その勢いでパッチをひっくり返すか、板の外にはじき出すと自分の獲物になる。中にはだぶだぶの袖の上衣を着て風のあおりを強め、パッチをひっくり返し易くするような試合巧者もいた。
私は負けると母に5円か10円をおねだりして、新しいパッチを露店や駄菓子屋で買ってまたゲームに参加した。この遊びに熱中して野球の投手のように肩を痛める。しかし、それが慢性化することはない。雪解けが終わり路面が乾燥する4月末になると、不思議とパッチ遊びは自然消滅してしまう。誰かが決めた約束事ではないのに、毎年まいねん、これが決まったように繰り返されていた。
そして風薫る五月になると、本州より一ヵ月遅れの桜が咲く。品種はエゾヤマザクラだったろうか?
オホーツク海と濤沸湖に挟まれた細長い砂丘に原生花園がある(上地図)。本州では梅雨がしとしと降るときに、北海道では梅雨がなくて最も爽やかな天候の下でハマナスなど多数の花々が咲き誇る。近年、バックパッカーなど多くの観光客で賑わう6月〜7月には、JR釧網本線の「原生花園駅」が夏季限定で営業されるという。
一口メモ「蟹族」の由来
こうして、涼を求めて本州からバックパッカーが多数押し寄せてくる。1960年代後半から70年代末に、若者たちは横長の大型リュックを背負っていた。それでは、列車の通路を前向きに進めず横歩きしたので「カニ族」と呼ばれた。
若者たちは費用節約のために、車中で一泊できる夜行列車を汎用した。しかし、国鉄の財政の悪化による合理化のために、1975年以降には夜間急行列車が削減され蟹族は衰退した。私は後年サラリーマン時代、深夜京都をたち、早朝東京につく夜行列車「銀河」を愛用した思い出がある。
東京駅のホームで誰が待っていた? それは秘密。
◆夏-2草競輪の英雄
~~転倒してもなお追いあげる選手~~
毎年夏に草競輪が開催された。プロの競輪選手ではなく、北海道各地からやってくるアマチュア選手(自転車店の経営者が中心の競輪愛好家なのだろう)が出場する大会だった。選手のコスチュームが赤黄青紫白とカラフルでかっこよかった。
競技場は現代のプロ競輪場のようなすり鉢型ではなく、網走高台にある学校のグラウンドが一日限りで使われていた。平たい土のトラックなので、コーナーを曲がるときには車輪を滑らせて、横転することがときどきあった。
ある年の大会のことである。先頭の選手がコーナーで横転したのがきっかけで、出場選手の約半数が連鎖的に転倒してしまった。転倒を免れた選手が、これ幸いと先行する。転倒した選手たちが体制を立て直して追いかけるが先頭集団との差は大きい。優勝者が先行集団の中からでることは間違いないと思われた。
ところが、道南の森町(?)出身の竹内という選手が猛然と追いかけて、最後のストレッチで先行者をゴボウ抜きにして優勝してしまった。ウイニング走行をする竹内選手の健闘を観衆が大喝采で讃えた。もう70年も前のことなのに、無名のこの選手の名前を今でも憶えているのだから、少年の私が彼の快挙に感動し、英雄として称えたのがわかるだろう。
この種の英雄譚はめったあることではないが、稀には起こり得る。それをやってのける競技者はよほど優れた能力の持ち主に違いない。
後年、1972年のミュンヘンと1976年のモントリオール両オリンピック陸上種目で、長距離5000mと10000mを連覇した(金メダル4個)フィンランドのラッセ・ビレンという天才選手のことが思い出される。
ビレン選手の驚異的追い上げ
特に最初の金メダルを獲得したミュンヘンの10000m決勝は、いまでも記憶に残る伝説のレースであった。彼は途中(四、五千メートルあたり)で、選手と接触して転倒しながらも立ち直り、ついに世界新記録で優勝してしまった。信じられない強さである。
私はビレン選手の快挙に感動しながら、あの草競輪の竹内選手を思い出した。少年のときの一瞬の感動はいつまでも忘れられないものだ。
◆夏-3 相 撲
学校で最も人気のあるのが相撲である。年中やっており、雪が舞うときでも、体育館にあるマット式土俵で欠かしたことがない。スケートやスキーでも鍛えた力自慢の私たちは、網走神社の大祭に開かれた奉納相撲の小学生の部に参加した。私は準決勝まで勝ちあがったが、他校の猛者にやられて優勝できなかった。
近郊の農村や漁師の若者が出場する大人の部では、優勝したら金一封に副賞として田辺酒造の清酒「君が袖」一升瓶が授与された。
網走近郊の北浜出身の「北の洋」が憧れの郷土力士だった。しばしば、大関・横綱を速攻でたおし「白い稲妻」と呼ばれており、ラジオの大相撲の実況放送にかじりついて応援していた。
大相撲地方巡業(網走場所)
夏になると大相撲の巡業が網走にやってくる。
網走川の堤の砂地(浜網走)に仮設された一日限りの「網走場所」を観戦することは、私たちの最高の楽しみであった。まず開催の前日に力士が分宿する旅館巡りからはじまる。当時テレビがなかったので、大相撲はラジオ中継か新聞、時に映画館のニュースで知るていどだったが、それでも上位の力士の名前と顔をよく知っていた。
旅館の玄関の紙に墨ででかでかと書かれた力士の名前をみるだけで胸が躍った。字の大きさは、横綱大関・幕内・十両・幕下と番付が下がるにしたがって小さくなる。旅館の前で実物の力士にお目にかかることはできなくても、幕内以上の力士なら四股名・風貌・体形などを全て覚えているのだから、想像しながら憧れたものである。こうして旅館巡りをしながら、翌日の観戦への期待がいやがうえにも高まるのだ。
個性的な力士の特色とは?
測量表示は、現代では「メートル・グラム」であるが、私の少年時代には「尺貫法」だった。尺貫法ほど、力士のサイズを実感させる表記法は他にないだろう。たとえば、
当時、最巨漢力士といえば、大起(おおだち)で、体重48貫もあった。最長身力士は大内山(おおうちやま)で、6尺6寸7分だ。相撲愛好少年の私は、力士の四股名を聞けば、たちどころに尺貫法で言い当てることができた。しかし、上の両力士は栄養事情が悪かった半世紀以上も前にしては異常に大きすぎた。
幕内の最小兵力士というと、神錦(かみにしき)だった。筋肉質なのでほかのスポーツに向いた体形だったが、力士としては体重不足で、幕内上位では活躍できなかった。神錦が23貫だから、21貫(81kg)の私は幕内力士として通用するかもしれない!
網走場所
網走場所がはじまった。この日、小学校は休校となり、相撲好きの父の子や金持ちの子は、朝から親に同伴して、土俵に近い上等の席(溜り席)に陣取る。私は、学友と連れだって、土俵からかなり離れた一般席で観戦した。
巡業場所ならではの「初切(しょっきり)」、美声力士の「相撲甚句」、太鼓の「バチさばき」などの余興が楽しい。幕下以下各段の力士が競うトーナメントもあった。地方巡業なのだから、いくら名力士同士でも真剣勝負の取組みとはならないことくらいは少年の私でも知っていた。それと較べて、まだよれよれの「下がり」をつけ、幕内力士のような「大たぶさ」の髪型ではない幕下以下の力士が賞金目指して真剣勝負をするトーナメントの方が面白かった。
こうして、我が少年時代には毎年やってくる地方巡業を見るのが最大の楽しみだったが、年によっては思いがけないことが発生する。
大相撲の巡業は、幾つかの部屋別に分かれて地方巡業するので、横綱が来る年は土俵入りがみられるが、ときには横綱・大関が一人も来ないことがある。ある年には、最高位が関脇の北の洋(御当地力士)と清水川の一行がきた。
小学校の校長(おそらく相撲に興味の無い方なのだろう)が、休校にする必要がないと判断して、相撲見物を取り止めにした。これに相撲愛好少年の我々は猛反発し、担任の先生に抗議した。子供が学校の方針に逆らうなど、前代未聞のことだったろうが、これだけは私には譲れなかったのだ。結局、見物したい者だけに休校を許すと、先生方が折れ、我々は意気揚々と網走場所にでかけた。
かくも“相撲狂い”だった私は、それが昂じて、お江戸の相撲部屋の門をたたけば、176cmだったので入門検査はらくらくパスしただろう。そして、神錦のように幕内力士として活躍できたかもしれない。
――あの国技館の大観衆の前で裸一貫の勝負!
そんな人生を夢想するだけで80歳を超えた今でも胸が躍る。だが、父母は私に学問をさせたくて、中学二年のときに網走から京都に移住した。たしかに私は、親の希望どおり大学に進学したが、卒業後に平平凡凡たる人生を歩んだことがよかったのか? 未だに結論が出ていない。
「夏-4」――網走市主催の火祭と「秋」――紅変するサンゴ草の能取湖群落地については、No.27に詳述しているので、そちらをご覧ください。