第四部 中国編2

第20章 異文化コミュニケーション

江西師範大に勤務3年をすぎたとき66歳になった。このときより、中国政府の外国人雇用基準が厳格化されて、私は解雇された。帰国せざるを得ないと観念したが、新学期がはじまる直前の8月末に、上海理工大学日本語科から求人が広報された。

――日本語教師に欠員が生じたので、70まで採用可能。

予定の日本人に不都合が発生した緊急事態のようである。応募したところ、幸いにも代理として採用された。

これまでの大学では3,000元~5,000元だった月給が、はじめて1万元の大台を超えたのは嬉しい。ただし、物価も高い! 

 

日中韓の文化差

 ~~この章では日本人と中国人に加えて韓国人についても比較することにしよう~~

 

中国で4番目の大学『上海理工大学』で、はじめて『異文化コミュニケーション』という授業を担当した。

そのとき使ったテキストは、『アジア人との正しい付き合い方――異文化へのまなざし』(著者 小竹裕一 立命館アジア太平洋大学<出版時准教授>NHK出版、生活人新書 2008年)であった。

 

小竹は、文化を『高等文化』と『一般文化』の二つにわけているが、この本で扱う民族や国家間の生活習慣の違いによるカルチャーショックや誤解、不和は、『一般文化』の違いによるものと定義している。

  

彼は、日本語を教えているシンガポールの中学生を引率して、日本でホームステイをさせた経験があるという。その中学生の戸惑いを次のようにユーモラスに記述している。

――シンガポールの中学生たちが言葉少なに「なんとかならないか 」と不満をもらしたのは何かといえば、日本人ホスト家族の食べるスピードのことだった。つまり、彼らが夕食の料理を半分も食べないうちに、日本人の家族は食べ終えてしまう。そして、まだ口をもぐもぐ動かしているシンガポール人の中学生を、皆がじっと見つめるので、バツが悪くて食べ物がノドを通らなくなってしまう、という訴えであった

早メシの日本文化

 小竹は少年時代に父から『早メシ、早グソ』を躾けられた経験を思いだしながら、日本には『早メシ文化』が確かにあると述べている。この点は私も同感できることである。さらに、小竹は次のように述べている。 

 

――このような、無意識のうちに身につけ、無意識にやっていることのほとんどが、自分の背後の文化によって支配・コントロールされている。それに対して、自分と異なった価値観や行動様式などを読み解き、理解するという一見困難とも思える外国人とのコミュニケーションをやっていく中で、自分自身の文化が見えてくる。だから、異文化コミュニケーションとは『自分探しの旅』でもある。

 

小竹は、日本人と韓国人の文化背景が際だって異なっていることに注目して、両国の若者の『友達』に関する考え方の違いを探るためにアンケート形式で調査し、その結果をこの本で解説している。

 

私は、上海理工大学日本語科で中国人学生に『異文化コミュニケーション』をこの本をテキストとして授業することんいなった。その際に、中国人のデータも加えて、日韓中の三国の比較をすれば学生の関心もいっそう高まるだろうと考えた。そこで、授業の直前に、この大学の23年生を対象にしてアンケートを実施した。男女比率のアンバランスなど小竹ほど綿密な調査とはなっていないが、比較のための参考資料にはなるだろう、と考えた。

  

小竹が紹介している約十項目の質問のひとつ『友だちと食事するとき、支払いはどうしますか?』について、私が調査した中国人の結果を加えて下図に示する。『おごる』と『時々おごる』を併せると、中韓共に約70%なのに対して、日本人は割り勘が約70%と際だって異なる。

日中韓の文化差

――韓国人にしてみれば、友人同士なのに食事のたびに細かく計算して割り勘にする日本人に違和感や息苦しさを覚えるのだろう。

 小竹はそう推察している。この点では中国人も同じ思いのようだ。

 

下の表には8項目について日・韓・中の調査結果を大雑把に区分けし、3国の異同の程度をまとめた。『友達の誕生日にお祝いをする』(第8項目)の点では日韓中で同じで、友への気遣いを忘れないのに、他の七項目では日韓は際だって異なっている。中国はやや韓国よりの中間的な位置にあることが分かった。小竹は日韓について以下のように考察する。

  

――友達関係を大切にする気持では日韓で(私の調査した中国も加えて)差がないのに、その表現のしかたに大きな違いがある。すなわち、日本人が「いくら友達でも、あまりに馴れなれしくすると、礼儀しらず」になって良くないと考えるのに対して、韓国人は「お互いに友人なのだから、無礼講が当たり前」と考える。

友との付合い方の日中韓の文化差

1 友達と話すとき、どの位の間隔をあけて話すか(40、50、60センチ)

2 同性の友達といっしょに歩くとき、手をつなぐか

3 同性の友達が部屋にきて泊まるとき、一緒にベッドで寝るか

4 友達と食事をするとき、支払いはどうするか

5 友達の大学の成績について、どのくらい知っているか

6 友達の部屋に行ったとき、友達にことわらずに冷蔵庫をあけることがあるか

7 同性の友達の部屋に泊まったとき、友達の歯ブラシを借りて使ったことがあるか●●

8 友達の誕生日に何かしてあげるか 

 

【1から8の調査項目は小竹の著書にもとづく。調査対象は以下である】 

 日本人・韓国人 男女各25名(立命館アジア太平洋大学 2004年 小竹裕一)

 中国人 男21名 女38名(上海理工大学2,3年生 20011年 森野昭)

以上、私は、将来日系企業に就職したり、仕事で日本人と付き合うことになる日本語科の中国人学生に、『異文化コミュニケーション』を講義した。彼らが日本人をはじめ外国人と付き合うときに、相互に異なる文化的背景をよく理解しておくことが、友好な関係を維持するために必要である。それゆえ、大学の日本語科における『異文化コミュニケーション』の授業はとても大切である、と考えている。

 本章は『異文化へのまなざし』(第2,3章;小竹裕一著)から、著者の許可を得て多くを引用させていただいた。

 

 なお、『中国人のマナー』については別項にて紹介した。

 

21 仏教寺院巡礼の旅

中国一の経済都市「上海」で一年間勤務した後(2011年)に解雇された。これで7年間の中国生活を終える覚悟をきめたが(注)、この国で未だ実現できていない心残りが一つあった。

 

(注)思いがけない縁により、雲南省であと一年、教師を続ける幸運に恵まれたが、それは後の章で述べる。

 

日本の精神文化に与えた中国(漢民族)の偉大な影響として「仏教」を忘れることができない。華厳宗・真言宗・天台宗・禅宗などは中国由来である。そして、我が家の「浄土真宗」も中国における「浄土教」が源流となっている。

そこで、中国生活の最後を浄土教の古刹をはじめ仏教の寺院を訪問する旅で締めくくりたいと考えた。6月下旬から夏期休暇が始まり、旅行シーズンにはいる。各地を訪問する長旅は、私独りではとてもできそうにない。幸い、江西師範大で私の教え子であり、また中国語の家庭教師でもあった黄誉婷さんと陳亜雪さんが、卒業間近の忙しい中を、南昌から北京までの二週間の長旅を、半分づつ私に同行してくれることになった。 

以下に、訪問地を順次紹介することにする。

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廬山の東林寺と西林寺

6月22日に夜行列車で上海を発ち、翌朝、南昌駅で黄さんと落ち合い、新幹線で一時間後九江駅に着いた。九江市は江西省の北端にある長江中流の港町で、二年前に、東晋の田園詩人陶淵明の記念館を訪問するために来たことがある。ここからバスを乗り継いで、廬山山系の僻地にある西林寺にいった。

私が参考にした「仏教の来た道」(鎌田茂雄著、講談社学術文庫)によれば、この寺について「唐時代に建設された西林寺は焼失して、今は六角七層の塔だけが残っている」とある。しかし、今回訪れると、広い敷地に立派な寺院が再建されている。

今は尼寺になっており、境内を歩いていたら、尼さんが「食事をしてください」と一室に案内された。福建省から来たという56人の巡礼がいた。廬山の山懐深く素朴な信仰を守っている尼さんたちが、巡礼を温かく迎え入れてくださることに感謝して、私たちもご相伴にあずかった。

 

次に、近くにある東林寺に入ると、見張り番の僧が短パン姿の黄さんを見とがめて、「控え室で長ズボンにはきかえてください」と言った。本日は猛烈な暑さで、他にも脚線美を露わにしている女性数人がいて、僧侶指示の長ズボンにはきかえている。

大雄宝殿でお参りして境内をひととおり見学してから、本日のホテルを探すことにした。

黄さんが仏務所の僧に一夜の宿舎の斡旋を頼んだところ、「寺ではお世話できないので外で探してください」と断られた。ところが、“お経”らしきモノ(じつは、浄土真宗の「正信偈」)を持っている私を見とがめた僧が、「この方は?」と尋ねたので、黄さんが紹介した。

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「この方は、日本の浄土教信者で、中国各地の浄土教の聖地を巡礼しております。ガイドの私は、本日、東林寺をご案内したくて参りました」  

すると、僧の態度ががらりと変わった。

「では寺の宿舎を提供いたしましょう」

機転の利く黄さんが同伴してくれたことが幸いした。僧が彼女の学生証と私のパスポートを確認すると、迎賓館に案内してくれる。一、二階で男女に分かれているが、部屋に案内されてその立派さに驚いた。バス・トイレ、空調が完備しているだけでなく、廬山の絶景が一望できるバルコニーまである一流ホテルなみの豪華な部屋だった。

ついでながら付記すると、私は中国生活もそろそろ終わりになると予感していた。だから、半年前の年末に一時帰国したとき、「正信偈」と線香・蝋燭を取りそろえて準備していたのだ。それが今回の仏教寺院巡礼の旅に役だったわけである。

 

先の西林寺では食事を振る舞われ、ここでは立派な宿舎まで無料で提供されて感激! 共産主義国家中国では、公式には宗教が否定されており、三十数年前の「文化大革命」では紅衛兵により多くの寺院・廟が破壊された。しかし、民衆の中には仏教がなお息衝いており、現在、中国では改革開放により修復され有名な寺院がたくさんある。しかし、廬山の山懐にいだかれた西林寺・東林寺のようなお寺では観光客をあてにはできず、それがかえって、巡礼をもてなす素朴で宗教本来の活動を守り続ける条件が整っているのかもしれない。今日一日、このような聖地を訪ねることができただけでも、本旅行の意義があった、と私は満足した。

 

夕食は、寺の外の一見農家風のレストランで食べた。目の前には池があり、池の魚や泳いでいるアヒルが、たちまち食卓に出てきた? 牧歌的雰囲気の中で、二人で貸し切りのような店でゆっくりと食事ができたのも、楽しい思い出になった。

 

 ■虎渓三笑

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中国浄土教の先駆者である廬山東林寺の住職「慧遠」は、仏道に専心するために、外出は寺のすぐ近く虎渓に架かっている橋までと決めていた。    

ところがこの日、詩人の陶淵明と道士の陸修静の二文人を見送った時、話に夢中になって虎渓を越えてしまった。虎の吠える声を聞いてはじめて気づいた三人は、大笑いしたというのだ。これが、「虎渓三笑」と世に知られる故事で、画題になっている。しかし、これは寓話で、三賢人は時代的に離れているので実際に会うことはできなかったようだ。

 

■香炉峰と廬山瀑布

翌日、李白の詩で有名な「廬山瀑布」を見物するために山懐に分け入ることになる。早朝からかなり暑い。登山口の売店まで来たとき黄さんがいった。

「喉が乾いたから、ビールでものみましょうか」

彼女は大学生にしては例外的に酒につよい。祖母が白酒(火をつけたら燃え上がるほどの強い酒)を毎日欠かせないほどの酒豪だそうだから、彼女は隔世遺伝を受け継いだのだろうか?

ちなみに、彼女の家系は、戦乱や異民族の侵入から逃れて中原から南方に移住した客家(ハッカ)であり、正統な漢語を話す漢民族として知られている。中国語の家庭教師に雇った理由の一つもここにある(もう一人の案内者“陳”さんは班長だった)。

この暑さの中でよく冷えたビール、大瓶一本を二人で空けて景気づけしてから、やおら登山開始!

急斜面と階段が交互にまじっている坂道を歩き、途中で河原に下りて、冷たい水で汗をふいたりもした。滝壺の一歩前まで来たところで、時間不足のために引き返したが、滝を間近に見ることができたので満足した。

 

その夜は廬山温泉に一泊。

上の図をクリックすると拡大します              
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■香炉峰と瀑布の所在地(後日談)

高名な李白の「廬山瀑布」を訪ねたのが、本旅行の最大の成果の一つである。ところが、その後2020年にインターネットで興味深い論文をみつけた。

 

●中国詩文論叢 第三集(pdf、植木久行著)

「香炉峰と廬山瀑布――二つの香炉峰の存在をめぐって」

中国歴代の文人・漢学者による漢詩や漢文が多数引用されている学術的論考なので、私には十分解読できたとは言い難いが、植木氏の論旨は概略以下のようなものである。

上の廬山の地図を参照しながら理解されたい。

 

 香炉峰は廬山の山域に、南と北に少なくとも2峰ある。

 南北それぞれの峰の近くに瀑布がある。

 白居易の有名な詩のなかで「香炉峰の雪は簾を撥げて看る」とあり、清少納言の『枕草子』にも登場する峰は、「北香炉峰」である。

 李白の詩(望廬山瀑布)に描かれている雄大な瀑布は、「北香炉峰」の近く(東林寺の南方)にあったはずだが、既に消滅しているか、または水量が衰えてしまっている。だから李白が詩に描いた瀑布は現存しない可能性が極めて高い。

(なお、東林寺で僧に「ここから香炉峰が見えるか?」と尋ねたが、僧は知らないようであった。)

 

以上のことより、私が登って眺めた瀑布は李白の詩とは無関係となる。中国の観光地には、永い年月の経過により消滅している場合があるものだ。李白の詩に登場する世界的に高名な瀑布がニセモノだとすると、私は何のために苦労して登ったのだ! しかし、廬山山域に現存し、私が登り、確かに見た滝は南瀑布(「開先瀑布」と呼ばれる)であるらしい。それしか、李白の詩を彷彿させる滝がないのなら、仕方がないのだろうか。

 

植木久行氏の論文は下のURLをクリックして一読されたい

https://waseda.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=29585&item_no=1&attribute_id=162&file_no=1

植木久行氏の論文を分かり易く補足解説した下定雅弘氏の「香爐峰は二つある!」について下のURLも参照されたい。

http://chinese.art.coocan.jp/koloho.html

 

再び、九江市に戻り、草魚料理を食べた。そして、夜に西安行きの寝台列車に乗った。 

列車に揺られて18時間後の夕方、西安に着いた。駅前のホテルにチェックインしてから、久しぶりに北門院の回族街路へ行って、羊肉串焼きと小籠包を食べた。

 

上の図をクリックすると拡大します              
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■西安の寺院、浄土教の香積寺

 香積寺は浄土教の第三祖「善導大師」が西安で過ごした寺といわれている。王維の詩によると唐時代には深山幽谷に分け入ってようやくたどり着く所にあったが、今は西安市の南郊外をバスで走ること1、2時間でたどりつける平地にあった。寺の位置を移したのか、王維の時代より千年以上も経過しているのだから、地形まで変わってしまったのか、よく分からない。

 

 香積寺で我が家の浄土真宗の教典「正信偈」を読経した。寺の年老いた事務員が黄さんに仏前礼拝の仕方を教えてくれた。中国式の方が日本式より丁寧だった。境内に日本から来た「浄土宗」の巡礼が記念に植えた海棠と立て札がたっていた。

 夕方、南昌から陳亜雪さんが駆けつけてくれた。黄・陳両嬢は大学卒業時のいそがしい中を私のために旅行に同行してくれ、西安から先は陳さんが担当してくれることになっている。夜、三人で大雁塔境内を散策し、そのあと黄さんは夜行列車で南昌に帰って行った。

 

 

■平遥古城

 平遙古城は、明代のたたずまいがそのまま残っている城壁で守られた街で、二度目の訪問である。今回の旅は抹香くさい寺訪問がおおくて、中国人の若者陳さんにはあまり興味の湧かない所ばかりだ。しかし、ここ平遙古城だけは別である。陳さんに旅の楽しさを味わってもらうように気配りした。

 

■浄土教古刹玄中寺

~~浄土真宗門徒にとって最も尊いお寺~~

 平遙古城からバスで太原駅についた。駅前で、「玄中寺」へ行くタクシーをチャーターした。このような場合に、観光業者との価格交渉をしなければならない。日本人だけでは彼らの言い値でぼられる可能性があるが、陳さんがいてくれるので心強い。中国人は学生であっても、金のことになると”締まり屋”でたくましいのだ!

 

 一時間平地を走ってから、急な斜面の山道にはいり約2時間ほどでついた。目指す寺は、標高900mの山懐に抱かれたところにあった。参道を歩くとようやく山門にたどりつく。献灯所で日本から持参した線香と蝋燭に火をつけてたむける。中国の類似のモノと較べて小さいが、我が心づくしのモノだからそれでいい。

 

 大雄宝殿に人影は少なかった。

 玄中寺は、「浄土教」の開祖・曇鸞(どんらん)が、北魏時代の西暦472476年に開山し、つづいて道綽(どうしゃく)、善導(ぜんどう)により「浄土教」を発展・完成させた。この三高僧が作り上げた思想体系が、後年日本に伝わり、鎌倉時代に法然(浄土宗)とその弟子親鸞(我が家の浄土真宗)に受け継がれたのだ。

 

 

上の図をクリックすると拡大します              
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私は子供のときから、仏前で父の後ろに座って、浄土真宗の「正信偈」を“お西”風の節回しで唱和していた。その中に「七高僧」という言葉がある。父と違って信仰心の薄い私は、その意味も分からないまま齢をかさねていたが、あるとき、その七高僧の中の三人が他ならぬ、曇鸞・道綽・善導の三大師であることを知った。そして、今いる玄中寺こそが、阿弥陀仏による浄土信仰の発祥の地なのだ。

既に他界している父は、若い頃、二度ほど中国に出征した(日支事変と第一次上海事変)。もちろん、一庶民の父が中国を侵略しようなどという考えは無かったものの。父は信仰心が篤かったが無教養であったので、中国に来ても玄中寺のことなど知らなかっただろう。だから今、その息子が玄中寺に巡礼していることを天国で知って、どれほど喜んでいるだろうか。曇鸞・道綽・善導の三大師と親鸞さんも「よくぞ参られた」とお慶びであろう。そんな思いで、私は「正信偈」を読誦した。

 

日中の政治的関係は、巡礼したときより現在(2024年)さらに悪化している。しかし、私は中国の歴史を学び、漢民族の偉大さと日本に与えてくれた多大の恩恵を思うとき、共産党政府に対する悪感情はさて措おき、中国に畏敬の念を抱いている。

なお、玄中寺から太原駅に戻って、その日のホテルを探しているときに、ちょっと中国人とのもめ事があったが、それは第13章に既述した。

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北魏王朝初代「道武帝」を模した如意座像   音楽窟

 

翌日、太原から更に北にある大同市へと列車で移動した。緯度的には北京の北にあるこの地方には、車窓からも北国の雰囲気が感じられた。

大同市では中国三大石窟寺院の一つ、「雲崗石窟」を訪問した。この石窟は、後に開鑿した洛陽市の「龍門石窟」と共に鮮卑族の「北魏王朝」によるものとして中国史上名高い。5世紀後半に開鑿された「雲崗石窟」は、東西1kmにわたる51の壮大なる石窟からなる。その多彩な窟像の中から、音楽窟と代表的巨大座像を上に紹介する。

 

  雲崗石窟は、その後見捨てられて現地民により物置や便所として粗末に扱われていたそうだ。それを日中戦争時に日本の学者が調査し、戦後にその報告書を出版して、この石窟の存在を世界にしらしめたという。

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◆石像の穴の理由

 石像の至る所にある穴は、仏師が石像を彫り込むときの足場に使うためのものか? 

じつは、石像の表面に泥をぬりその上に色彩鮮やかに顔料で色づけしてあった。穴はその泥が落ちないための支え棒を差し込むためのものであった。しかし、長い年月の間に、表面の泥が落ちて穴が露出している。

 私は西安時代に訪ねた洛陽の「龍門石窟」につづいて今回雲崗石窟を見学することができた。しかし、中国三大石窟寺院のもう一つ「敦煌莫高窟」には、ついに訪問できなかった。

次に、北京市についた日に、私は67歳の誕生日を迎えた。その夜に、世界的に有名な王府井の北京ダック店「全聚徳」で陳さんが祝いをしてくれた。

 

■刻経の始まりーー房山石経

~~北京の敦煌とよばれる房山石経~~

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二週間の仏教寺院巡礼の旅もいよいよ最後になった。

そこは、北京郊外の「雲居寺」である。

お釈迦様が始めた仏教は、その後シルクロードをたどって中国に伝えられた。インドに渡った中国僧としては、『上には飛ぶ鳥なく、下には走獣なし』の過酷なタクラマカン砂漠を踏破した「法顕」や仏典を自国に持ち帰った「玄奘三蔵」がよく知られている。仏教は中国で独自の発展を遂げた(いわゆる大乗仏教)が、在来の思想「儒教」、「道教」と時に対立し、時に共存する経緯をたどる。そして、歴代王朝の皇帝の中には、仏教を厳しく弾圧することもたびたびあった。

北周の武帝もその一人で、廃仏政策により多くの経典が焚書に遭った。秦の始皇帝による“焚書坑儒”を想起させる。紙に書かれた経典は簡単に焼くことができるので、経文を石版に刻んで永遠に残そうと考えた人が「静琬」である。彼は「虎渓三笑」で紹介した廬山の慧遠(浄土教の先駆者)の弟子で、北京市郊外の老木が生い茂る深山幽谷の中にある洞窟に立て籠もり、死ぬまでの三十年間その事業に専心したという。

さらに驚くべきことに、彼の死後もその遺志は引き継がれ、隋時代から明時代までの約千年もの長きにわたってつづいた。宗教心の篤さというべきか、その情念の峻烈さというべきか、驚くしかない。

 

静琬とその後千年にわたる刻経の営みは、房山石経として麓の「雲居寺」の倉庫に一万四千余枚保存されている。私には、石の経文は難解でとうてい理解できないし、これまでに訪れた秦の始皇帝兵馬俑坑や雲崗石窟のような視覚に訴える派手さもない。私たちが訪れたとき、他に誰も観光客はおらず、偉業を伝える碑文がひっそりと置かれていた。しかし、そこには何か崇高なる人間の営みに触れた静かな感動がある。

 

なお、房山石経は「北京の敦煌」と呼ばれているそうで、実際に房山へ分け入って石刻の現場を見たかったが、山が荒れていて入山禁止だったのが、残念である。

 

こうして、2週間にわたる仏教寺院巡礼の旅は、黄誉婷さんと陳亜雪さんの協力により無事終わった。翌日、私は帰国のために北京空港へ、陳さんは南昌へと別れた。

 

22 大学とバトル、不法滞在の危機(昆明)

雲南省の私立大学でのトラブル

中国で五番目にして最後の赴任地が雲南の省都昆明市で、私ははじめて私立大学に勤務することになる。 

中國の最南端、雲南省は中国人も憧れの地で、昆明市をはじめ各地に有名な観光地がある。私は観光が目的ではなく、他に就職口が無いときに、たまたまこの地の大学を紹介されたのだから、幸運であった。私が観光した地を下に紹介する。

雲南省の観光地
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雲南省各地の標高
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 ここで、昆明市の気候風土について触れておこう。  

 雲南省は本来熱帯・亜熱帯気候に属しているが、昆明市は高原地帯にあるため、夏は涼しく冬は暖かくて住み心地がよい。大学に赴任早々、挨拶のため五階の日本語科職員室へと階段を上ると、息切れした。昆明の標高は1,892mと日本の高山に匹敵していて、平地より空気が希薄なのだろう。

この大学で1年間勤務したときに、私は70歳にたっした。こうなると、継続採用はされず、中国の他の何処の大学からも雇用される道が閉ざされた。

雇用契約期間は630日までだから、6月に入ると帰国の準備をはじめた。その日までに中国を去らなければ不法滞在になる。

私は日本語科教務主任をつうじて帰国の航空券の手配を頼んだ。しかし数日後、思いがけない返事がきた。

「当大学では外国人教師への往復の航空旅費とは、”日中間の航空旅費”ではなくて”空港と大学間の交通費”なので、自前で航空券の手配をしてください」

 私は驚いて雇用契約書を見直してみた。

 これまで赴任した4大学ではどこも1年間の教育活動を順調に終えたときには、往復航空券代が支払われていたし、今や世界主要国の求人条件の一般的常識となっている。だから、この大学の雇用契約書の解釈は手前勝手というより、詐欺行為に近いとも言えるもので、私にはとうてい納得できなかった(下図参照)。

契約書で大学と対立

 外事処の意向を私に伝えた日本語科教務主任はこうもいった。

「もし、外事処の対応にご不満があれば、今後先生は外事処と直接交渉してください」

 つまり私は、学内で唯一の味方となってくれるはずの日本語科教務主任からも見捨てられたことになる。『外事処』には英語に堪能な職員がいるはずである。私も日常英会話程度ならできるが、厳しい交渉事に耐えられるほどの高度な英語力は無い。しかも、学内で最も強大な権力集団である”外事処”を相手に一人で立ち向かわなければならないのだ。これは容易なことではないが、理不尽な目に遭って泣き寝入りをするのは何とも悔しい。

 そこで、私は肚を括った。

――往復の航空運賃はあくまでも外事処に支払わせる!

だが、もし交渉が長引き契約期限が切れて、7月にづれこむことになれば私は不法滞在者となり、公安警察に逮捕される恐れがある。が、それでも絶対に昆明に留まることに決めた

 外事処と戦うためには幾つかやっておかなければならないことがある。

 昆明は中国の僻地・最南端の雲南省にあるから、これまでの4大学の所在地と異なる事情があるのかもしれない。そこで、昆明の日本人教師仲間にメールで問い合わせた結果、3国立大と私立大いずれも、往復航空券が支給されていた。 雲南省を管轄している『重慶日本総領事館』に事情を伝えて支援を要請する文を準備した。

 

さらに昆明の日本人教師仲間の一人に、元日本の商事会社勤務で、外国との交渉経験のある人がいるので、意見を聞いてみた。

彼は言下に「そんな危ないことはお止めなさい」と厳しい。

――なぜなら、中国は、日本のような人権が尊重される国家とは違う。また、中国人は日本を嫌っているので、日中双方が争えば、公安警察は「日本人が悪い」から始まる。とても、勝ち目はない。たかが旅費問題で不法滞在になれば、遙かに高額の出費を覚悟しなければならない。大学の理不尽な態度には肚がたつだろうが、ここは航空運賃くらい自腹を切り、さっさと帰国する方が賢明だよ。

 

これにはまいった。不法滞在を覚悟で外事処と戦う決意が、へなへなと萎えてしまった。

一度は私を見捨てた日本語科教務主任に、もしやと、すがる思いでE-メールを再度だした。

 

✔ 契約書を取り結ぶとき、教務主任がその窓口を担当なさっていたので、外事処の意図を知る立場にあった。

✔だから「我が校は往復航空券を支払わないが、それでもいいのか」となぜ率直にお尋ね下さらなかったのか

✔ それなら「雇ってくださることに感謝して、日本語科のお役にたちたいのでお受けします」と、お返事したでしょう。

✔ それが無いまま、帰国する今になって航空運賃を払わないと言われては、私は裏切られた思いで無念でなりません。

(以上、教務主任に”情”に訴える内容を書いてから、コワモテの”外事処”を意識して以下を追加した)

✔ 航空運賃支払いの交渉が難航して不法滞在になる場合には、『日本総領事館』に支援を依頼するつもりです。準備した日本総領事館への要請文を参考のために添付します。

 

このメールは意外なほど波及効果があった。日本語科教務主任はメールの内容を外事処長に伝えて、私と外事処の会談の日時をセットし、交渉の通訳も引き受けてくれることになった。ただし、要請文を日本総領事館へ送るのは差し控えて欲しいと言うので、私は同意した。

下に強くて上には弱い、そしてメンツに拘る”外事処”が、日中の外交問題に発展することを嫌ったと思われる。外国に住む邦人の私には、日本大使館や総領事館が最後の砦として身近に感じることができた。

航空費で外事処長と交渉
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三日後に私は日本語科教務主任と共に外事処長室に出向いた。「所長は当大学の副学長を兼務している高い地位にある女性です」と教務主任が紹介した。

         

処長室には大きな事務机の前に、黒革のソファがあり、我々はそこに座った。教務主任と処長が事前に打ち合わせしていたのだろうか、処長の意向を受けた教務主任と私が日本語で話し合う形で対話が進行した。処長は、ときどき教務主任の中国語に耳を傾けている。

冒頭、教務主任が、

「契約時に航空運賃ではなくて、昆明空港と大学間の交通費であることを話さなかったのが、森野先生にはご不満であったようです。この点は私の落ち度ですからお詫びいたします」

 教務主任が自らの非を認める発言をしたのは意外であった。事実上外事処もこの非を認めたようなものであり、出だしから低姿勢で友好的な態度が感じられる。二、三の話し合いの後、教務主任が問うた。

「森野先生は、あくまでも往復の航空運賃の全額支払いにお拘りになるのですか?」

 この質問に解決の糸口を模索しようとする先方の意図を感じた。私は即答した。

「これまでの大学での経験からいっても、それが私の希望です。しかし、互いが自己の主張ばかりをしていては、まとまる物もまとまりませんね。私は何とか円満解決できる道があればと思っているのですが・・・」

 この発言を教務主任が中国語に翻訳して処長に伝えると、処長がいった。

One-way ticket(片道切符)」

妥協成立

私はこれで妥協するしかないと肚をくくり、処長に手を差し出した。そして二人は握手。

あとは事務室のパソコンで、昆明長水空港から上海経由で関空への空港券の予約がとんとん拍子に進んだ。

以上、まるで芝居のように仕組まれた交渉が終ったが、日本語科教務主任へ送った我がメールが予想外の成果につながったのだ。同時に、教務主任が最後まで私を見捨ててはいなかったことに、感謝しなければならない。

 

 私と教務主任が外事処を出てキャンパスを歩いた。日本時間でならもう午後5時を回っているはずなのに、コバルトブルーの青空からは陽光が照りつけている。日本より2時間くらいは時差があるのでまだ真昼のようである。教務主任は日傘を差していたが、私は陽光を浴びながら爽やかな気分であった。 

ニール・セダカのOne-way ticket

<追記処長がいった「One-way ticket」は、高校時代の懐かしいアメリカン・ポップスの歌名だ。私はポール・アンカよりニール・セダカの方が好きだった。最近この歌に合わせた女性たちのダンスをyoutubeで観た。Very Good!

 

https://www.youtube.com/watch?v=_AHmP4JqE3s

 

23  伯楽と名馬(大連に留学)

■はじめに

  70歳にたっした私は、中国の大学では教師として採用される道が途絶えた。しかし中国に魅せられた私は、語学留学生として、なおも中国に留まる道をさがした。

大連はどうだろう? この都市は戦前には「満州国」に隣接する日本の租借地として栄えた。その名残だろうか現在でも日本語学習熱が高いので、私は日本語教師の就職先として中国の中では真っ先に希望したのが大連であった。しかし、大学からの求人広告がなかったので断念した経緯がある。

大連を舞台とした清岡卓行の芥川賞受賞作『アカシヤの大連』を読み、北国の詩情あふれるこの街に憧れてもいた。こうして、2014年に大連交通大学に留学した。

 

留学生の中には、カンボジアやモンゴル、カザフスタンなどからの国費留学生がいる。彼らはこの学院で1、2年中国語に習熟した後には、専門学部の本科生に転じることを目指している若者なので、優秀で学習意欲も高い。

 

下の写真中の多くは、中国周辺の各国から来た国費留学生 

国費留学の若者
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一方、私のような老人留学生は、語学学習より留学生活を楽しむことに関心がある(日本から逃げ出した遊び人?)。

そして気取りながら、大陸への夢をはせる“馬賊の歌”を嘯く。だから、上の若者たちと較べてあまり優秀ではないが…。

 

 

■囲碁クラブ 

この大学の囲碁クラブに参加した頃は、中国人もふくめて十数人が集い活況を呈していた。しかし、クラブ長の三浦さんが病気で帰国してから参加者が激減して、留学3年目にはクラブ員が私一人になってしまった。そこで、留学生仲間で、囲碁が滅法強いと噂されている韓国人の申さんに頼み込んで、ようやくクラブに参加してもらうことになった。 

 

■変人・奇人の韓国人《申さん》 

 老人留学生の中で一人だけの変わり者は、韓国人の『申さん』である。彼は留学歴が長く、私よりも中国語の能力が高いが、さほど授業に熱心であるようには見えない。時々授業をサボルし、出ても必ず15分遅刻の常習者だった。我々日本人は、授業開始時間前に着席して教師を迎えるのが礼儀だと考えているので、彼のマナーには悪評が立っている。しかし、申さんは他人の評判など意に介していないようだった。一クラスに我々日本人留学生が六、七人いるのに対して韓国人留学生は彼一人であったこと、そして不愛想で人づきあいの悪さから、孤立していた。 

彼の韓国での前歴は、学校の校長先生だったという。

――元教育者とは思えない、ちょっとヘンな人だ。

日本人留学生仲間は彼と距離を置いている。

申さんはおそらく70歳前後だろう。だが、それにしては、ふさふさとした頭髪は黒々としており、おそらく髪を染めているのだろう、と私は想像した。

 

ある日のこと、朝一番の授業が8時からはじまった。15分を過ぎ、8時半になっても彼は現れない。教師はあるヘンな予感がして、学生に彼の居室の様子を窺いにいかせた。我々は留学生宿舎に住んでおり、教室も宿舎の中にある。 

「先生、大変です」と学生が報告した。「ドアをノックしても返答がありません」

 じつは、数年前に老人の留学生が倒れて、病院で死亡する事故があったのだ。教師が心配して、宿舎の管理人を呼び出した。 

教師が申さんの部屋のカギを開けて中にはいる。 

ベッドを眺めると、見知らぬ男が寝ている。頭がてかてかの丸坊主だった。 

「あなた誰?」

男が目を覚まして、「え? どうしたんですか」と逆に問うた。よくよく見ると、紛れもなく申さんであることがわかり、「ああ、よかった」と、教師が安堵の胸をなでおろした。

禿げ頭の申さんが人前では《カツラ》をしていることがばれて、それ以来、留学生のなかで笑い話の種として語り継がれることになる。不愛想だが、ユーモアを誘う風体の彼に、私はちょっとだけ親しみを抱いた。 

 

■華(ハナ)ちゃん

囲碁クラブには、大人が私と申さんだけなのに、中国人の少年が数名、母親同伴で参加している。中国では父母が小学生の我が子にテニスのようなスポーツや囲碁のような文化活動をさせることに熱心である(中学校からは勉学一色だが)。あるときから、華ちゃんという小学一年生のあどけない少女が母親同伴で囲碁クラブにくるようになった。児童の登下校や、この種の活動に親が同伴するのは、日本では信じ難いことだが、人さらいを恐れてのことだろう。 

申さんは、私が6子置かねば勝負にならないほど強いので、私との対局にはあまり関心がないようだ。ところが、彼は華ちゃんを指導することに興味を抱きはじめた。華ちゃんは、小型の碁盤で石の並べ方のイロハを学ぶことから始まり、詰碁を学習し、最後には対局ができるまでに上達した。

 

囲碁クラブは水曜日の午後1時から開催される。ある週末に、囲碁クラブ室に電灯が点いているので、のぞいてみると、華ちゃんが申さんの個人指導をうけている。我が子の埋もれた才能を伸ばしてやろうとする母親の熱意と、それに応える申さんの教育的情熱が、室内に立ち込めていた。

申さんと少女 囲碁クラブ

 

 ■華ちゃんとの対局

  華ちゃんがクラブに来てから、1年ほど経ったころだった。たまたま国慶節休暇の直後で、申さんはまだ韓国に帰国中だった。そのとき、私ははじめて華ちゃんと対局することになった。わたしは、当然、華ちゃんに三、四子を置かせて対局しようとしたが、華ちゃんが、互先の勝負を主張した。

――この娘っ子、鼻っぱしらが強いな。

わたしは笑いながら受け入れて、彼女の先手で対局が始まった。ところが大接戦となり、華ちゃんの上達の速さに驚いた。これは母親や申さんの意欲だけではなく、華ちゃんの優れた才能によるものであることを認めなければならない(当時の私の棋力は初段手前程度だった)。

 

翌週、申さんが戻ってきた。そして、彼が見守る中で、私と華ちゃんが再度対局した。 

今度は、わたしが大勝した。申さんが講評してくれた。私と華ちゃんがまだまだ未熟であることがわかって、私には参考になった。

申さんの解説中、華ちゃんは俯いてばかりいた。そして、彼女の頬に一筋の涙が伝っているのを発見して、感動した。私には一局の勝敗はささいなことだ。しかし、華ちゃんにとっては、師事している申さん注視の下で無様な負け方をしたことが無念であり、少女ながらに自らを恥じたのではないだろうか。その心映えこそ立派ではないか! 

申さんも涙に気づき、私に微笑んだ。 

――この子こそ、私が手塩にかけて育てた愛弟子だよ。 

彼は誇らしげにそう言いたかったのだろう。

伯楽と千里の馬

――世有伯樂、然后有千里馬(世に伯楽有りて、然る後に千里の馬有り)。 

そして、人と人との間においては、 

――優れた指導者を得て、人の才能は開花する。
 つまり、教育が大切だともいえるだろう。 

中国で日本語教師だった私は、これまで申さんの行状を見ていて、こんな人物が韓国で校長先生だったのかと、大いに疑っていた。しかし、成長した華ちゃんを知ると、申さんが今も立派な教育者であることが信じられる。そんな私の好意を彼が感じ取ったのだろうか、私と申さんは親しい友人となった。 

 

■その後 

わたしが大連交通大で4年間の留学を終える半年前に、申さんは先に韓国に帰国した。それと共に、少女と母親が囲碁クラブに来なくなってしまった。私では、申さんの代理が務まりそうにないのだから当然である。 

帰国してから早や5年が過ぎた。日本でのつれづれに、中国の生活記録を懐古しながら整理している。

 中国で知り合った友人の中で、特異な人物として第一に思い出すのが『申さん』である。彼は一見だらしなく風采のあがらない変人・奇人といってもいいだろう。だが、そんな彼があるとき、教師として光輝いている現場に、わたしは立会うことができた。それは古物市で偶然発見した掘り出し物に似て、すこぶる気に入った。人間とは分からないものだと思う。 

教師には二つのタイプがあるように思う。一つは、吉田松陰のように、ほとばしる全人格で弟子を感化させる。もう一つは、大工の棟梁のように、ある一点を精緻に造りあげる技術と情熱を弟子に教え込む。おそらく、申さんは後者のタイプなのだろう。

こうして、申さんは我が中国生活に彩をそえてくれた、忘れがたい人となった。 

 彼とはその後、音信不通のままである。カカア天下の日々の中で、しょぼくれた老人になっていないことを祈るのみだ。

ああ

24 中国人との交流と中華料理

中国に約10年も暮らしているあいだ、住居地は皆大都市ばかりである。中国は近代化がすすみ経済的に発展しているが、人口比でみると依然農業国といってもいいだろう。

大連郊外のとある農村で北方地帯の特色あるレストランへ出かける機会があった

 

中国人と近郊農村の田舎料理店へ

中国に約10年も暮らしているあいだ、住居地は皆大都市ばかりである。中国は近代化がすすみ経済的に発展しているが、人口比でみると依然農業国といってもいいだろう。

大連郊外のとある農村で北方地帯の特色あるレストランへ出かける機会があった

 

中国人と近郊農村の田舎料理店へ

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大連交通大学で中国語を学んでいる「国際文化交流学院」には日本人が主催している囲碁クラブがある。私は学生時代以来、数十年間途絶えていた囲碁に興味をもち、クラブに参加した。

クラブの会長「三浦」さんは、戦前に旅順の大学を卒業して以来、今日まで日中の貿易商を営み、大連市で中国人との幅ひろい交流がある方である。その縁で囲碁クラブに隋さんや李さんが参加している。

あるとき、歓談中に隋さんが、

――大連郊外の農村に田舎料理を食わせる店があるので、一緒にいこう。

と誘ってくれ、フォルクスワーゲンを運転する李さんに同乗して、5人で出かけることになった。

 

■大連市金州地区向応鎮土門子村

 大連市を北上し、金州区をとおり北に向かうこと1時間で、「呉家小院」という農家についた。

 まずは、待合室でお茶がふるまわれた。

 

入口に大きな竈があり、鍋にはサツマイモがこんがりと焼きあがっている。家の前にも大きな鍋があり、ふかしたての包子があった。餡は野菜でとてもヘルシーだ。芋と包子を一つずつ食べた。とても美味しいので更に食べたいほどだが、楽しみの昼食が食べられなくなるので我慢する。

 

 

■農家料理

大皿に盛られた各種料理に「取り箸」はなく、自分の箸で直接取る。この中国式食事マナーは、団体旅行で見知らぬ他人と一緒に食事するときも同様である。

とりたてて変わったものがあるわけではないが、素朴な味に舌鼓を打つ。それにしても中年以上の5人には、このボリュームいっぱいの料理は食べきれない。最後にでた焼き芋と包子といっしょに残りは打包(持ち帰り用のパック詰め)にしてもらった。なお、大連など北方系の典型的な小麦文化圏の料理では米飯が出ないのが特色らしいが、料理名は女性の辻本さんが解説してくれた。

 食事中に李さんがお尻を床から浮かすヘンな仕草をしているのが不思議だった。そのうちに私のお尻がポカポカと暖かくなってきたので理由がわかった。ここは北方系の農家特有のオンドル暖房だったのだ。

中国では畳が廃れて以来、椅子に腰掛けるのが一般的だが、ここでは、オンドルの上に座ったり、布団を敷いて寝ている。5月になっている今でも、北方では朝晩冷えるのでオンドル暖房をしているが、本日の昼時には太陽が照っていて暖かいので、かえって暑いくらいだ。隣室が炊事場で竈の排熱がオンドルに伝わって各部屋を暖めている。

 

昼時には、他の多くのグループの客も食事していた。

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快い微風のなかで囲碁の熱戦

さて、我々囲碁クラブの仲間は、食後に囲碁を楽しむのが他の客と違う。隋さんなじみの老板(店主)は、我々が囲碁をはじめようとすると、さっそく椅子と机の用意、さらにテントまで張ってくれる用意周到さであった。

五月の昼下がり、日陰で微風が頬をなでる心地よい気分の中で囲碁を打つことができるなんて、何と贅沢な遊び方だろうか(碁盤と石はクラブから持参)。

 

帰田居

  夕日が西に傾きかけた頃、大連への帰り道に「帰田居」と呼ばれる古風な住居に立ち寄った。

 その名前は、漢詩に覚えがある人なら、 東晋時代の園詩人陶淵明を思い出すであろう。代表作「帰去来の辞」の最初の2句、歸去來兮 田園將蕪胡不歸

(帰りなんいざ 田園まさにあれなんとす なんぞ帰らざる)

は特に有名である。

陶淵明には、上の詩の姉妹作「帰園田居」もあるので、「帰田居」は、この詩から発想して命名したのか。

  

 じつは、このときより、56年前に陶淵明の故郷九江市郊外の「陶淵明記念館」を訪れたことがある。だが、「記念館」の周囲は殺風景で陶淵明が晩年過ごしたといわれる田園風景の面影はまったく見られなかった。

 しかし、大連郊外の緑豊かなこの地にひっそりと佇む帰田居は陶淵明がすごした地を彷彿させてくれる。

 この建物は財を成した不動産業者が建てたそうだが、たんなる金儲け主義の業者ではなくて、陶淵明に思いをよせる風流人なのだろう。現在「帰田居」は食堂兼宿泊施設に転用されており、食事用個室や寝室は中国風オールドファッションなので、日本の友人がきたら案内すれば喜ばれるだろう、と隋さんがいっている。

こうして一日、囲碁仲間と大連の農村地帯を訪ねて田舎料理を堪能できたし、隋さん、李さんのような中国人と親しく交流する機会を得たことにも満足した。そして隋さんが、日本人が興味を抱きそうなスポットを案内してくれたのがうれしい。

 

■中国人の家庭訪問

 私は、大学の教師だったので、学生など中国の若者とは日常的に交流してきたが、彼らの親の世代などの大人と交流する機会は意外に少ない。

 外国人で単身赴任者の私は、中国人の家庭やその両親を知り、そこで人間的な営みを垣間見ることができれば、と念願しているのだが・・・。

 

 それがわずかながらも、実現できた例を以下に紹介しよう。

 

●その一

昆明の大学の班長であり、地元出身の「莫」君とは特に親しくなり、家内が昆明を訪問したときには、彼の父の車で市内の案内までしてくれた。春節の大晦日(日本での12/31に相当)、集合住宅の門前で、爆竹の炸裂音で私を驚かせる演出で迎えてくれた。莫家にはいると、祖父母、父、そして、おそらく珍客(?)日本人への興味か、二人の叔母まで同席して、歓迎してくれた。

 

おじいさんは、共産軍の元軍医だったそうだから、莫家は庶民よりは、社会的地位がたかいのだろう。

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机上の晩餐の盛り皿に、取り箸がついていた。莫君か彼の父が日本のテーブルマナーを知っているのだろうか? 私はそんな行き届いた気配りがうれしかった。 

 

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●その二 

 奇岩が山頂まで林立する有名な観光地湖南省の「武陵源」を訪れたとき、同行した学生の一人「覃」君のお宅の夕食に招かれた。小柄な祖母を中心に家族と我々が取り巻くように食卓についた。「その一」と同様に、三代の家族が住む中心に祖父母がいる、長幼の序や敬老の美風が地方へ行くほど残っているのが微笑ましく思えた。

 

 

●その三

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 無錫の大学に赴任したとき、若い教師「蒋」先生がバスで12時間の彼の故郷「宜興市」の鍾乳洞に案内してくれた。

 そのついでにご家庭に案内された。彼の父は大学の教授だから、庶民よりは裕福な家庭なのだろう。背後の窓に注目されたい。このお宅は、集合住宅の23階にあったが、窓は、堅牢な格子で守られている。これは、中国では必須の盗難防止の鉄柵である。

 

■中華料理

A 水餃子

 

水餃子は中国ではポピュラーで、長安大学時代には学生が我が宿舎に来てよく作ってくれた。私が日本で好物の焼き餃子は中国では稀らしくて、聞くところによると、水餃子の残り物を翌日焼いてたべる程度らしい。

 

B 火鍋 

 

 これは四川料理から全国に広がった。街中の火鍋は安いので、多くの学生に奢ってあげても私の給料で困らない。体を温める冬の味覚として最高である。隔壁で二種類のスープを楽しめる鍋を「鴛鴦(おしどり)鍋」と優雅な名前がついている(写真下中央)。写真右の「炊鍋」は雲南省昆明で見たもの。火鍋の一種であるが、かつて電力が無かった時代に、煙突の中に炭火を熾らせて炊いた名残らしい。

上の図をクリックすると拡大します              
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C 雲南省料理の「米線」と「タイ族の庶民料理」

米線は熱々のスープに具と米麺をいれる雲南特有の食品である。過橋米線は直訳的英語で「Cross Bridge Rice Noodles」と書く。その麗しい由来はインターネットでご覧あれ。

 

 タイ族料理は、中国の最南端雲南省の更に最南端の「西双版納傣族(シーサンパンナタイ族)自治区」に旅行していたときに、庶民のレストランで食べた。料理は素朴な味でよかったが、タイ族の民族の名前が、漢字で「傣族」と書く点にも興味をひいた。傣族は、タイ国に住む泰(タイ)族と民族的に近いそうだが、中国政府は両者の名称を区別している。

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D『客家』家庭料理

客家はもともと中原に住んでいた漢民族の一部が戦乱や異民族の支配から逃れて、南方に移住してきた人々である。そこでは、先住者から“よそ者(招かれざる客)”として『客家(はっか)』と呼ばれ、相互の軋轢が発生した。そこで、外敵から身を守るために、厳重に防御されている土楼を建てたり(福建土楼が有名)して、独立心旺盛な自立生活をしている。

わたしが、江西師範大学で教鞭をとっていたとき、江西省南部の山岳地帯とその隣接地方出身の教え子のなかに客家が何人もいた。21「仏教寺院巡礼の旅」で同伴してくれた黄さんも客家の子孫であることはすでに触れた。

 

作文授業で或る学生が、「客家の我が家では独特の郷土料理を作っています」と書いていた。客家は居住や農業に悪条件の山間部やその周辺にしか定住できなかったので、その過酷な環境に順応した食文化が育まれたようだ。

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豆腐:豆腐に割れ目を入れて肉の餡を挿入して煮る(or焼く)。

辣椒:唐辛子にスパイスのきいた魚や肉を詰めて焼く。niang=釀)

作文の添削で「食べてみたい」と感想をそえると、お母さんが作った料理をわざわざ我が宿舎へ運んでくれた。上の写真の二つが典型的な客家料理で、やや塩分の濃い味がした。こうして、特異な漢民族集団「客家」に食品を通じてふれることができたのは貴重な体験である。

なお、客家は海外(華僑)も含めた総人口が1億2千万人というから、日本の人口に匹敵する大勢力である。歴史上、思想家、革命家、政治家など有能な人材を輩出している。

 

朱熹(朱子学の開祖)、文天祥(南宋末愛国者)、洪秀全 (太平天国の乱)、孫文(辛亥革命指導者)、鄧小平(改革開放の政治家)、李登輝、蔡英文(共に台湾総統)、リー・クァンユー(李光耀、シンガポール初代首相)など。

 

E 小籠包

日本語教師として家内と中国にはじめてきたとき、上海の名所「豫園(よえん)」へ行き、「南翔饅頭店」で小籠包を食べた。湯気が立ち昇る深みのある白いモノを一口食べたとたん、家内が感動の声を発した。

「まあ、おいしい!」

  私もうなずいた。

だが、箸の扱い方がぞんざいなのか皮が破れてスープがこぼれでたり、熱くて舌が火傷しそうだった。隣のテーブルの客が箸とレンゲで口へと運んでいる。それがこの繊細なモノの食べ方らしい。

最初に赴任した西安市では、湯包(タンバオ)と呼ばれている。一つ5元の蒸篭を二つと、5元の瓶ビールを注文すると、合計15(ほぼ20年まえの元円レートで200)で、絶品の夕食を腹いっぱい堪能できた。

こうして小籠包を食べているうちに、私はこの佳き食品のいっぱしの《通》になった気分でいる。美少女の柔肌に触れるように優しく箸で摘まみ上げ、小皿のタレに浸けてから口にふくむ。熱くても舌で転がしながら、空気を吸いこめば、頃合いの温度になって火傷をすることもない。レンゲを使うなど野暮天のやることだ! 台湾系の店では千切りの生姜が添えてあり、ちょっとピリッとした乙な味も悪くない。牛肉や羊肉と較べて、野菜入りもヘルシーでいい。

 

西安に二年間住んだあと、私は無錫の大学に赴任した。この地の小籠包の店に着任早々出向き試食した。とても甘くて、お菓子(点心・甜食)を食べているようで、夕食にはならないと失望した。

その五年後に今度は上海の大学に赴任した。

市内のチェーン店では豫園とさほど劣らない味で、安い小籠包を食べることができるし、無錫ほどには甘くないので満足した。

こうして上海の小籠包の味に舌が慣れた一年後に、懐かしい西安に旅行した。回族が多く住む「北院門街」で久しぶりに小籠包を食べたら、塩分の濃い味がした。

 

北国西安の塩味と南国江南地方の甘味との地域差は、中国の気候風土の違い、ひいては文化の多様性を物語っているのだろう。だが、それぞれに特色ある味で結構だ。絶品小籠包こそ中国料理の中の王様、いや皇帝である。

 

F 羊肉串

 羊肉串を紹介する前に、家庭訪問「その三」で窓に鉄格子がはめられていた話題のつづきから始めたい。

 江西師範大学では、十数階のマンションの十階に教師用宿舎があてがわれていた。これほどの高い位置にある窓には防犯用鉄格子は無く、私は窓外の山々の眺望を楽しんだ。

しかし、あるとき泥棒ではなく、ネズミが二匹宿舎に出没したのにはびっくり仰天だ!

――壁や雨樋を伝ってこんな高いところまで登ってくる?

 

さっそく学生にネズミ捕り籠を買ってきてもらい、首尾よくとらえることができた。不要になった籠を捨てようとしたら、ある学生が「私にください」という。

 

「故郷のおじいちゃんが、ネズミを捕って食べるのです」

大都会の薄汚れたドブネズミなら不衛生だが、山野に棲み草花や穀類を食べている健康な野ネズミなら、中国農村の老人が好む風習は納得できる。小籠包でも、野菜入りは健康によいではないか。

 

 あるとき授業で「日中の食肉文化の差」を紹介した。

――統計によれば、中国の猪肉(豚肉のこと)に対して、日本では鶏肉の消費量が一番多い。私は、サラリーマン時代には、“焼き鳥”が大好きだったが、中国に来てからは、代わりに“羊肉串”をよく食べています。

 

授業の後で一人の学生がこっそりこんな話をした。

「先生、路上の屋台で売っている羊肉串には、ヘンな肉が混じっているかもれませんよ。ちゃんとしたレストランで食べてくださいね」

 

ついでながら、私が教師宿舎で学生に振舞った日本食品は左のようなものであった。(大連市だけは、食材すべて現地調達できた)

25 中国の東北部(旧満州)と我が故郷との縁

中国に滞在12年間、週末や長期休暇中に訪れた観光地は50ヵ所を超えた。その多くは「地球の歩き方」ガイドブック(ダイヤモンド社)の中国編数十冊に記述されているのと、ほぼ同じなので、本リポートには扱わなかった。

  

ここでは例外的に、大連へ留学中に訪れた二つの観光地について紹介したい。そこで我が故郷網走を思い出させてくれる不思議なご縁があったからである。

中国に滞在12年間、週末や長期休暇中に訪れた観光地は50ヵ所を超えた。その多くは「地球の歩き方」ガイドブック(ダイヤモンド社)の中国編数十冊に記述されているのと、ほぼ同じなので、本リポートには扱わなかった。

  

ここでは例外的に、大連へ留学中に訪れた二つの観光地について紹介したい。そこで我が故郷網走を思い出させてくれる不思議なご縁があったからである。

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上図に本章の話題を総括的にまとめた。

 

■その1 秋に真っ赤に色づく岸辺の絶景

海岸の湿地帯に自生する野草が、秋になると真っ赤に染まる不思議な光景が広がっている。

 そこは新幹線に乗ると、大連から約2時間で到着する盤錦市の「遼河」河口に広がる「紅海灘風景区(RedBeach)」である。中国の大自然の奇観といえば、「桂林漓江」のカルスト地形や「九寨溝・黄龍」の湖・池塘が日本でもよく知られている。しかし、RedBeachはあまり知られていない穴場だといえるだろう。そこを、北国の冷たい秋風が吹く201510月に訪れた

 

海灘(RedBeach

 RedBeachを紅色に染める野草「マツナ」とは、海岸の砂地に生えるアカザ科の一年草である。夏には緑色だったマツナは910月にはこの地の土壌に含まれる塩類・アルカリ成分により、まるで燃える炎のように真っ赤に色づく。マツナは中国・日本の各地に植生しているが、特定の季節に赤変するのは稀であるといわれている。 

 

   インターネットには、RedBeachには赤のカーペットが見渡す限り敷き詰められており、観光客は遊歩道をあるきながら、空の色彩と見事なコントラストを楽しむことのできる別天地であると紹介されている。

私は学友三輪さん、ガイド役として同行してくれた遼寧師範大英語科の薛さんと3人で、日帰りの旅行をした。実際に見たマツナは紫がかった深みのある赤で、広大な海浜が敷き詰められていた。 

 
◆我が生まれ故郷にもRedBeachがあった!

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マツナは、中国や日本にも広く分布している水辺の野草だが、紅海灘では土質の特殊事情で秋に真赤に色づく。だが、同様の条件のそなわっている土地なら他にもあるのではないか?

インターネトで検索したところ、驚くなかれ、我が生まれ故郷の網走市郊外の「能取湖」にもあった(写真上右)。

この野草はマツナと同じアガサ科に属していながら植物名が「サンゴ草」(正式名「アッケシ草」)という異種である。能取湖は汽水湖(海と一部つながり塩分が含まれる湖)なので、紅海灘と土壌の条件が類似しているのであろう。サンゴ草はそのような湖岸の湿地帯に繁茂している。

能取湖は私が少年時代に何度も行ったところなのに、そんな不思議な野草があることは知らなかった。おそらく670前の貧しい網走の人々は、日々の生活に追われていて、秋に赤変する草を愛でる余裕がなかったのだろう。

第3章「五寸釘の寅吉伝説」でも書いたように、 戦後一定の期間をへて日本人の暮しぶりが豊かになり、旅行ブームの中で真っ赤に色づくサンゴ草の能取湖が観光地としてクローズアップされたのではないか。

少年時代に見逃していた「サンゴ草の群生地」は、紅海灘に比肩しうる奇観として一見の価値が十分あるだろう。

 

■その2 遥かなる北満州の国境の町「黒河市」

大連交通大学に留学中に、遼寧師範大日本語科一年生の学生二人と中国語と日本語を教え合う勉強会をしている。その一人、陳さんは「ジァグダチ(jiagedaqi)」というエキゾチックな発音の町の出身である。加各達奇」と書くが、異民族の発音を漢字であてはめたようにも思える。ジンギスハーンを成吉思汗と書くように。

彼女がいった。

「先日、故郷では二日間雪が降つづきました」

大連も中国のなかでは北方に位置しているが、今は四月中旬で、まもなく「アカシヤ」の花が咲く春爛漫の季節を迎えようとしている。それなのに雪が降っているのだから、彼女の故郷は北満州のかなり奥地にあるのだろう。

 中国でこれまで訪問した観光地のなかで、雲南省の亜熱帯「西双版納」(シーサンパンナ)が最南端の国境地帯だった。その向こうはミヤンマーやラオスだが、その間に険しい山岳地帯が横たわっているので、外国は見えなかった。

陳さんと話しているうちに、今度は中国の最北端、ロシアとの国境をわけている黒龍江(ロシア名:アムール川)に行ってみたいと思うようになった。そこで浮かび上がったのが、陳さんの故郷「ジァグダチ」とほぼ同緯度に位置している「黒河市」である

 

■満州の彼方

日本語教師8年、語学留学生4年、計12年の中国生活の最後を締めくくる旅は、2018715日からはじまった。同行してくれる陳さんともう一人の学生(彼女の恋人らしい)が遙かなる北満州の彼方へと誘ってくれる。これからの旅がロマンあふれるものとなりそうである。 

  

 

午後3時にハルビン行き列車が大連駅を出発した。三段式の寝台列車は日本の同系統の寝台列車とあまり変わらない。日本のJRと異なるのは、車費(chefei運賃)が、身長によって決まることだ。だからデッキの壁に1.21.5メートルの線が引いてあり、上の少年の場合、大人の運賃の半額となる。

 

早朝の3時半にハルビン駅についた。ハルビン市内で半日を過ごし、黒河行き寝台列車が2043分にハルビン駅を発つ。

ガタンという軽い振動音で目を覚ました。とある駅に止ったようだ。時計の針はまだ早朝4時前を指しているのに空はすでに明るく、北国へ来たとの実感がした。デッキでタバコを喫ながら眺める窓外の大地は荒涼として、所々に池塘があり、やがてトウモロコシ畑がえんえんと続いている。と、水田のような植生が見えた。長江原産の米は、品種改良によって寒冷地でも耕作が可能になったのだろう。黒河一帯は世界中で稲作可能な北限地であるそうだ。

黒河まであと一時間となったころ、列車は「孫呉」という小さな駅に停まった。この地名には記憶がある。

戦前、孫呉(注)には満蒙開拓民の保護と北(ソ連軍)への守りの為に、日本軍の駐屯地があったそうだ。しかし、終戦時には、黒龍江を渡河して黒河へ押し寄せてきたソ連軍に圧倒されて無力だったようだ。悲惨だったのは関東軍から見放された開拓民たちだ。

(注)森村誠一著「悪魔の飽食」によれば、孫呉は通常の軍事施設だけでなく、731部隊(中央実験施設:ハルビン郊外の平房)の支部としての機能も有しているようだ。

 

黒河到着

7時半ようやく黒河駅に到着した。ロシア人観光客の一団が目についた。黒河はロシアとの国境の街だけあって、市内でもロシア人がよく見受けられた。この日、黒龍江を見物し、遊覧船にも乗った。夏の盛りゆえ、黒龍江は穏やかな貌をみせて滔々と流れている。対岸はロシアのプロペシチェンスク市である。冬には川面は凍結し荒涼たる姿に激変するのだろう。

 

■少数民族オロチョン

 市内を散策していると公民館があった。展示物に以下のような記述がある。

  ――黒河市周辺には、漢族の他に、満州族、モンゴル族、朝鮮族、オロチョン族、ダウール族など多彩な少数民族が約三十族、居住している。 

 

オロチョン(鄂春)族の名前に目がとまった。

オロチョン族は元来ロシアや中国東北部に居住するツングース系の民族(森林地帯の狩猟民族)を指す。左図は中国の郵便切手に使われている図案である。

 

生まれ故郷網走の「オロチョンの火祭」を思い出したのだ。ということは、黒龍江流域に住むオロチョン族の一部が樺太を経由して、オホーツク海沿岸の網走まで遥々やってきて、定住したということになるのか? 網走にはアイヌ人とは異なる北方民族がかつて住んでいた「モヨロ貝塚」という遺跡ある。オロチョン族と網走のつながりが浮かびあがってきた。

 

■「モヨロ貝塚」の発見

~~北方狩猟民族の移動とオホーツク文化人~~

 「モヨロ貝塚」は米村喜男衛さんという(アマチュア)郷土考古学者が、網走川河口左岸で、人骨や遺構を発見・発掘したことで知られている。その事情は司馬遼太郎の「街道を行く」オホーツク街道編でも紹介されている。

 貝塚で発見した土器から縄文文化ともアイヌ文化とも異なる文化の存在を知った米村さんは、理髪店を経営する傍ら遺跡の調査と研究に携わった。

 少年の私は、散髪屋の米村さんとして、おぼろげながら知っている程度である。学者ぶらない気さくな方であったろうが、「モヨロ貝塚」の発掘研究者として偉大なる人物が網走にいるとは、当時思いもしなかった(司馬遼太郎は彼を“網走のシュリーマン”と呼んでいる)。

 

 1933年(昭和8年)に、オホーツク沿岸文化が、同時代の北海道の文化と別個のものと学会で認知されている。今日「オホーツク文化」は、 3世紀 から 13世紀 までオホーツク海沿岸を中心とする北海道の北海岸、樺太 、南千島の沿海部に栄えた「海洋漁猟民族」すなわち「オホーツク人」による文化とされている。

<オロチョンの火祭>

こうして、米村喜男衛さんの「モヨロ貝塚」の大発見が、網走市民にも広く認識されるようになった。1950年(私が小学一年生のとき)に、樺太から引揚げてきたウィルタ(オロッコ)族やニブフ(ギリヤーク)族の協力を得て、北方少数民族の衣装に身を包み、先住民族の慰霊と豊穣を祈願して行われる儀式「オロチョンの火祭」が正式な市の夏祭となった。

しかし「オロチョン」という言葉は北方諸民族の漠然とした総称として用いられたにすぎず、じじつ、オロチョン族に火祭という習俗はないそうだ(ウィキペディアより)。だから「オロチョン」というエキゾチックなイメージが「火祭」と結びついて網走の夏の風物詩として定着したようだ。

以上の次第により、「オロチョンの火祭」がオロチョン族の網走への渡来を直接証明しているわけではない。しかし、「海洋漁猟民族」(オホーツク人)の存在が学術的に認知されているのでオロチョン族と特定できないものの、黒龍江流域を起源とする北方諸民族と我が故郷網走とは、北東アジアの壮大な歴史ロマンで結ばれていることが確信できて、私は大満足であった。網走は「刑務所」だけが“ウリ”ではないのだ! 

 

なお、本旅行の同伴者「陳」さんは、「黒河市」より北西寄りで、<大興安嶺山脈>の麓にある「加格達奇(ジャグダチ)」の出身である。そこは、中華人民共和国民政部の行政区画でいえば、内モンゴル自治区フルンボイル市“オロチョン”自治体(旗)の一部である。加格達奇とはオロチョン語(「松のある場所」を意味する)に由来しており、古くはこの地区一帯に原生林が広がりオロチョン族がシカ、オオカミ、イノシシ、クマなど追って狩猟していたという。現在“オロチョン”自治体には、オロチョン族が2,000人余りいるが、漢族が多数を占めており、他にエヴェンキ族、ダウール族、モンゴル族など21の少数民族が居住している(ウィキペディアより)。

 「陳」さんは、その名がしめすとおり漢族である(注)。かつて、歴代の漢族王朝は、「万里の長城」以北の民族を中華文明の及ばぬ北狄と呼んでいた。しかし現代、それらの地に漢族がどんどん進出して、少数民族の生活圏を狭めているようである。

(注)これまでの自分史に何人もの『陳』さんが登場する。それほど『陳』という名は漢民族に多い。

 

オホーツク海の流氷生成のメカニズム

 ロシアとの国境の町「黒河」で、「黒龍江」の少数民族と網走のオホーツク海洋狩猟民族との関係に思いを馳せているうちに、「黒江」と網走を結びつけるもう一つの可能性に気づいた。

――厳冬の12月になぜ流氷が網走市沿岸に押し寄せるのか?

 

である。俗説では、黒江で発生した氷が遠路はるばる網走まで流れ漂ってくるというものだ。長江、黄河に次いで三番目に長大な「黒江」とはいえ、網走などオホーツク沿岸の沖合までびっしりと敷き詰めるほどの多量の流氷が一本の川の氷だけでできるのか?

インターネットで調べた結果、それは、オホーツク海の結氷メカニズムによるものであることがわかった。

以下の三点が重要である。

【黒江】流出した真水がオホーツク海の塩分濃度を下げる。私がまとめた下図によると、日本の最長河川「信濃川」と比較すると、流れ出る河水は信濃川の23倍と膨大な量である。

【地理】オホーツク海は北西側が大陸、南東側がカムチャッカ半島と千島列島に遮られた独立した水域(いわば溜池)で、海水は北太平洋の海水と混合せずに低塩分濃度が維持されている。

【気象】冬季にシベリアからの大寒気(-40℃)が猛威をふるい、海水の表層を冷却して氷を生成させる。

(以上、北見工業大学 舘山一孝准教授の論文より、ただし、彼の論文のURLを見失った)

 

こうして、世界の海の中でも稀な現象である海水の結氷により、1月中旬から2月に網走市などオホーツク沿岸に流氷が押し寄せるのだ。

上の図をクリックすると拡大します              
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旅程5日目に、我々三人は黒河発ハルビン行き寝台列車に乗った。翌朝、ハルビン駅のプラットホームで陳さんに旅行中のお世話を謝し、故郷へと向かう二人と別れ、私は大連行き列車に乗った。

 

7日目の昼頃大連駅に帰着し旅行を終えた。旅行中ときどき小雨がぱらついたが、夏の旅ゆえ、かえって涼しくてよかった。 

大連はよく晴れており、ムッとする湿気を感じた。ハルビンや黒河より南にあるからだろう。

 

振り返って大連駅舎を見た。この駅からなんど旅立ったことだろう。数えてみると、長白山、瀋陽、秦皇島(山海関)、紅海灘(Red Beach)、そして今回の黒河と、五度この駅で乗り降りしたことになる。この旅を最後に中国生活を終えるので、大連駅はこれが見納めになる。 
 さらば、アカシヤの大連!

 

【追記】

~~中国の気候と人口の関係~~

 1935年に中国人の地理学者が興味深い論文を発表した。中国大陸に北は「黒河」から南は雲南省の「騰衝」に線を引くと、その線で分けられた東西で人口(94%vs6%)が極めて偏っているという。

東側:湿潤気候で農業が発達し、人口が稠密になっており、産業や経済も盛んになっている。

西側:ヒマラヤ山脈がインド洋から送られる湿った大気を遮るため、その北側は雨が少なくて砂漠など乾燥した土地になって人が住むには厳しい気象で、農業も振るわない。

 この極端な差は100年後の現在でも変わっていない。

以上は下のURLから引用した。

https://www.youtube.com/shorts/0GD31grfnpA

 

 なお、私は中国滞在12年間、青色の線の東側の都市に住み旅行も線のわずかに西側にしか行かなかった。

 

 甘粛省の敦煌やチベット自治区の古都ラサなどへ行かなかったので、西側の気候を体験できなかったのが残念である。

 私は雲南省では昆明に赴任し、シーサンパンナや麗江古城へ旅行したことがあるが、騰衝(簡体字:冲)市の存在を今回はじめて知った。

 

騰衝は、かつて「騰越」と呼ばれていて、第二次世界大戦末期に<騰越の戦>と呼ばれる激戦地であった。援蒋(蒋介石の中華民国軍に武器弾薬を送る)ルートを断つために日本陸軍がアメリカ・民国軍と激戦し、最後に玉砕したという。

26 中国人のマナー

中国人マナー集
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A  物を放る

 西安の繁華街のとある音楽ショップでCDを見つけ、カウンターへ行って金を払ったときのことだった。女店員はCDを袋に入れてから、2メートル離れている私に向けて放り投げた。

 私はカッとなって、「客に向かって何という態度だ!」と、怒鳴りかけたがやめた。日本語が通じる相手ではなかったからだ。その後、中国の各地に住むにしたがって、中国人は何のためらいもなく、物を放る性癖のあることが分かってきた。

 中国人が物を放り投げるのは、単に習慣なのであって、悪気がさほどあるわけではない。町中でタバコを買うと、店主は釣り銭をポイと放り出す。慣れたから腹も立たない。

 中国に業務進出した日本の宅急便の会社が、中国人の配達人に「送り主の真心を相手にお伝えするのが、配達人の心得だ」と教えても、納得されないらしい。間違いなく先方に届けたらそれで十分だ、と中国人は考えているのだろう。それももっともな理屈ではある。

  

物を放るのはダメ

  物を放り投げる行動を、私は一度だけ学生に厳しく注意したことがある。黒板に答えを書き終えた男子学生が、チョークを私にポイと放り返した。私は、敢えてクラス全員に聞こえるよう声を高めて、学生をたしなめた。

「日本人は物を放るような行為をとても無礼だと嫌う。君は将来日本人と付き合う仕事をするだろう。そんなことを絶対してはいけないよ!」

 

B 地下鉄の乗車はアメフトのよう

西安駅前でバスに乗るために停留所で待った。私は乗車を待つ列の三、四番目に並んでいたが、やって来たバスの乗車口が数メートル先にずれると、そこに群衆が群がり、結局並んで待っていた私はバスに乗れなかった。中国人は並んで待つという習慣がないらしい。

上海の大学に赴任したときのことだ。この大都市は中国の中ではヨーロッパ文明の洗礼をうけ、現在、世界の中でも最も地下鉄網の発達した近代都市となった。しかし、地下鉄の乗客のマナーはとても褒められたものではない。あるアメリカの学者は、乗降時の押し合いへし合いの惨状を、「アメリカン・フットボールの激突のようである」といった。

 一方、日本では、たとえば京都の駅前で市バスを待つ乗客は10メートルもの列をつくって、整然と並んで待っている。政府や公的機関の命令や指導でそうなったのではなく、自然発生的にこのような秩序が形成されたのだと思う。

 

女性の立て膝

女性の立て膝

 大連で農産物市場へ野菜を買いに行った。昼時に中年のオバサン売り子が品物台に片足をかけて『立て膝』をしながら食事しているのをみかけた。私は、この女性が朝鮮族かもしれないと想像した。大連など旧満州地域には朝鮮系中国人がたくさん住んでいる。
 女性が人前で(特に食事をしながら)立て膝をするのは、日本ではとても不躾な行為だとされているが、朝鮮では礼儀にかなっているようだ(韓国の歴史ドラマで右図のような光景をよく見かける、と家内がいっている)。私も朝鮮人の習性を知っているので、市場でのあの女性の振る舞いには強い嫌悪感が無かった。

 ただし、客相手の商いをしているのだから、商品台に片足をかける行為は商倫理的にいかがなものか、とは思った。

 

本を尻に敷く

 本を尻に敷く

 教室を出て、キャンパス内の芝生上で授業をおこなったときのことだった。ある女学生がシーツのかわりに、教科書を尻にしいた。私は嫌な気分になったが、咎めはしなかった。 

 衣料品を商っている小店主の我が父は、明治生まれで尋常小学校出の庶民だった。家の中には文学小説などの書籍は一冊もなかった。にもかかわらず、父は『文字』に対して畏敬の念をいだいているらしく、たとえば畳においてある新聞紙を踏んだり跨ぐことを許さなかった。だから私は、本を尻に敷くことはいうまでもなく、学校で机に腰掛けることもいけないことだと思っていたのだ。

 いま私の目の前で、『教科書』を尻にしいている学生を見ると、偉大な『書の国』中国の父母は子にどのような躾をしているのだろうか、と思わずにいられなかった。

 

ニーハオ・トイレと温泉
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E ニーハオ・トイ

中国のトイレは汚い上に、ドアがない、隔壁がないこともある。ある日本人が、そのような便所を『ニーハオ・トイレ』と名付けたそうだ。うまい命名だと思う。

中国へ赴任した最初の学校『長安大学』で、いきなりドアがとれたトイレに遭遇して驚いた。一年間は日本語科教務員室のあるビル(そこにはドア付きトイレがある)へ行って排便した。

羞恥心で拒否反応があったニーハオ・トイレではあるが、田舎へ観光旅行すると否応なしに使わざるを得ないのだ。通路を挟んで向かい側の地元民と睨めっこしながら、私はお尻をまくって排便した。こうして、一年も中国で暮らしているうちにトイレにこだわりがなくなった。『郷に入っては郷に従え』である。

中国で最も美しい村と呼ばれている江西省の片田舎『婺源ぶげん)のニーハオ・トイレ(男性用)が、とても清潔だったので、記念に撮っておいた。ここなら、となりの便友(?)と並んで「清潔でいいね!」と言い合いながら快く排便できるだろう。

 

あるテニス友達の奥さん(Aさん)が中国旅行中のエピソードを語ってくれた。

ガイドつき団体旅行なので、旅行社があらかじめ旅程を組み、観光バスが立ち寄る土産物屋や完備したトイレのある休憩所をセットしてくれているので、大名行列のような快適な旅ができるはずであった。

しかし、生理現象だけは予定通りにはならない。バスに同乗の友だちが急に尿意をもようして、ガイド嬢が止めるのを聞かずにニーハオ・トイレに駆け込むことになった。Aさんは、友が排尿している姿を隠すように、便器の前に立ち塞がった。あのときは人生最悪の恥ずかしい場面だった、とAさんは旅を回顧している。

私は、笑って聞いていたが、こんな些細なことで中国嫌いにならないことを願うばかりである。

 

ただし、中国では二度のオリンピックや万博を契機に汚くてドアのないニーハオ・トイレは、都市部を中心に減っているのだろう。

 

F 温泉・風呂事情

温泉・風呂事情
私の赴任した中国各地の住居でもシャワーが普通だった

 私の赴任した中国各地の住居でもシャワーが普通だった。ある日本人が日本にきた中国の友人を歓待するつもりで温泉に案内した。しかし、中国人はそわそわと落ち着きがなく、まもなく風呂から出て行ってしまったという。中国の家庭で風呂とはシャワーを浴びるのが一般的なので、幼児は別にして一糸まとわぬ裸体を他人に晒す機会がないそうだ。

こうして、中国人は、排便行為を他人に見られても平気だが、風呂で裸体をさらすのは恥ずかしい。一方、日本人は、排便行為は閉鎖空間を必須とするが、風呂で裸体をさらすのは平気である。これは日中の“羞恥心”にかかわる、生活習慣(文化)の差といえるだろう。 

 

ただし、中国には脱衣所で水着に着替えてから、湯舟では男女が交流できる温泉(値段はかなり高い)があり、私は数度(宜春・廬山・昆明)いったことがある。湯舟のまわりで、バーベキューなど食事をすることもできて私はとても気に入った。また、大連や旅順では日本がかつて支配していた名残だろうか、日本式温泉や銭湯もあった。

江西省南部にある『宜春温泉』は、海から離れた内陸部にあるのに温泉客用の水着の店がある。温泉には各種湯舟のそろった立派な施設であり、日本の温泉を思い出させる風情があった。

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G NHKクローズアップ現代の報道 

2015421() 

“行方不明児20万人”の衝撃 ~中国 多発する誘拐~ 

 

  今、中国で子どもの誘拐が大きな社会問題になっている。行方不明になる子どもは年間20万人といわれ、犯罪組織に誘拐され、農村部に労働の担い手や後継ぎとして売られるケースが多いとみられる。農村部では老後の社会保障がぜい弱で、老後の支え手として子どもを買うのだという。経済発展から取り残された貧しい農村が生み出す子どもの誘拐(以下省略)。 

 

 一方、日本では9歳以下の子どもの行方不明が年間1,000人程度である(警察庁の統計)。 

 日中の人口比1対10を勘案しても、子どもの行方不明者が日本の千人と比較して中国の20万人が異常に高いことがわかる。  

 日本語教師の私は、中国に赴任した各都市を散歩していたとき、小学校の校門前に大人が多数集まっている光景を何度も見たことがある。夕方34時頃に授業がおわって帰る子どもを、父兄が出迎えるためである。 

 下の絵図を見てみよう。

学童送迎の日中差
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インターネットから引用した上海市のとある小学校前の光景である。父母が共稼ぎのためか、出迎えるのは祖父母が多い。 

 じつは、中国では子どもが『人さらい』に連れていかれる不安を親が抱いており、幼稚園や小学校の子どもが朝夕に登下校する時には、親の送迎が普通になっている。家が近ければ一緒に歩く、遠ければ自転車やバイクにのせて帰るのだ。豊かな家庭の子女がかよう小学校では、校門前の通りに自家用車が数珠つなぎになって子供をまっている光景を見たこともある。 

 あるとき授業で、私の孫が国有鉄道(JR)と市バスを乗り継いで、小学校に通学していることを話すと、学生が「中国では絶対あり得ない!」と驚いていた。  

 

 中国共産党政府への批判は多々ある。政府は人民の支配(反政府活動の取締まり)に多大の予算をつかっているらしいが、人民の幸福(子供と家庭を守る)を最優先の課題とすべきだと思うのだが・・・  

27 学生に教えられたダメ教師

上の図をクリックすると拡大します              
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日本語の論文やリポートを書くことを業務の一部とし、小説など散文を読み書きすることを趣味としていたネイティブ日本人の私は、日本語を外国人に指導できると考えて中国に渡ってきた。

しかし、大学などで教育学といった教師としての基本理念を学んだことの一切なかったのが、我が欠点かもしれない。教師とは、知識を伝える技術の巧みさに加えて、それ以上の何かを求められているのかもしれないからだ。

あるとき、教えるべき立場の教師が、学生から教えられた。我が人生二毛作目のそんな貴重な体験を綴りたい。

 

西安、無錫を経て、教師歴5、6年目となり、日本語を教える技術に自信がついてきた、江西師範大学でのことである。

■学生からの抗議メール

――先生は、私の点数をわざと悪くつけている。ヒドイ!

呉紅霞という3年の女学生がEメールで、採点した『中間テスト』の結果に不満を述べてきた。

私には身に覚えのないことだった。

――そのようなことは絶対ありません。今後、私を疑うようなメールを出さないでください。

たしなめるメールを返信すると、呉は引き下がる様子がなくこう反論した。

――前学期の試験でも私にわざと悪い成績をつけていた。

西安市の大学で日本語教師を始めて以来、これまで延べ数百人の学生を教えてきたが、テストの採点にこんな不満をいってくる学生ははじめてのことである。

 

――学生の答案にはいつも公平な評価をしているつもりです。これ以上私を疑うようなメールをだしたら、教務主任に伝えてあなたを懲罰処分にしてもらいますよ。

依怙贔屓を疑う

ちょっと脅してやったら呉はうわべでは「申し訳ありません」と詫びながらも、

――でも、先生は一部の学生を依怙贔屓しています。先生が朱茜さんを好きなことはだれでも知っています。

学生の姓名まで書いて私を批判しているのにはまいった。

呉は江西省の田舎町の出身で、かなり頑張り屋で成績は優秀だが、ちょっと情緒不安定で、クラス仲間とはうまくいってないようだ。

彼女は二年生のときに、相談したいことがあると、独りで私の宿舎に押しかけて来たことがある。だが、差し迫った相談事があるわけでなく、身の上話をした。呉は小さい頃に母と死別して祖父母に育てられたこと、広東省に出稼ぎにいっている父とは年に一度だけ故郷で会うが、あまりしっくりといっていないことなどを話した。

教師用宿舎は、大学のキャンパスにある高層マンションの十階にあった。長話の間、遠くの山々をぼんやりと眺めていると、急に「先生、いま何を考えているのですか?」

と、呉が探るような目で訊いてくるので、返答に困ったことを記憶している。ちょっと変わった学生だ。

ある時には、彼女はとりとめの無いメール文の最後に、こう書いてきた。

 ――中国の老人はすぐに老けて元気を無くしてしまうのに、先生はとても元気があって素晴らしいです! 

 私は呉の意図が理解できないので無視した。すると食堂で出会ったときに「なぜ返事をくれないのですか?」と彼女は詰問する。私が若かったら、ちょっかいを出してくる女学生がいるかもしれないが、こんな老人の私にどうしようというのだろうか。全く煩わしいことだ!


 三年生の後期授業で、私は『日本概論』を講義しているが、会話授業と違って、教師が一方的に話すだけだから、呉と話をする機会が無かった。そして今、テスト結果で彼女は私の採点に不満を抱き、抗議しているのだ。

自室にまだ採点済みのテスト答案用紙が残っているので、それを見せて納得させ、一件落着にしようとも考えた。しかし、学生の姓名まであげて「依怙贔屓していることは誰でも知っている」とまで言われては、黙ってはいられない。

食堂で徐班長に会って、事情を説明した。

「そんなことを先生に言ってくるなんて非常識な人だわ」徐はさもあらんと納得した表情を浮かべている。「呉さんは奨学金めあてなのです」

「なるほど、そのためには学業成績が良くないといけないので、テストの点数が重要なわけだ。でも彼女に悪い点数をつけたわけじゃないんだが」

「あのひとは、命より奨学金が大切だと思っているんです」

そう話す徐の言葉の端々には呉に対する悪意が上乗せされているように、感じられた。

「徐班長にとって、呉さんは何かやりにくいところがあるのかな?」

「そうです。あんな勝手な人は知りません。この前、芸才大会でソーラン節の踊りをやろうとクラス会で決めました。ハッピを買うために、一人10元ずつ出すことになったのですが、呉さんだけ『私は参加しないし、お金は出せない』というのです。非協力的な人だわ」

「でも彼女の家庭は生活が苦しいらしいが」

「とんでもない!」徐がきっぱりといった。「奨学金でパソコンを買ったし、電子辞書もある。それに棚には本がいっぱい置いてありますよ。わたしよりよっぽど金持ちです」

 私は、呉が批判していた幾つかを話して、それをクラス仲間に確かめてくれるように頼んだ。

「でも徐さん、聴き取りは穏やかに、あくまでも冷静で客観的にやってね」 

「まかせとき!」と、いって徐が帰っていった。

 宿舎に帰ってからも呉のことを考えていた。

 中国の大学は全寮制で、学生は毎日キャンパス内で生活している。3年生は男子学生3人を除いて44人が女学生である。彼女たちは4人ずつ11部屋に分宿して暮らしている。お互いに濃密な関係をつくって、仲間意識が強い反面、女性特有の人間的軋轢が発生することもあるだろう。呉と徐班長との関係も微妙であるようだ。

 呉がいっている「先生は女学生に対して依怙贔屓している」で、私は西安市の大学に赴任したときのことを思い出した。

教師生活一年がすぎようとしている6月頃に、元会社の友人6人が中国観光で西安を訪問したことがある。学生との交歓食事会を計画していたが、学生全員を出席させることは物理的に困難だった。そのとき小田原工場の元部長が私にこうアドバイスをしてくれた。

  

――食事会に参加する学生を、君の好みで選んではいけません。参加者を恣意的に選択すると、必ず不満がおこるものです。女の恨みはコワ~イですよ! 後々の教師生活に支障のないように、くれぐれもご注意を。

管理職の女工への対応

多数の女性工員を抱えていた工場の管理者ならではの経験談といえるであろう。私は、この助言にしたがって公平を期すために、籤引で十人を選んだ。

こんな過去を振り返るとき、今回の女学生『呉紅霞』の扱い方について、このままの対処法でいいのかどうか、ちょっと不安になってきた。

ふと大学の先輩で高校の教師をしていた瀬川を思い出した。私はメールでことの次第を詳述して意見を求めると、瀬川先輩の返事が数日後にきた。

 

先輩からの助言

 ーーお久しぶりです。貴兄の中国でのご活躍ぶり羨ましく拝見しました。

 小生も、もしあと5年若かったなら、中国へ行って教壇に立ってみたいと、元教師の虫が騒ぎだしたほどです。
 さて、ご質問の件について、小生の率直な感想を申し述べます。

貴兄の教師としての仕事熱心さと自負心ゆえの対応のようですが、非常に拙劣なやり方をなさっているように思います。教師のやるべきことではありません。永年高校の教師であった小生は、その後、企業の人事部で働いていた経験もあります。そのことより、企業における部下に対するマネジメントと学生への指導の方法が、根本的に異なると考えております。上司と教師とは違うのです。

あくまでも呉さんを個別に指導すべきです。教師の権限を大上段に振りかざして他の学生たちまで巻き込んで問題を明らかにし、白黒をつけようとする貴兄のやり方には承服できません。
 今からでも遅くはありません。呉さんを救済してあげて下さい。呉さんとの関係を修復して下さい。

 今回の事件から貴兄は多くのことを学ぶことになるでしょう。小生は、貴兄のお仕事への情熱と真剣な取り組みを改めて知りました。学生たちはあなたを見ています。あなたの気持ちを理解しています。後年、呉さんを含めて、教え子たちは感謝の念を持って、あなたを思い返すことでしょう。

小生はそれを信じているが故に、敢えて苦言を呈しましたことをご理解下さいませ。                

                       瀬川忠夫

先輩の助言

瀬川先輩は、女学生の扱い方と言った技術論ではなくて、「教師たるものの本分を追求せよ!」と要求している。

何度も読み返した。このメールには、後輩の私を叱り、そして激励してくれている瀬川の教育者としての情熱がほとばしり出ているのを感じた。改めて、教師という職業が“聖職”であることを教えられた。

ところが、このメールを読む前日に、既に徐班長からの中間報告を受けていたのだ。

それは、瀬川先輩のメールにある、

――教師の権限を大上段に振りかざし、他の学生たちまで巻き込んで問題を明らかにし、白黒をつける。

が、着々と進行しており、大団円間近になろうとしているのだ。徐班長は学友の間を駆けまわり、情報を私に伝えに来た。

彼女は自らの情報収集能力の高さを誇るように、そして、私への媚びを巧妙に隠しつつ話した。

「まず、呉さんは授業中に先生が学生の心を傷つけるような発言をしているといっていますが、二、三の学生も、あると言っていました。ただし、あるかもしれないが大したことではない。先生は率直な話し方をする人だから気にしないとか、日本人と中国人との考え方の違いがあるから仕方のないことだとか、そんな程度です。他の学生は、傷つけられたとは思わないという人ばかりですよ」

徐はそう言ってから、「先生は冗談が好きですからね、私はいつも笑って聞いていますよ」とつけ加えた。

私は、冗談をいったとき、教室の笑いの渦の中に独り取り残されたように、あの据わった目で教師を見詰めている呉紅霞の姿を思い浮かべた。教師のユーモアが全く通じない性格のようだ。

それから、と徐班長が続ける。

「先生が特定の人に依怙贔屓していると呉さんが言っていることですが、これには同意見の人もいましたよ」

「私の依怙贔屓の相手は朱茜さんかい?」

「あたり」と言って、徐がハハハと笑った。

 たしかに、私は朱とは普通の学生よりは親しい付き合いがあった。彼女が2年生のとき、ルームメートと武漢大学の花見に行く計画をしているのを小耳にはさんだことがきっかけである。中国に来て以来、ホームシックに罹ったことがないが、桜の季節だけは例外である。西安市では青竜寺、無錫市では太湖畔と桜の名所を訪れて望郷の念にひたったものだ。

武漢大学の桜並木も長江流域では有名である。私は旅費を負担するという条件で、朱茜とルームメートとの3人で一泊二日の武漢旅行をした。桜は散っていたが、李白の詩で有名な黄鶴楼や長江大橋などが見物できた。後日、彼女の両親がお礼にと、故郷の土産を彼女に届けさせたが、それを他の学生が見ている教室で受け取ったのはまずかったか?  

先輩の助言

朱茜の最大の特色は、可愛い顔のてっぺんにある、頭頂で結い上げたチョンマゲ様の髪型であった。会話の授業で朱が間違いをしたときには、罰として髷を握って上下させて、皆を笑わせた。授業ではそんな道化役――本人も一緒に笑っているような人――の存在は貴重である。私はそんな愛嬌を兼ね備えている朱が好きだった。『アカネちゃん』と日本語の愛称で呼んだこともある。

「まあ先生も男だから、それぐらいは赦してあげましょう」

 徐が言って、ニタリと笑った。女の子のこういうさり気ない仕種は、意外と胸にグサリと突き刺さる。

「ただし、先生は授業の合間の休憩時間に、特定の学生とばかり話していると、不満をいっている人もいるから、気をつけてくださいね」

「わかった、その点は反省して今後気をつけます。しかし、だからといって、私がテストの点数にまで依怙贔屓していると、皆は疑っているのだろうか?」

「だいじょうぶ、そんな疑い深い人は、呉さんだけです!」

 徐班長は、また新たな情報が得られたらお伝えします、といって帰った。 

こうして、呉とのトラブルは私の予想どおりの結論に落ち着きそうであった。必要なら、徐に一、二枚のリポートを書いてもらい、呉に「これが皆の意見だ!」と、突きつければ一件落着だ。私はそう高を括っていた。

 しかし、今の私はそんなことをしているときではない。瀬川先輩のメールが重くのしかかっているのだ。元々学友の中で孤立している呉が、今度のことでますます追い込まれていくような事態に陥ったらどうなる? 軽率過ぎたかな、と不安になってきた。

私は次の週末に徐班長と彼女のルームメートを連れて、市内の韓国料理店へ行くことを約束していた。ちょっとした成功報酬みたいなものだだが今の私には、呉の悪口をいい合いながら焼き肉を頬張るような気分にはとてもなれない。

 それでいて、瀬川先輩の助言に従って、今すぐ呉のところに駆け寄って手を握るようなこともできそうにない。この期に及んでも教師のプライドを捨てきれずにいる。

 

■思いがけない展開

翌日、学生からEメールが飛び込んできた。朱茜からである。今度の事件で、彼女は、呉から私の依怙贔屓の対象とされたのだから、きっと呉に対する恨み辛みを書き連ねているに違いない。そう直観しながら読んだ。

 

 ――私は呉さんとちょっと話し合いました。呉さんは「申し訳ございません」と先生に伝えたいのです。先生が呉さんの真意を十分に理解してあげなかったのではないかと思います。呉さんは先生が教師として尊敬に値する人だと思っています。しかし、人と人との相性というものは確かに微妙なものです。呉さんの言葉がちょっと激越かもしれないけど、悪気があるわけではないのです。先生、呉さんを許してあげてくださいませんか。お願いします。

 

胸が熱くなった。そして、恥ずかしくなった。私がやるべきことを、朱がちゃんとやってくれているのだ。朱はなんという心優しい娘だろうか! そして、呉への不快感が消えていった。ここから先は、私がやらなければならない。

 

 学期末をひかえて、新学期の『作文授業』の準備もしておかねばならない。私には新たな試みの腹案があり、学習委員の鐘夢と相談していた。鐘が、図書館の日本語書籍コーナーで一冊の本を見つけた。

 それは『中国日語学習者遍誤分析』(王忻著)であった。日本語の専門用語では『誤用分析』といい、中国人が日本語の作文をするときによくやる誤りの原因を系統的に分析している。450頁の大部なのに定価22元(邦貨換算約300円)と安いが、日本で出版されたら二、三千円はするはずである。この本の特色は、千以上の例文が正誤対照で網羅されている点である。

 

「新学期からの作文の授業でこの本をテキストにして、9月に1ヵ月かけて集中講義しよう。この本から五百センテンスを選び出し、夏休み中に私が編集して講義資料を作ります。そのためには、君たちで手分けしてパソコンに文を取り込んで欲しいのだけど、協力してくれるかい」

 鐘も乗り気だった。私一人では大変な作業量だが、女子寮の各部屋で分担すれば、簡単に終えることができるだろう。

「わかりました。さっそく各部屋の代表に連絡しましょう」

鐘がそう言って席を立ったとき、私は呉を思い出した。

「ちょっと訊くけど、呉さんの部屋は誰が担当するの?・・・できたら、呉さんが引き受けてくれるように頼んでもらえないだろうか」

鐘は一瞬とまどいの表情を見せたが、笑顔に変わった。

「いいですよ。やってみます」

 さっそく本をコピーして、パソコンに取り込む例文にマークをつける作業を開始した。翌日完了し、それを更に数部コピーして鐘に渡した。これで分担作業は順調に進むだろう。

翌日、鐘が報告にきた。

「各部屋への連絡が終わりました。ただし・・・」

「ただし」と私がオウム返しにいった。「呉さんはどうだった?」

「それが、呉さんはイヤだとは言いませんが、はっきりしません・・・なんなら、呉さんの分担分を私が代わりにしましょうか?」

「ありがとう。でも、わたしが呉さんに会って確かめることにしよう。彼女は今どこに?」

「たぶん図書館で自習していると思います」 

教師、自習室へ出向く
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長い廊下を歩きながら呉のいるはずの自習室を探した。開け放れた窓から中をのぞくと書架のそばのテーブルに呉がいて、隣席の学友と顔を寄せ合ってなにやら話をしているようだった。よく見ると、その学友が朱茜だったので驚いた。以前二人はそれほど親しい仲ではなかったはずだが、最近急接近したのだろう。あのメールの文面を思い出して私は喜んだ。

窓から何度か手を振ると、先に朱が気づいて手を振った。呉も気付いて、私の合図に従って廊下にでてきた。

 呉のいつものクセである目を瞬かせて、窺うような表情で私を見ている。

「学習委員の鐘さんから聞いた? パソコンへの取り込み作業のことだけど」

「はあ・・・」

「ぜひ呉さんに引受けてほしいんだけど、どうだろうね」

ちょっと間をおいてから呉が微笑んだ。

「もう始めています。23日中に、先生にワード文書を添付してメールで送りますから」

「な~んだ、そうだったのか」私がいって、ちょっと頭をかいた。「よかった!」

あとは、微笑みの交換をするだけだった。

呉に話したいことが山ほどあったが、うまく言葉にならなかった。このときばかりは、65歳の老人が、いきなり二十代の若者にジャンプしたような妙な具合になっていた。

「じゃ、よろしくね」

去り際に窓から中をちらりと眺めると、朱茜が意味ありげな表情でVサインを出した。長い廊下を歩き曲がり角で振り返ったら、呉がまだあの場所に立ってこちらを眺めている。私が手を振ったら、彼女も。

 数日後、呉からワード文書ファイルが届き、一週間後には全員の資料がそろった。こうして五百センテンスがすべて揃った。

7月のはじめに、私は担当している授業の期末試験の採点を終えて一時帰国した。

――雨降って地固まる、そして学生に教えられた。

私はそんな思いで日本の夏休みを迎えた。

 呉紅霞から暑中見舞いのメールが来た。祖父母と陶器の里『景徳鎮』へ行ったときの写真が添付されていた。

 朱茜からもメールが来て、以下のように書いてあった。

 

 ――じつは、先学期、3人のルームメイトとちょっとした揉め事があり、私は数ヶ月イジメに遭っていたのです。そんな時に、徐班長が中心となり呉さんを責めている原因が、先生と呉さんの問題であることを知りました。わたしは、呉さんが学友の中で孤立している気持がよくわかり、他人事とは思えなくなりました。こうして彼女と私は同じ悩みを持つ友人となりましたが、2人の性格や価値観はかなり違います。ですから私はこれからも呉さんと親しい友人になれるかどうかわかりません。でも、心のある部分で何となく彼女と共有できるものがあります。デリカシーに欠ける人が大嫌いなところなど。ところで、先生は私をとっても依怙贔屓してくださっているのだそうですね。うれしいわ。でもテストの点数はよくないぞ、なんとかしてちょうだい。(^_^;) 

教師、自習室へ出向く

 

■和解

 新学期がはじまった。中国の内陸部にある江西省の南昌市はまだ残暑がきびしかったが、既に、作文授業は9月はじめから開始されていた。新4年生は2クラスに分かれ、作文はそれぞれ週に1回の授業だったが、教務主任の許可を得て、9月中は2クラス47人合同の集中講義をした。これによりひと月で8回の授業ができる。前学期末に学生の協力を得て集めた例文を有効に使ったが、その中でも私が特に力をいれたのは、日本語特有の『ハとガの区別』と『複文の文法』であった。学生に書かせる作文は10月からだが、それまでの間にも添削を希望する学生は自由作文をメールで提出してもよい、と学生に伝えた。

 

少女と子猫

 さっそく送ってきたのは呉である。作文を読んで驚いた。要約すると、以下のような文章である。

 

――ある日、少女がいつものように公園のブランコを独りで漕いでいたら、子猫の鳴き声が聞こえた。捨て猫らしい。家に抱いて帰ったが母が飼ってはいけないという。やむなく猫の引き取りの案内を家の前に貼りだした。2日、3日経っても引き取り手がなくて、少女は小猫を可愛がりながら過ごすことができた。が、一週間後に学校から帰ると猫はもういなかった。こうして少女は、公園のブランコに独り揺れる毎日に戻った。

 

少女の孤独で揺れ動く繊細な感情を見事に描いている。更に驚くべきことは、日本語の文章の完成度であった。私が手を加えたのはほんの23ヵ所、助詞の程度にすぎなかった。これほどの優れた日本語の作文は、中国に来て以来いまだかつて見たことがない。

この作文は自身の子供時代の思い出か? あるいは、掌編小説か? いずれにしても優れた作文能力であった。しかし、わずかに3年程度の日本語学習歴しかない学生が、これほどの日本文が書けるものだろうか?

 一抹の不安がよぎった。信じたくないことだが、盗作では?

これだけはどうしても解決しておかなければと考えた私は、中国人教師張先生に電話で事情を説明し、会うことにした。彼女は四川大学の修士卒で、教師歴3年の若手だが学生に人気がある。数日後、教学楼の入り口で二人は待ち合わせて、空いている教室に入った。呉の作文をプリントアウトしたA4用紙一枚を、最前列に腰掛けている張先生に渡した。

少女と子猫

 原稿用紙56枚程度の長さだから15分もあれば読めるだろう。私はその間、教学楼の中庭に出てタバコを吸った。夕陽が秋の気配ただよう校舎の対面を紅く染めている。

 

教室へ戻ると、張先生が読み終えたところだった。

「どうでした」と私が声をかけた。

「いや~、素晴らしいですね」張先生が目を輝かせた。「でも、これは呉さんのオリジナルですよ」

「そうですか。安心しました」

 張先生のお墨付きをもらって、我がことのように喜んだ。

「呉さんが23年生の時に、精読授業で教えていました。年に数度作文をさせましたが、いつもこんな作風でしてね。あの子は、物静かでちょっと孤独癖のある子でした」

「なるほど。でも、語学の天才はいるものですね。文才もあって、わたしでも敵わない」

「ご冗談を。でも、日本人の先生がそうおっしゃるのでしたら、呉さんは相当なものです」

「どうでしょうか、この作文、中国に作文コンクールがあれば応募させてやりたいですね」

「調べておきます。ところで、先生は作文授業をなさっているのですね」

「ええ、国慶節休暇明けから本格的に作文させる予定にしています。でもねえ、これまでの経験からすると、ヒドイ文章を書いてくる学生が多くて困ります」

「ある本に書いてありましたよ」といって、張先生が含み笑いをした。「学生の作文は履き古した『臭い靴下』みたいなものだって!」

「なるほど、それは巧いことをいいますね。教師が添削という洗濯をせっせとやって、学生に返してやる」

「でも、また次に臭い靴下がいっぱい来ます」

「だから、我が宿舎にはいつも悪臭が立ちこめている」

 

 私がいって張先生と大笑いした。

作文は履き古した『臭い靴下』 師弟関係
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私は、とてもよくできた作文だ、と呉に感想を送った。

その後も、呉は心の悩みを打ち明けるような作文を送ってきた。私は、新聞コラムにある『人生相談』のコメンテ-ターになったような気分だが、丁寧な感想や添削をして返送してやった。

 

彼女が私にしきりに近づこうとし、ときに不満を言ってきたのは、心の裡を理解してくれる人を求めていたからではないだろうか? だとすれば、私はそれに応えてやらねばならない。 

こうして、私と呉紅霞は作文授業をつうじて、心の通い合う師弟関係ができていった。

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