上海の大学を一年で辞め、7年間の中国生活を終えることになった。この間、中国の悠久の歴史と漢詩などの文化をつうじて、漢民族の偉大さに触れてきた。しかし、日本の精神文化に与えた中国のもうひとつの偉大な影響として「仏教」を忘れることができない。華厳宗・真言宗・天台宗・禅宗に加えて、我が家の「浄土真宗」もじつは、中国における「浄土教」が源流としてあることを知った。
そこで、中国生活の最後を浄土教の古刹・祖庭を訪問する旅で締めくくりたいと考えた。6月下旬から夏期休暇が始まり、旅行シーズンとなっている。各地を訪問する2週間の長旅は私、独りではとてもできそうにない。幸い、江西師範大で三年間私の教え子であり、また中国語の家庭教師でもあった黄誉婷さんと陳亜雪さんが、卒業間近の忙しい中でありながらも、南昌から北京までの二週間を、半分づつ私に同行してくれることになった。
以下に、訪問地を順次紹介することにする。
6月22日に夜行列車で上海を発った私は、翌朝、南昌駅で黄誉婷さんに会い、新幹線で一時間後九江駅に着いた。九江市は江西省の北端にあり長江中流の港町で、二年前に、東晋の田園詩人陶淵明の記念館を訪問するために来たことがある。ここからバスを乗り継いで、まず廬山の僻地にある西林(琳)寺にいった。
この寺は、鎌田茂雄氏(「仏教の来た道」講談社学術文庫)によれば、「唐時代に建設された西林寺は焼失して、今は六角七層の塔だけが残っている」とある。しかし、私が訪れたときには、広い敷地に立派な寺院が建てられており、ここ10年以内に再建されたものと思われる。中国では、海外で成功した華僑が故国の学校や寺院の建立に多額の金を寄進することがよくあるそうだ。ここ西林寺もそのようなものかもしれない。今は尼寺になっており、境内を歩いていたら、尼さんが「食事をしてください」と一室に案内された。福建省から来たという5、6人の巡礼が食事をしていた。廬山の山懐深く素朴な信仰を守っている尼さんたちが、巡礼を温かく迎え入れているところに好感を抱き、私たちもご相伴にあずからせていただいた。
次に、近くにある東林寺に入ると、見張り番の僧が短パン姿の黄さんを見とがめて、「控え室で長ズボンにはきかえてください」と言った。本日は猛烈な暑さで、他にも脚線美を露わにしている若き女性数人がいて、やぼったい僧侶の長ズボンにはきかえていた。
大雄宝殿でお参りし境内をひととおり見学してから、本日のホテルを探すことにした。
黄さんが仏務所の僧に一夜の宿舎の斡旋を頼んだところ、「寺ではお世話できないので外で探してください」と断られた。が、正信偈を持っている私を見とがめた僧が、「この方は?」と尋ねたので、黄さんが言った。
「この方は、日本の浄土教信者で、中国各地の浄土教の聖地を巡礼しております。ガイドの私は、本日、東林寺をご紹介したくて参りました」
すると、僧の態度ががらりと変わり、「では寺の宿舎を提供いたしましょう」と言うのだ。黄さんの学生証と私のパスポートを確認すると、迎賓館に案内された。お寺の宿舎らしく一、二階が男女に別れているが、部屋に案内されてその立派さに驚いた。バス・トイレ、空調が完備しているだけでなく、廬山の絶景が一望できるバルコニーまである一流ホテルなみの豪華な部屋だった。
先の西林寺では食事を振る舞われ、ここでは立派な宿舎まで無料で提供されて感激! 共産主義国家中国では、公式には宗教を否定しており、また、三十数年前の「文化大革命」では紅衛兵により多くの寺院・廟が破壊された。しかし、民衆の中には仏教がなお根強く息衝いていることを実感した。現在、中国では改革開放により、有名な寺院は立派に修復されているが、観光化・営利主義の悪弊に陥っている傾向なきにしもあらずである。しかし、廬山の山中にある西林寺・東林寺のようなお寺では観光客をあてにはできず、それがかえって、巡礼をもてなす素朴で宗教本来の活動を守り続ける条件が整っているのかもしれない。今日一日、このような聖地を訪ねることができただけでも、本旅行の意義があったと、私は満足した。
◆虎渓三笑
意味は「話に夢中になって他のことをいっさい忘れてしまう」ことだ。
儒教・仏教・道教の三人の賢者が話に夢中になり、気づくと思いもかけないところまで来ていた、という故事に基づいている。中国浄土教の先駆者で廬山東林寺の住職・慧遠は、仏道に専心するために、外出は寺のすぐ近く虎渓の谷川に架かっている橋までと決めていた。だから、来客を見送る時も、谷川の手前で足を止め、未だ虎渓を渡ったことがなかった。
ところがある日、詩人の陶淵明と道士の陸修静の二文人を見送った時、話に夢中で虎渓を越えてしまい、虎の吠える声を聞いて初めてそれと気づいた三人は、大笑をしたというのだ。これが、「虎渓三笑」と世に知られる故事で、画題になっている。上の掛け軸の下側に橋を渡る三人が、廬山の大自然の中で小さく描かれている。
しかし、これは寓話みたいなもので、三賢人は時代的に離れているので実際に会うことはできなかったようだ。しかも、私が見た東林寺の前にある橋は深山幽谷の虎渓に架かっているものとはとても思えない。まあ、千年以上も昔のホラ話に現代の実物を重ねる愚かしさの典型だろうし、山水画の中でその世界を楽しむのでいいだろう。(なお、「虎渓三笑」の山水画はインターネットを検索したら掛軸、屏風絵、陶器とかなりたくさんあることがわかった。上の図はこれらのいくつかを引用させていただき、Photoshopで組み合わせて作成したものである。)
夕食は、寺の外の一見農家風のレストランで食べた。目の前には池があり、池の魚や泳いでいるアヒルが食卓に出てきた? 牧歌的雰囲気の中で、二人で貸し切りのような店でゆっくりと食事ができたのも、楽しい思い出になった。
●この日は李白の詩で有名な「廬山瀑布」へ行くために登山するが、早朝からかなり暑かった。入山口の前まで来て、黄さんが「喉が乾いたから、ビールでものみましょうか」といった。彼女は例外的に酒につよい。祖母が白酒(火をつけたら燃え上がるほどの強い酒)を毎日欠かせないほどの酒豪だそうだから、彼女は隔世遺伝を受け継いだのだろう。だが、山登りの前に酒を飲むなんて聞いたことがない。それにしても、この暑さだ。よく冷えたビールは確かに美味く、大瓶一本を二人で空けてから、登山した。
急傾斜と階段が交互にまじっている坂道を歩き、途中で河原に下りて、冷たい水で汗をふいたりもした。滝壺の一歩前まで来たところで、時間不足のために引き返したが、滝を間近に見ることができたので満足することにした。
その夜は廬山温泉に一泊した。2,3年前に宜春温泉へ行って以来、中国式温泉の大ファンになった私は、ここでも大いに楽しむことができた。ただし、ここの温泉に入るときには、所持品チェックが厳しくて、カメラ持ち込みが厳禁であった。だから、湯舟などの温泉の雰囲気を伝える写真を撮ることができなかった。もっとも、黄さんは、
「私、最近太ったので、腰回りが贅肉でだぶついている水着姿を先生に撮られなくてよかった」
と、喜んでいた。
後日談
廬山訪問中に「李白の望廬山瀑布」は登山して見ることができたが、「白居易の香炉峰」(それは清少納言の枕草子にも出てきた)を見ることができなかった。旅を終えてから、インターネットで調べたら、香炉峰が上の緑で囲った写真に紹介されていることがわかった。その香炉峰は瀑布より高い位置から撮られたものらしいので、私が登山した川沿いの低い位置からは見えなかったのだろうと思った。
ところが、それから7、8年後の2020年にインターネットで興味深い論文をみつけた。
植木久行氏の中国詩文論叢 第三集(pdf)
「香炉峰と廬山の瀑布――二つの香炉峰の存在をめぐって――」
である。
かなり学術的で、根拠となる漢詩が多数引用されているので、私には十分解読できたとは言い難いが、植木氏の結論は概略以下のようなものである、と私は理解した。
下の廬山の地図を参考にしながら理解されたい。
1 香炉峰は、廬山の南と北に少なくとも2峰ある。
2 南北それぞれの峰の近くに瀑布があった。
3 白居易の詩の一節「香炉峰の雪は簾を撥げて看る」と詠まれ、清少納言の『枕草子』に引用された峰は、「北香炉峰」である。
4 李白の詩(望廬山瀑布)に登場する瀑布は、「北香炉峰」の近くにあったが、既に消滅しているらしい。かすかにその名残をとどめているかもしれない瀑布(石門潤瀑布?)は、貧弱なもので李白が描く雄大な世界とは似ても似つかないもののようである。
以上のことより、私が訪れた東林寺から南方に北香炉峰が遠望できたはずだが、私は見逃がしてしまったようだ。また、私が苦労して登り見た瀑布は李白の詩とは無関係であった。中国の観光地には、時々ニセモノがあるものだが、李白の詩に登場する世界的に高名な瀑布がニセモノだとはあきれ果てた! しかし、廬山に現存する代表的瀑布(開先瀑布)はこれしか無いのなら仕方がないのだろうか。
植木久行氏の論文は下のURLをクリックして一読されたい。
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再び、九江市に戻り、草魚料理を食べた。そして、夜に西安行きの寝台列車に乗った。
18時間後の夕方、西安に着いた。駅前のホテルにチェックインしてから、久しぶりに北門院の回族の店の並ぶところへ行って、美味しい羊肉串焼きと小籠包を食べた。ちょっと小籠包のスープ味がしょっぱく感じた。おそらく、無錫・南昌・上海と、江南料理の甘い味に慣れたためだろう。食い物に対する舌の順応性とは恐ろしいものだと思う。
香積寺は浄土教の善導大師が西安で過ごした寺といわれている。王維の詩によると唐時代には深山幽谷に分け入ってようやくたどり着く所にあったが、今は西安市の南郊外をバスで走ること1,2時間でたどりつける平地にあった。寺の位置を移したのか、王維の時代より千年以上も経過しているのだから、地形まで変わってしまったのか、よく分からない。
香積寺で我が家の浄土真宗の教典「正信偈」を読経した。寺の年老いた事務員が黄さんに仏前礼拝の仕方を教えてくれた。中国式の方が日本式より丁寧だった。境内に日本から来た浄土宗の巡礼が記念に植えた海棠と立て札がたっていた。
夕方、南昌から陳亜雪さんが駆けつけてくれた。黄・陳両嬢は大学卒業時のいそがしい中を私のために旅行に同行してくれた。西安から先は陳さんが同行してくれることになっている。夜、三人で一緒に大雁塔境内で過ごし、そのあと黄さんは夜行列車で南昌に帰って行った。
今回の旅は香港にはじまり江西省の禅寺など各地を訪問する遠大な計画を建てていた。しかし、私が東京で海外の大学の面接試験を受けるために、急遽帰国しなければならなくなったりして、予定を大幅に変更してしまった。そのために、西安では長安大学の教え子など知人に再会する余裕もないまま、一泊しただけで次の予定地に行くあわただしい旅となってしまった。
平遙古城は、明代のたたずまいがそのまま残っているとてもいい雰囲気のある街である。西安時代にも劉トンさんと訪問したことがある。今回の旅は抹香くさい寺訪問がおおくて、中国人の若い娘の陳さんにはあまり興味の湧かない所ばかりだ。しかし、ここ平遙古城だけは別である。陳さんに旅の楽しさを味わってもらうように気配りした。
平遙古城からバスで太原駅についた。駅前で、「玄中寺」へ行くタクシーをチャーターした。このような場合に、観光業者との価格交渉をしなければならない。日本人だけでは彼らの言い値でぼられる可能性があるが、陳さんがいてくれるので心強い。中国人は学生であっても、金のことになると”締まり屋”でたくましいのだ!
一時間平地を走ってから、急な斜面の山道にはいり約2時間ほどでついた。目指す寺は、標高900mの山懐に抱かれたところにあった。参道を歩くとようやく山門にたどりつく。献灯所で日本から持参した線香と蝋燭に火をつけてたむける。中国の類似のモノと較べて小さいが、我が心づくしのモノだからそれでいい。
大雄宝殿に人影は少なかった。
玄中寺は、「浄土教」の開祖・曇鸞(どんらん)が、北魏時代の西暦472~476年に開山し、つづいて道綽(どうしゃく)、善導(ぜんどう)により「浄土教」を発展・完成させた。この三高僧が作り上げた思想体系が、後年日本に伝わり、鎌倉時代に法然(浄土宗)とその弟子親鸞(我が家の浄土真宗)に受け継がれたのだ。
私は子供のときから、仏前の父の後ろに座って、浄土真宗の「正信偈」を“お西”風の節回しで唱和していた。その中に「七高僧」という言葉がある。父と違って信仰心の薄い私は、その意味も知らないまま66歳の高齢を迎えている。じつは、その七高僧の中の三人が他ならぬ、曇鸞・道綽・善導の三大師であることをようやく知った。そして、今いる玄中寺こそが、阿弥陀仏による浄土信仰の発祥の地なのだ。
約20年前に亡くなった父は、若い頃、二度ほど中国に出征したことがある(日支事変と第一次上海事変)。もちろん、一庶民の父が中国を侵略しようなどという考えは無かったものの。父は信仰心が篤かったが、無教養者であったので、中国に来ても、玄中寺のことなど全く知らなかっただろう。だから今、その息子が玄中寺に巡礼していることを天国で知って、どれほど喜んでくれているだろうか。もちろん、曇鸞・道綽・善導の三大師と親鸞さんも「よくぞ参られた」とお慶びであろう。そんな思いで、私は「正信偈」を読経した。
いま日中は険悪な関係にある。経済大国にして民主主義国家を自負する日本人の中には、中国の政府や国民を見下し、嫌う人も少なくない。もちろん、中国人には反日感情がより強い。しかし、私は中国の長い歴史を学び、漢民族の偉大さと日本に与えてくれた多大の恩恵を思うとき、反中国的感情はみじんも無い。
おそらく中国生活最後となるであろ今、玄中寺に巡礼できたことに満足した。
なお、玄中寺から太原駅に戻って、その日のホテルを探しているときに、ちょっと中国人とのもめ事に遭遇した。そのことは、後ほど語ることにしよう。
翌日、太原から更に北にある大同市へ列車で移動した。中国滞在中にこのような北へ行ったことがない。車窓からも北国の雰囲気が感じられた。
大同市では中国三大石窟寺院の一つ、「雲崗石窟寺院」を訪問した。この石窟は「北魏王朝」のものである。北魏王朝はその後半期に、洛陽に都を遷したので、洛陽市の「龍門石窟」と共に二大石窟の開鑿に関わった王朝として中国史上名高い。以下に、この王朝の前期の石窟「雲崗石窟寺院」訪問の様子をご紹介する。
●ところで、石像の至る所にある穴は何のためにあるのだろうか? 私は仏師が石像を彫り込むときの足場に使うためのものではないかとも思ったが、観光団に説明しているガイドに聞いてみた。
ーーもともとは、石像の表面に泥をぬり、その上に色彩鮮やかに顔料で色づけしてあった。穴はその泥が落ちないための支え棒を差し込むためのものであった。しかし、長い年月の間に、表面の泥が落ちて穴が露出している。
とのことであった。
私は西安時代の洛陽の「龍門石窟」につづいて今回、雲崗石窟を見学することができた。これで、中国三大石窟寺院で未訪問は、「敦煌莫高窟」だけになる。私は琵琶奏者・劉トンさんと是非敦煌を訪問し、琵琶を奏でる飛天と対面させてみたいとの願望を抱いたが、それだけは実現できなかったのが残念である。
さて、私の約二週間の仏教寺院巡礼の旅もいよいよ最後になった。
そこは、漢民族の偉大さを教えてくれる北京郊外の「房山石経」である。私は6月末に67歳の誕生日を迎えた。老人にとって誕生日を迎えることなど少しも嬉しくないが、陳さんがお祝いをしてあげましょうと、北京に着いた夜に、王府井の世界的に有名な北京ダックの店(全聚徳)に案内してくれた。高くて、陳さんには申し訳なかったが確かに美味かった。
そして、翌日、「房山石経」を訪問した。
●刻経の始まりーー房山石経
インドのお釈迦様が始めた仏教は、その後シルクロードをたどって中国に伝えられた。艱難辛苦に堪える長旅の末にインドから仏典を中国に持ち帰った僧として「法顕」や「玄奘三蔵」はよく知られている。仏教は中国で独自の発展を遂げたが(いわゆる大乗仏教)、在来の思想「儒教」、「道教」と時に対立し、時に共存する経緯をたどった。そして、歴代王朝の中には、皇帝が仏教を厳しく弾圧することもたびたびあった。
北周の武帝もその一人で、廃仏政策により多くの経典が焚書に遭った。紙に書かれた経典は簡単に焼くことができるので、経文を石版に刻んで永遠に残そうと考えた人が「静琬」である。彼は「虎渓三笑」で紹介した廬山の慧遠(浄土教の先駆者)の弟子で、北京市郊外の老木が生い茂る深山幽谷の中にある洞窟に立て籠もり、死ぬまでの三十年間その事業に専心したという。
秦の始皇帝による“焚書坑儒”を知っていたからだろうか? さらに驚くべきことに、彼の死後もその意志は引き継がれ、隋時代から明時代までの約千年もの長きにわたってつづいた。宗教心の篤さというべきか、その情念の峻烈さというべきか、驚くしかない。私は“連続は力なり”を実感できる偉業として伊勢神宮の氏子による遷宮を思い出した(注)。
静琬とその後千年にわたる刻経の営みは伊勢神宮の氏子の志と同じだと思う。それが、房山石経として麓の「雲居寺」の倉庫に一万四千余枚保存されている。私には、難解な石の経文を見るだけで理解はとうていできないし、これまでに訪れた秦の始皇帝兵馬俑坑や大同市の雲崗石窟寺院のような視覚に訴える派手さはなかった。しかしそれでも、そこで何か崇高なるものに触れた静かな感動がある。その偉業を伝える碑文があったので、日本語に翻訳して紹介する。
なお、房山石経は「北京の敦煌」と呼ばれているそうで、実際に房山へ分け入って現場を見たかったが、山が荒れていて入山禁止だったのが、残念である。