2 昆明に赴任

 昆明は4、5年前に家内と旅行をしたことがあったので全く見知らぬ土地というわけではなかった。8月末、日本ではまだ残暑が厳しい日本を発って昆明長水空港に降り立った。関空から上海まで2時間半、上海から昆明まではそれ以上かかった。

 

――オレもとうとう、中国の最深部、はるばると雲南省まできたのだ!

 

雲南省各地の標高

昆明は春城(常春の町)と呼ばれるだけあって爽やかな気候だった。翌日大学へ行って、5階にある日本語科事務所まで階段をあがったら、息切れがしてきた。日本では週に2回テニスをして身体を鍛えているのになぜだろう? じつは、昆明は1,900メートルの高原地帯にあることが分かった。日本なら相当高い山の頂にいるようなものだから、空気が希薄なのだ。なるほど、体調のせいではなかったと納得した。

衛星都市と呼ばれる巨大団地
それぞれの団地(衛星)がたくさん集合して街を形成。塀で囲まれた団地の門口には警備員が監視して治安が守られている(絵図をクリックすると拡大されます)。

翌日からアパート探しが始まった。この大学でもキャンパス内には教師用宿舎がなかったのだ。私は上海での経験から、学生と交流のできるように、大学に近いところに住みたいと教務主任にお願いした。結局歩いて40分、自転車で15分のところにきめた。バスもあるので、学生が我がアパートに遊びに来るのにもそう不自由はしないだろう。

 

授業がはじまって幾つかの課題に直面した。

まず、この学校も会話授業が週に一回2コマ(45分X2)しかないのだ。私は2年生の会話授業を、上海でやったことを踏襲して、週あたり一回の正規授業に加えてもう一回の自主授業をやることにした(これで週4コマになる)。

週に一回だけ午前と午後に続けて授業する日がある。

「学内には、仮眠室があります。お昼に使われたらいかがですか」

 教務主任が老齢の私を気遣って、そういってくれたのだろう。だが、日本人の私にはそのような習慣が無いので、笑いながらお断りした。中国の大学では、上海の大学を除いて二時間近い昼休みがあった。この大学は特に長くて、12時10分から2時30分までだった。のんびりした南国の気風が感じられて微笑ましい。しかし、

――こんなに長い時間を無駄に過ごすのはもったいない。なにか、有効に使う方法はないものか。

こう考える私は、いまだにサラリーマン根性が抜け切れていないからかもしれない。私はふと思いついて、2年生を対象に『日本語コーナー』をやってみようと考えた。だが、学生が迷惑するだろうか?

 

学生食堂
学生食堂三階にある広場で日本語コーナー 昼食を摂りながらの自由会話

班長をつうじて希望者をつのってみたら、2年生の約半数が参加を希望していることがわかった。1グループ5、6人ずつ6班にわけて一時間程度の自由会話を週3回開くことにした。昼食を摂りながら気楽な話をするのだが、昆明の美味しいレストランや、雲南省の観光地の話など、私にとっても有益な情報源になった。話がうまく通じないときには筆談である。だからノートが欠かせない。学生は自分の伝えたいことを何とか日本語で表現しようと努力する。これも会話能力を高めるために大切なことであり、テキストを中心にして行う会話授業とは別の意義があった。こうして楽しみながら2年生のやる気を引き出し、会話授業は順調に推移していった。

 

一方、私の思惑が一番はずれたのが3年生の『日本文学簡史』だった。授業開始前の打ち合わせで、教務主任がいった。

「うちの学生は文学にはあまり関心がありません。古典は簡単にすませ、明治以後の現代文学、それも学生が興味をもちそうなものをやってください」

 古典を軽視しろというわけか。例えば、平家物語なら、『敦盛最期』で直実が我が子ほどの若者の首をはねなければならなかった苦悩、あるいは、兼好法師のつれづれ草第百九段『高名の木のぼり』で人間心理を鋭く衝いた話題などを学生に紹介しようと思い、日本で準備していた。しかし、そんなものに学生は関心が無いのか?

「それに、『八級試験』に役立つように教えてください」

と、教務主任の注文は具体的になった。

私は中国の大学日本語科の学生が『日本語能力一級試験』の合格を最重要視していることを知っているので、中国版日本語能力試験といえる八級試験のことには余り関心がなかった。過去の試験問題集を見てみると、各時代の作家とその作品名、ジャンル別が分かれば大抵の回答ができる問題だった。日本文学の授業が試験対策授業に格下げか?

日本の友人がこんなことを言っていた。

――最近の日本の大学教育は、かつてのような『教養主義』から『資格をとるための実利主義』に変わっている。

なるほど、時代の流れなのだろう。

教務主任の要望にしたがうことにしたが、私の目論見とは異なり、日本で準備していたものは殆ど役に立たず、無駄になってしまいそうだった。

 第二回目の授業の後、クラス代表者たち数人がきていった。

「もう少しゆっくり話してください」

分かりました、と返事したが、3年生にもなって私が日本語を普通のスピートで話すのについていけないとは情けない話ではないか。1、2年生の会話授業で、学習意欲不足だったことに加えて、週に一回の教育体制の不備も関わっていると思えてならないのだ。

聴き取り能力不足で授業についていけない3年生は後列に座っている。授業途中から下を向いているが、おそらく携帯電話を見て退屈しのぎをしているのだろう。私語をする学生までいた。

 日本文学史などは、どこの大学の学生でも興味がもてない教養科目だろうから仕方のないことながら、授業が低調になっては、教師の私も気合いが乗らないのだ。

日本人教師が担当しているから、授業について行けない学生がでてくるというのなら、中国人の教師が担当すればいい。そうすれば、中国語で講義するのだから学生は理解できるだろう。しかし、それでは日本人教師の生きた日本語に触れたり、日本語で表現するチャンスがますます無くなり、別の問題が発生する。

どうにも袋小路に入り込んだようだ。

私は教務主任にこの学校の問題点を話すことがあった。

「先生は」と教務主任がいう。「これまで名門大学ばかりを渡り歩いてこられた方だから、我が校にご不満があるのでしょう」

 そう言われるのが一番つらい。

「私は一度も名門校に勤めたことなどありません、みんな地方の二流大学ばかりを渡り歩いた田舎教師にすぎません。一度だけ上海で教えましたが、上海の大学がすべて名門校とはかぎりません! それでも、この大学よりは・・・・・・・」

 いや、こんな言い種はよくないのだろう。長安大学の同僚教師だった松浦さんが、別れの時、餞の言葉として、こう忠告してくれたことを思い出す。

「先生が新しい大学へ赴任したときに、ひとつ気を付けて欲しいことがあります。私は永年日本の高校で勤務していました。他校から転勤してきた新任教師の中には、前の学校ではこうだった、ああだったと言って、新任の学校を批判する人がいるものです。これは見苦しい。たとえ、その教師の言っていることが正しくても、こちらの学校にはこちらの事情があるのです。そんなことも分からないで好き勝手なことをいうな! とまあ、言われた方はいい気分になれないものでしてね。私の経験です。ご参考にしてください」

相手が素直に耳を傾けてくれる説得術――これは中々難しいものだ。

3年生の授業『日本文学簡史』は、こうして淡々と進行していき、はや12月になり学期末が近づいていた。八級試験対策のための『各時代の作家と作品、ジャンル』を覚えさせる目的は一応達成できたものの、文学をつうじて日本文化への理解や文学に描かれている人の生き方に関心を持たせるようなところには至っていなかった。

が、せめて学期末の最後の授業だけでも、時間を延長して芥川龍之介の短編小説『蜘蛛の糸』と『羅生門』の動画を見せようとした。すると、学生がブーブー文句をいった。では、と私が「興味のある人だけ残ってください」といった途端、学生が大挙して退室していき、あとの教室は閑散としていた。私はこれほどヒドイことになろうとは思いもしなかったのだ。

翌日、教務主任にこのことを伝えると、

「先生、学生の自由に任せちゃいけませんよ」

と笑われた。

が、ここは大学である。教師が学生を子供扱いしなければならないとは情けない! 教務主任からそこまで見くびられている学生が悪いのか、そんな学生にしてしまった教師が悪いのか、どちらなのだろうか?

中国では2000年頃を境に、政府の方針で大学と学生が急増している。それに伴い日本語科もどんどん新設された。大学の大衆化は日中ともに同じであろう。その過程で、ほんらい来るべきでない資質不足の者まで大学に入ってきていることは確かだろう。

4年生の『日本文学鑑賞』については、既に書いたとおりである。4年生にはもう一つ『論文のための作文』授業があったが、推して知るべしであった。

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