范蠡(はんれい)ゆかりの蠡園

越国の重心范蠡(はんれい)
越国の重心范蠡(はんれい)

范蠡は、春秋時代末期に呉越の興亡で有名な一方の王、越王勾践に重臣として仕えた人物である。彼の軍師としての才能が卓抜であるだけでなく、“出処進退の鮮やかなところ”が日中両国で高く評価されている。また商才にも長けており、後年の別名「陶朱公」は富豪の代名詞となっているほど中国の庶民からも尊敬を受けている。

 無錫市に接している太湖の入り江になっている蠡湖の名前は、范蠡が傾国の美女西施(せいし)と湖面に舟を浮かべていたという伝説に由来しており、無錫の観光名所の一つになっている。

 今回その范蠡ゆかりの蠡園(れいえん)を訪ねた。

無錫市の蠡園(れいえん)
友人の無錫訪問

蠡園 蠡湖を借景とした庭園づくりの庭園。遠くに蠡湖大橋を望む。范蠡は、一度は破れて滅亡の危機にあった越国の再興に貢献し、敵国呉に美女西施を送り呉王扶差を骨抜きにした。そして、呉国を滅ぼした後には越王勾践を見限り、他国に移って、投機業で巨万の富を築いたと史記に記されている。(右下写真は元会社の友人吉國氏夫妻が無錫訪問時のもの)

 西施は呉を弱体化するために范蠡によって呉王扶差に献上された傾国の美女。西施はその范蠡の命に従って呉の弱体化に多大の寄与をした。春秋時代末期に「呉越同舟」や「臥薪嘗胆」などの名言を残すことになった呉越の興亡は、最後に越が呉を滅ぼすことによって終わった。その後、西施は自ら蠡湖へ身を投じたとも、殺された(蠡湖へ沈められた)とも言われている、悲劇の末路をたどった美女である。しかし、それでは可哀想だとの庶民感情が働いてか、范蠡が彼女を引き取って蠡湖に舟を浮かべながら余生を安楽に暮らしたとか、二人が舟でいずこともなく消え去ったという伝説が生まれたのだから、美女は得だ(ちなみに、西施は無錫近郊の人との説がある)。

では、不美人(醜女)の運命は? 「西施の顰(ひそ)みに倣う」との名句が残っている。西施は胸の持病で故郷の村で一時静養していた。下の像のような姿の美女が胸に手を当てて眉をひそめながら歩いていたらその美しさはいや増しに増すであろう。そこで、醜女が西施の真似をして村を歩いてみたが、その醜悪な姿に村人は呆れて門を硬く閉ざして家に引きこもってしまったそうである。人は生まれながらにして平等なはずであるが、美人と不美人にはこれほどの差がある。

西施と楊貴妃

      西施像(無錫 蠡園)               楊貴妃像(西安 華清池)

 

西施は楊貴妃とともに中国の四大美人の一人と言われている。楊貴妃は牡丹に似せられるほどの豊満な肉体をしており(マリリン・モンロータイプ?)、音曲や踊りにも長けているので、才能の点では西施より勝っているとの見方もある。しかし、玄宗皇帝の寵愛を受けた楊貴妃は一族の専横を招くなど負の側面が鼻をつく。西施にはその様な嫌みがなく、この立像のように清楚な美しさが魅力である。「象潟や雨に西施がねぶの花」と芭蕉もその美をたたえている。マリリン・モンロータイプの美女の魅力も捨てがたいが、西施はその対極にある東洋的美人の典型だと言えよう。しかしながら、一人の女性が国王を惑わせて国を傾けさせるほどの力は、西施が単に容色に優れていることだけでは説明がつかない。彼女の知性の高さもおおいに与っており、「マリリンモンローのーたりん」(野坂昭如氏の戯れ歌)ではなしえないことのはずである。

 

さて、西施が松尾芭蕉の俳句によってその美を讃えられているのに対し、范蠡には日本人による以下のような有名な言葉が残されている。

 

「天莫空勾践時非無范蠡」(天、勾践を空しゅうするなかれ、時に范蠡なきにしもあらず)

 

これは、元弘2年(1332年)後醍醐天皇が隠岐へ流されるときに、児島高徳(こじまたかのり)が桜の木に彫り込んだ詩で、「范蠡のような忠臣が、わが国にもいますので(高徳自身のこと)、心安らかにして捲土重来を期してくださいませ」という思いを天皇に伝えて忠誠を誓ったものである。

 私のように戦後教育を受けたものにとって、児島高徳は全く馴染みのない人物だが、戦前には楠木正成とともに忠君愛国者として修身の教科書にも出てくるほど有名な人物のようだ。しかしながら、児島高徳が忠臣として引き合いにだしているほど范蠡が主君に忠節を尽くしたかといえば、そうではない。范蠡は越国の再興を目指して艱難辛苦を共にしている間は越王勾践を盛り立てて、文字通り忠臣だったが、ひとたび呉国を打倒して復讐が成った後は、越王勾践を見限り、さっさと他国へ逃亡してしまうような冷徹さも併せ持っている人物だった。つまり、盲目的な愛国者でもなければ、主君に終生忠誠を尽くした挙げ句に身を滅ぼしてしまうようなロマンチストではなかったわけだ。范蠡のめくるめくような多彩な才能の根源は“先を見通す目”(先見の明)にあると言われており、それを裏付ける逸話にはこと欠かない。

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