□ はじめに
中国で日本語教師をしていた第三番めの「江西師範大学」では、外国語学部と教師用宿舎が郊外の新キャンパスにあり、南昌市の中心部へ行くには小一時間かかる。そこで、食料品など生活用品の買い出しのために、週に一回、外人教師専用バスが無料で提供されていた。
それに加えて、英語科の外人教師用のバスが日曜日にも運行されていた。それは、南昌市内にあるキリスト教会への日曜礼拝のためだという。この大学の英語科の教師の多くが、アメリカのキリスト教系団体から派遣されていることによるのだろう(彼ら英語教師は学内で飲酒すら禁じられていた)。私は改めて欧米人のキリスト教への信仰心の篤さというべきか、あるいはキリスト教が生活に深く根ざしていること、を知ることになったのだ。
五千円札の肖像になっている「新渡戸稲造」は、あるとき欧米の学者に、
ーー我々は子弟にキリスト教に基づく倫理観を教えているが、日本ではどのようになっているのか?
と問われて、返答に困ったという。彼が熟慮した結果、日本には「武士道」精神が脈々と受け継がれており、武士道が欧米のキリスト教に匹敵する情操教育の基本にあることに気づき、英語で「武士道」という本を書いた。この本は、ちょっと衒学的気取りも認められるものの、欧米人向けに英語で書かれた名著として、現代まで高い評価を受けている。
彼が士族の出身であることが、この本に色濃く反映されているが、武士階級が消滅した明治期以後も武士道が日本に息づいていたことが、疑問視されている。また、鎌倉期から江戸時代までの間に、武士道の定義そのものも大きく変遷しているし、そもそも、江戸期の武士が皆そのような高潔な精神で行動していたわけではないと、武士道に疑いを抱いている学者もいる。
理念として構築された主義が実践とは乖離してい ことは、共産主義思想と共産主義国との関係を知れば明らかだ。私は新渡戸の「武士道」を日本語訳で読んだが、現代日本人の日常の行動に彼の書いているような精神があまり見られないように思った。
しかし、我々日本人の日常生活の中には「武士道」とは異なる、欧米人のキリスト教ほど明確なものではないにしろ、別の思想・信条が深層心理にあるのではないかとも思われるのだ。
□ 仏教思想
我が家は浄土真宗の門徒で、私は子供の時から仏壇の前で宗教心篤い父の後ろに座って、「正信偈」を唱和していた。寺の住職が月に一、二度、我が家へお参りに来られたときにも、唱和するのが私の当然の義務だと思っていた。町の中で神社・仏閣の前を通り過ぎるときには軽く礼拝をするのも、父から躾けられた習慣だった。
私は大学で薬学を学び、卒業後も自然科学系の研究者として働きながら、「神や仏のような超自然的なものが本当に存在するのか?」との疑念を抱いていた。が、そんな疑念から簡単に神仏を否定することは、軽はずみで畏れ多いことのようにも感じられ、これは歳をとってから解決すべきものと、結論を先延ばしにしてきた。が、私は2015年現在72歳で、あと十年数年で平均寿命に到達する。もう人生の黄昏期に達して、時間は残り少ない。滋賀県にある父の代に造った森野分家の墓にいずれ葬られて、我が人生を終えるのだろう。そのことは承知していながらも、未だに死への恐れはなく、平々凡々のうちに気楽に生き続けているのだ。
親鸞上人は、己の信仰の拠り所を求めて懊悩し、比叡山で悟りを得ることに絶望し下山した。そこで法然上人に巡り会って念仏仏教に帰依し、浄土真宗の開祖となられた方だ。しかし、私には求道の熱意もなく、寺の僧侶が我が人生のよき師とは思えなかった。私がサラリーマンとして生活の糧を得ているように、彼らもまた単に生活のために聖職者をしているだけであり、尊敬し仏門の教えを請う相手とは思えなかった。
父が他界して居を京都から大津に移してからは、地元のお寺とは接触を断ったままである。年に一回お盆が近づいたころ、妹夫婦を招いて仏壇の前に座し、子供の時から覚えている「正信偈」をやや不自然な節回しで私が先導し、妹が唱和して父母の供養をするのが、唯一の仏事となっている。
「正信偈」に、天竺や中国の偉いお坊さんや仏の名前があるが、その由来や意味を知ろうともせず、棒読みしているだけだった。ただ『南無阿弥陀仏』と復唱するだけで、阿弥陀仏が極楽浄土へと導いてくださり、今を安心立命の境地で生きていける他力本願の尊さを、ぼんやりと信じている程度にすぎなかった。だから、私も「日本人はなぜ無宗教なのか」1)という本のタイトルどおり、典型的な現代日本人の一人だといえよう(注)。毎朝神棚に向かって柏手を打って礼拝する子供の頃からの習慣もいつのころからか忘れて久しい。かくして、父の代まで続いていた神仏への礼拝の習慣は私の代で終わり、息子娘には伝わらなくなっている。
(注)この本の著者は、日本人は正月に初詣をするし、お盆には墓参りをしているし、故郷の鎮守の森のお社に対しては近親感があり、素直な礼拝の感情を抱いている。このことからも分かるように、現代日本人は、決して無宗教者ではなく、ただ単にいわゆるキリスト教や○○宗と言った既成宗教の信者であることに、抵抗感を抱いているだけである、と分析している。
中国の各大学で作文を指導していた。春節休暇明けの後期授業のはじめに、学生は旧正月の行事を書いていた。家族総出で正月を迎える準備と、大晦を経て新年の諸行事が描かれていた。その中には、宗教を否定しているはずの共産主義国家にも関わらず、祖先崇拝など庶民の正月行事の中に宗教的雰囲気が感じられ、新年を迎える厳粛さと喜びに充ち満ちている様子が興味深かった。父が他界してから、私は初詣をはじめ家庭内の正月行事を捨て去っているが、我が子供の頃に体験した正月行事と類似している学生たちの描く正月の諸行事を懐旧の思いと共に読んだ。そして、物臭者で現代的合理主義に毒されている私は、改めて自分が日本の旧き良き伝統の破壊者でもあることにきづいた。
大学で「異文化コミュニケーション」の授業をはじめた頃、偶然にも「仏教の来た道」(鎌田茂雄著)2)と題した本を読んだ。インドから中国に伝来した仏教は、中国化(大乗仏教化)により諸宗派が生まれ、それらがやがて日本へ伝播した歴史を詳述してあった。その中には、「上に飛鳥なく、下に走獣なし」と恐れられている熱沙のタクラマカン砂漠を踏破し、「懸崖壁立して、足を安んずる処なし」のパミールを越えてインドに渡り、数々の仏典を持ち帰った「法顕」や「玄奘三蔵」、また度重なる挫折をものともせず、盲目となりながらも渡日に成功し、仏教の戒律(律宗)を伝えた「鑑真和上」の偉業が書かれている。彼らは求道・布教の精神にあふれており、信仰心を強固に抱いている人でなければ成し得ない尊さを私に教えてくれた。
親鸞上人は、「知的好奇心だけでは、決して信仰心は生まれない」とおっしゃっているとか3)。そうかもしれないが、宗教の門の入り口に立つきっかけにはなるだろう。
こうして、私は日本へ多大の文化的影響を与えた、中国の仏教文化について初めて知ろうと思うに至ったのだ。
以下の内容は、「仏教の来た道」2)を基本として、仏教諸宗派とそれに関係した仏教寺院を訪問したときにの経験と写真、またインターネット情報も掲載して完成させたものである。その中で、我が家の浄土真宗と関係している中国の「浄土教」の寺院については詳しく紹介しようと思う。
□ 江南地方の寺
鎌田は言う。黄河流域に発達した仏教に対して、長江流域の仏教は江南の仏教と呼ばれる。
杜牧の詩(江南の春)に描かれている南朝四百八十寺とはこの江南の仏教を端的に指している。後漢が崩壊して三国・東晋時代になると、戦乱のために国土が荒廃し、人心は不安になった。このような時代背景から、儒教の権威が衰えて、来世に浄土を求める仏教が興隆した。江南に都した東晋時代から仏教寺院が多数建造された。
●寒山寺(蘇州)
晩唐の詩人張継は、「楓橋夜泊」一作で後世に名をとどめている。その中にある「寒山寺」は唐代の詩僧・寒山の名前にちなむものと言われている。日本人は「楓橋夜泊」が大好きで、毎年大晦の夜には日本人がこの寺に多数押しかけて、張継が詩中で描く鐘の音を聴くので、この日だけは拝観料がとても高いそうだ。しかし、現在の鐘は清時代のものなので、張継が聴いた鐘の音とは違う? 私は二度ほどこのお寺に行ったが、料金を払ってまで鐘を撞く気にはなれなかった。
楓橋夜泊 張 継
月落烏啼霜満天 月落ち烏啼いて 霜天に満つ
江楓漁火対愁眠 江楓漁火
愁眠に対す
姑蘇城外寒山寺 姑蘇城外の寒山寺 (姑蘇:蘇州の旧名)
夜半鐘聲到客船 夜半の鐘声
客船に到る
●虎丘の塔(蘇州)
蘇州の郊外にある30メートルほどの丘に、春秋時代の呉王・夫差が父・闔閭を葬った。そこに東晋時代に「虎丘山寺」が建てられたが、「会昌の廃仏」で廃寺となった。北宋の時代に再建されて、虎丘塔も建てられた。この八角七層の塔は、やや傾いているので「東洋のピサの斜塔」と呼ばれていて、蘇州観光の名所となってる。
●鎮江甘露寺(三国志演義の舞台)
この寺には三国志に魅せられて訪問した。古甘露禅寺と書かれているのは、三国志ゆかりの寺院をここ風景地区にまとめたからか?
劉備と孫権が曹操への戦いの決意を示すために、真っ二つに斬り分けたと書かれている石が池の中央にあったが、三国志演義の作り話だ。むしろ、風景区の片隅に、呉で周瑜亡き後孫権を助けて活躍した「魯粛」の墓のあったことが印象に残った。
●揚州大明寺(鑑真の故郷)
○揚州は長江と京杭運河(隋の煬帝が開いた北京と杭州を結ぶ)の交差点で、遣唐使がここを経由して入唐、あるいは帰国の途についた処である。
玄宗皇帝に仕えた阿倍仲麻呂が帰国するときに、李白などの友人文士たちが、このあたりで別れの酒宴を開いたとも言われている。しかし、帰国中の船が難破したために、仲麻呂は結局日本に帰られなかった。揚州が日本とも縁のある対外貿易で栄えた土地柄であることも、鑑真和上が渡日を思い立ったことと関連があるのだろう。
大明寺の鑑真和上は、5度渡日を試み、2回は日本行きに反対する者に妨げられ、あとの2回は暴風雨に遭って漂着しているうちに失明し、ようやく5回目にして薩摩国の秋妻屋浦に上陸することができた。彼の宗教的熱情はすさまじい。
この寺の名前は、隋時代には棲霊寺、鑑真時代には大明寺、清時代には法浄寺と変遷しているが、1980年に日中文化交流に果たした彼の功績をたたえて、唐代の「大明寺」という名を復活させたという。
ここから、日本仏教に多大の影響を与えた中国仏教の各宗派を紹介する。
江南地方(長江流域)の禅について紹介するが、その前に、禅宗といえば欠かすことのできない少林寺を先に述べておくことにする。
●嵩山少林寺と剣法(河南省鄭州)
禅宗の初祖ダルマ大師と深い関係のあるのが嵩山少林寺とされている。
唐朝の創業期に、少林寺の和尚が僧兵を出して李世民(後の太宗)を助けて、功績があった。以来、少林寺の僧たちが拳術を修業し、後に少林寺拳法として有名になった。
僧兵といえば、日本では織田信長と対立したために、大虐殺を受けた比叡山の僧侶を思い出す。政治権力を旨く利用する才覚のある少林寺は、現代中国でも、市場経済化の中で物販・観光・武術公演などの商業活動を活発に行っているそうだ。
● 南宗禅について
鎌田は中国の禅について以下のように述べている(私流に解釈して要約する)。
――日本の禅宗や茶道・武士道などに影響を与えた中国の禅は、漢民族の生活の中から生まれたものである。インド仏教の座禅の精神を生活全体に及ぼし、独自な宗教としたのが漢民族であった。禅宗では、知識による理解を離れて、師から直接に体験的に真理を自覚することなのである。その禅のねらいは、自己の本質(仏性)を悟ることである。中国の禅は、北で発達した北宗禅(ほくしゅうぜん)と南で発達した南宗禅(なんしゅうぜん)とに大別される。中国では歴史的に南宗禅から多くの優秀な人材を輩出したので、南宗禅が主流となっている。日本に伝えられた禅宗の各派は主に南宋へ留学した禅僧から伝えられたものである。
ところで禅宗といえば、開祖ダルマ大師が、九年間壁に向かって座禅し瞑想をし続けたと伝えられている。これこそ私が抱く禅宗に対するイメージである。が、鎌田が「仏教が来た道」で描いている「禅」は全く異なるものであることを私に教えてくれた。その典型的な例を以下に紹介する。
●廬陵の米――青原行思
廬陵とは江西省吉安の旧名で、私が三年間赴任した江西師範大の所在地南昌市から汽車で数時間のところにある。吉安は昔学問が盛んな土地で、明代を中心に狀元(科挙試験の最優秀者)を多数輩出した。南宋末の憂国の英雄文天祥もその一人であり、私は彼の記念館を訪ねて吉安市に行ったことがある。その吉安の近くの水田地帯に屹立しているのが青原山であり、そこに禅宗の第七祖・青原行思が静居寺で修行の道場を開いていた。この寺も文革で破壊されたが、今は元通りに復旧されているそうだ。
鎌田は次のようなエピソードを紹介している。
――青原山は樹木が美しく、山中に多くの渓流や滝がある景勝地で、顔真卿、蘇軾、文天祥などが訪れて詩や書を残している。青原山の辺りは一面の水田地帯で、この中から生まれたのが、農民の宗教である禅なのである。中国農民の生活をえがいた古い歌がある。
日出でて作し 日入りて憩う
井を穿ちて飲み 田を耕して食らう
帝力、何ぞ我にあらんや
人民不在の権力者の政治などあてにせず、自助努力でしたたかに生きている農民の生活の中から生まれたのが青原行思の禅である。ある日、一人の僧がやってきて、青原行思に気負ってこう質問した。
「仏法の根本を一言でいうと、どういうことになりますか?」
「廬陵の米はいまいくらだね」
と、青原行思は答えた。
つまり、お前さんのところの米の値段はどうだ、みんな米を食べて元気に暮らしているのか、と農民が最も関心をもっていることを尋ねたのだ。まさしく農民の心の中に入って禅の教えを説いていたのであった。
当時、長安を中心とする仏教は、貴族の仏教であった。大きな寺院を造り、そこで立派な法要を営んだり、仏典の研究をすることが仏教であった。民衆とは全く関係がなく、貴族の社交のために寺院や僧が存在したのである(森野注:鎌倉期以前の日本仏教も同様だと思われる)。
これに対して長江流域に広がった禅宗は、農民の宗教であった。僧もまた農民とともに働き、農民とともに大地に足をつけて日常の生活を営んでいたのである。農民に理解できる仏教として生まれたのが青原行思の禅であったといえよう。この青原行思の系統から雲門宗、曹洞宗、法眼宗の三つの禅の宗派が生まれたのである。
目から鱗が落ちたーーとはこのことだろうか? 私はようやく禅宗の神髄を教えられたような思いがした。しかし同時に、現代日本の禅宗(たとえば京都あたりの禅寺)がこのようなモノなのか?――との疑いも少々いだきながら・・・・。
鎌田が紹介する禅の教えはまだまだある。
ーー江西省南昌市の郊外で修行中の禅僧百丈懐海は労働することに大きな意義を認め、「一日作さざれば、一日食らわず」という名言を残し、労働
(作務)を一日も欠かさなかった。禅宗では農業や寺の掃除、薪割りなどの労働が修行の一つであり、労働着が作務衣と呼ばれる。
曹洞宗永平寺の開祖道元は浙江省の太白山天童寺に留学して修行した。彼が中国の寧波の港に着いたとき、おもしろい経験をしている。
道元は、彼の乗っている船にやってきたある寺の炊事の責任者である老僧に食事を勧めた。が、老僧は、
「ワシがいなければ明朝の食事の支度ができない」
と、断って帰ろうとした。
「なぜです」と道元が引き止めた。「他に代わりの人がいるでしょう」
「老人のワシがこの職をつとめているのは、修業のためであり、他人にゆずることができようか」
道元はこの言葉の意味が分かりかねて、更に訊いた。
「なぜ座禅をしたり、語録を読んだりしないのですか」
「お前さんは外国の立派な人のようだが、まだ修業というものがよく分かっていないようだ」
日本でエリート階級に属している道元には、老僧の言っている意味を理解できなかったのだ。
あるとき、天童寺で用和尚が真夏の炎天下に茸を干す作務をしていた。日笠すらせずに背骨が弓のように曲がっている老人に、道元はいった。
「誰かに手伝わせたらどうですか?」
「他はこれ吾にあらず」(自分の修業であって、他人とは関わりがない)
「暑い最中ではなく」と道元は見かねて言った。「もう少し涼しくなってからなさってはいかがですか」
「更にいずれの時をか待たん」(明日は死ぬかもしれない。今日できなければ明日やればよい、ということは絶対に許されない)
道元は用和尚との出会いで、ようやく自分の修業の誤りに気づいた。こうして、天童寺で修行を続けていた道元は、この宋の国の叢林の中で、さまざまなことを学び、如浄禅師に師事して悟りを開き、その教えを日本に伝えるために永平寺を開いたのだった。
(以上のくだりは森野の小説的脚色を交えて記述)
以上のことより、禅宗が座禅により己が仏に近づく厳しい修練をするだけでなく、日々の労働を尊び、農民など庶民にもわかりやすい教えを説くことを重視していることが分かる。
しかし、禅宗に対しては儒者(江戸時代の朱子学者たち)から厳しい批判のあることを私は知っている。それは、当時、朱子学が幕府公認の学問であり、御用学者・藤原惺窩や林羅山のみならず、民間の伊藤仁斉や荻生徂徠までも、禅宗を社会に役立たない穀潰しの宗教だとやり玉にあげていたそうだ。
当時、特権階級化した僧侶たち(禅宗以外の宗派も?)の堕落が批判をうける一因だったようだ。が、世俗の政治や道徳のあり方に強い関心と方策を示す儒教の立場(経世済民)からすれば、禅宗の出家主義は現実生活を無視する反世俗主義であるばかりでなく、現実生活への関心を損なう、独りよがりで有害な教えだと考えられていたのだ1)。政治権力にすり寄る朱子学者たち御用学者がどれほどのモノなのかはさておき、江戸も安定期にさしかかってくる段階では、宗教家も本来の教義を忘れてしまったのか? とすれば、上に紹介した青原行思たちの日々の実践と心映えの見事さが際だっているように思えてならない。
更にもう一つ付け加えたい。「曹洞宗」の開祖道元といえば、川端康成がノーベル賞受賞講演で引用した和歌を思い出す。
<道元禅師の和歌>
――春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり
道元はこの和歌で、禅の精神を四季折々の花鳥風月に託して歌いあげており、川端康成が日本的美の象徴してこの和歌を引用したようだ。
しかし、この和歌は、道元が中国で学び取った禅宗の精神とは必ずしも結びつかないのだ。つまり、廬陵の青原行思、修行僧百丈懐海、天童寺の用和尚たちのエピソードから想像される南宗禅ーー日々の労働を尊び、農民など庶民にもわかりやすい教えを説く土臭く汗の匂いがする禅宗ーーとは違うように思うからだ。
天台宗の先駆者は慧思とされており、彼の教えを受けて天台宗を開いたのが天台大師智顗である。
智顗が浙江省の天台山に入山してから、その弟子灌頂が東晋時代頃に「国清寺」を建て、天台宗の総本山として名声が確立された。天台宗は、インド僧・鳩摩羅什が翻訳した「法華経」(正式名「妙法蓮華経」)に基づいており、どんな人々もすべて救済できると説いている。
その後、天台宗は衰えたが、中唐時代に再び盛んになることに貢献したのが湛然で、その弟子道邃や行満と最澄は出会った。最澄は行満から天台法門の書籍を授けられ、中国天台宗を日本に伝えるために、比叡山延暦寺を開いた2)。
なお、最澄は中国で学んだ禅や密教も比叡山に伝えており、後には念仏も取り入れている。比叡山には、このような多様な宗門を総合的に取り入れて融合する土壌があったからこそ、後に法然(浄土宗)、親鸞(浄土真宗)、一遍(時宗)、栄西(臨済宗)、道元(曹洞宗)、日蓮(日蓮宗)といった日本仏教の祖師を生み出したのだ。
【江南の仏教の紹介を終えて】
以上、紹介を終えるにあたり、日本との関わりについて触れてみたい。鎌田は以下のように述べている。
――南北朝時代、仏教を保護した帝王として最も有名なのが6世紀前半の梁の武帝(在位、502―549)である。彼は篤く仏教を信奉し、南朝の仏教は頂点に達する隆盛を見せ、首都健康には大寺七百余と言われた。(中略)梁の武帝と深い関係があったのは朝鮮半島の「百済」である。百済は梁に使者を送り、仏像や教典を求めた。そのため梁の仏教は百済に大きな影響を与えた。一言でいえば、百済の仏教は、江南の仏教が移植されたものとみてよい。
以上をふまえて考えると、538年に日本にはじめて伝わった仏教が百済からであることに注目すべきである。つまり、日本の初期仏教は遠く江南仏教の影響を受けていると言えるであろう。さらに、日本の禅宗が南宋(江南)へ留学した僧からもたらされたこともすでに述べた。
こうして、日本に伝えられた中国文化が長安など中原からのものとの印象がつよいだけに、仏教が江南地方の仏教の影響を受けていることは忘れてはならないことである。
今ひとつ、日本語教師としての私が興味深いと思うことは、漢字の音読についてある。日本語の漢字の発音には、大きく分けて「漢音」と「呉音」がある。これに日本語固有の訓読が加わり、漢字の母国の中国人学生ですら、漢字の日本読みにはとても苦労している。漢音と呉音の違いは漢字が日本に伝わった時期と関連している。
以下は、インターネット情報によるものである。
漢字の音読みにおける「呉音」と「漢音」
日本への漢字の伝来は、大きな波としては、5-7世紀に朝鮮半島からの帰化人がもたらした動きと、8世紀に遣唐使や留学僧が持ち帰ったものとが挙げられる。
百済からやってきた帰化人たちは、呉音を使っていたらしい。百済の知識人たちが、中国六朝時代の南朝文化と深いかかわりを持っていたことは上述のとおりである。南朝は歴代、金陵(南京)を中心にした江南地方を根拠にしており、そこで用いられていた発音を「呉音」といった。
一方「漢音」は長安や洛陽を中心とする中原で使われていた。だから李白や杜甫の詩は中原で話されていた発音(漢音)で作詩した。
遣唐使たちが持ち帰ったのは漢音だった。大和朝廷は唐の文化政策に倣って漢音を尊重し、以後漢字の発音はすべて漢音でするようにとの布告を出した程であった。しかしそれは浸透しなかった。仏教用語などの呉音は、すでに日本の文化の中に定着し、そう簡単には排除できなかったのである。
(上の表をクリックしたら拡大されます)
ここでちょっと一休み
◆ 虎渓三笑
意味は「話に夢中になって他のことをいっさい忘れてしまう」ことである。
仏教・儒教・道教における三人の賢者が話に夢中になり、気づくと思いもかけないところまで来ていた、という故事に基づいている。
中国浄土教の前駆者で、廬山東林寺の住職・慧遠は、仏道に専心するために、外出は寺のすぐ近く虎渓の谷川に架かっている橋までと決めていた。
だから、来客を見送る時も、谷川の手前で足を止め、未だ虎渓を渡ったことがなかった。ところがある日、詩人・陶淵明と道士の陸修静の二文人を見送った時、話に夢中で虎渓を越えてしまい、虎の吠える声を聞いて初めてそれと気づいた三人は、ここで大笑をしたというのだ。
これが、「虎渓三笑」と世に知られる故事で、画題になっている。掛け軸の下側に橋を渡る三人が、廬山の大自然の中で小さく描かれており、それを左図で拡大すると、橋上の三賢人の様子がわかる。
以上、江南の仏教の話題を終えて、ここからは北の仏教について紹介する。
華厳経は東アジアにも広く流布した教典であり、その教典に基づく華厳宗は唐の時代に成立した宗派である。日本における華厳宗は、第3祖法蔵門下の審祥によって736年に伝えられた。金鐘寺(後の東大寺)の良弁の招きを受けた審祥は、この寺において華厳経・梵網経に基づく講義を行った。聖武天皇が華厳の教えに深く帰依して奈良の大仏が建立された4)。現在、日本の華厳宗は東大寺を中心として、わずかにその余命を保っているに過ぎないが、その思想は日本文化の中に深く生き続けている。
●竜門石窟寺院(洛陽)――ここに「奈良大仏のモデル」があった!
竜門石窟は敦煌莫高窟と雲崗石窟と共に中国の三大石窟と呼ばれてる。このうち、雲崗と竜門の石窟は北魏王朝がはじめに開削したものであり、この王朝が、王都をはじめはに大同に後に洛陽に遷したからである。
なぜ北魏王朝が仏教に深く帰依して、手厚く保護したのか? それは、北魏が異民族「鮮卑族」であったことと関連がある。彼らは漢民族への文化的コンプレックスから漢民族に同化したが、それは漢民族を支配する必要があったこととも関連している。と同時に、仏教が外来の新興宗教であったことより、彼らの独自性を求める心理にもマッチしていたのだろう。
北魏王朝の前期にあたる雲崗石窟には鮮卑族の個性ある様式の仏像が開削されていたが、洛陽遷都後の竜門石窟では漢化された仏像が多くなった。それは周王朝にはじまり、その後も数々の王朝が都としている歴史的古都洛陽の土地柄とも関係しているようだ。
私は西安に赴任していた頃に竜門石窟寺院を訪れた。そこには、洛陽郊外の伊水に沿って約1キロもある岩壁に刻まれた数々の石窟(全山の造像は約十万体)があった。
竜門石窟で最も有名な石窟は、唐時代の高宗と則天武后によって開削されたものである。完成時には石窟の前に寺院(奉先寺)が建てられていたが、今は朽ち果てて無い。中央に毘廬遮那仏、両脇に二弟子、二菩薩、二天王、二力士、計九体の大仏像が彫られている。
OOO菩薩 弟子 毘廬遮那仏(座高17m) 弟子 菩薩 天王 力士
(上の写真をクリックしたら拡大されます)
(下左写真)対岸から、蜂の巣のように彫られた石窟を望む。遠景の中央画面のあたりに見られるのが奉先寺の毘廬遮那仏大仏。3時間の行程にある様々な石窟のほんの一部である。
(下右写真)奈良東大寺の大仏(インターネットより引用)
仏さんの呼び名はややこしい。
元々インドの仏はサンスクリット語で呼ばれていたものを、中国に仏教が導入されたときに、翻訳僧が漢語の読みを宛てた。
毘盧遮那仏は、略して盧遮那仏、遮那仏などとも呼ばれている。
また他の宗派、インドから伝えられた「大日経」に基づく真言密教では、この仏は「大日如来」と呼ばれている。太陽の光をモデルにして、偉大なる輝ける光明が万物を照らすという意味だ。それなら、日本の神様「天照大神」と同じでは?――とも思われるが、こんなことを言ったら、インド人もびっくりするだろう?
ここで、興味深いことに、上の竜門の毘廬遮那仏が、東大寺の大仏さん(盧遮那仏)のモデルだと言われている。鎌田は、竜門の毘廬遮那仏は、相好が威厳に満ちて、体格は雄偉だと評価している。私の印象では、東大寺の大仏の方が少々角張っていかめしいお顔をなさっているように思われる。吹きさらしの中で千年以上風雪に耐えている竜門の石仏は、意外に穏やかなお顔をしておられて、私はこちらの方に人間的温かみを感じた。
● 雲崗石窟寺院(大同)
○ (上の写真をクリックしたら拡大されます)
ここは、前述の「竜門石窟」の先駆的意義のある石窟である。五世紀に鮮卑族の北魏王朝が大同に首都を置いた。ガンダーラ美術の影響を受けているといわれているが、宗派としては華厳宗とは言えないだろう。
竜門石窟が中国風なのに対して、雲崗石窟の仏像は、鮮卑族という北方異民族的色彩が強いといわれている。初期に開削され、この石窟の代表的な石仏が上の写真の「露座大仏」である。北魏王朝の初代皇帝道武帝の姿を模しているといわれているこの大仏は、面長で鼻筋の通っている彫の深い風貌をしており、漢民族と明らかに異なる。
日華事変(1937年)で日本軍が大同を占領したとき、雲崗石窟は、農民の物置場や便所になって、荒れ放題だったという。日本軍がそれを整備管理し、学術調査によって雲崗石窟を世界にはじめて知らせた。
【石像の表面の無数の穴は何?】
仏像を掘削するときに足場をつくるための穴だと思っていたら、そうではなかった。
塑像の表面に藁を含む泥を塗り込み、その表面に顔料で化粧した。それを支えるための横棒を差し込むための穴だった。しかし、長い年月の間に泥が落下して塑像が露出したために穴が見えるよう (上の図をクリックしたら拡大されます)
になったとのことである。
なお、仏教がインドから西域を通って、中国に伝わって以来、各地に石窟が開削された。まず「キジル千仏洞」からはじまり、途中、「雲崗石窟」、「竜門石窟」を経て、朝鮮、最後に日本の国東半島の磨崖仏にいたる経路を下に示した。
(上の図をクリックしたら拡大されます)
● 空海ゆかりの青龍寺(西安)
青龍寺は、平安時代に遣唐使の随員として長安の都に来た空海が恵果大師から密教を学んだことで知られている。空海は806年に帰国し、高野山に金剛峯寺を建て、真言宗の開祖となった。いま日本各地にある青龍寺は、ここ西安の寺を始祖としている。また空海は、わずかに3年の留学中に仏教だけでなく医学・土木技術まで習得し、日本に伝えたのだから、彼の天才ぶりが想像できる。
青龍寺は、宋時代以降廃寺となっていたが、近年遺跡の発掘調査が行われ、空海に縁のある四国4県と日本の真言宗の門徒衆が、1982年に青龍寺遺跡に空海記念碑を建てた。また、四国から桜の木が1,000本寄贈されて、今では西安一の桜の名所となっている。私は西安滞在の二年間によくここで花見をした。
<末法思想から生まれた二つの胎動>
末法思想とは、釈迦死亡後五百年は釈迦の教えが正しく行われている、その後千年はまだ教えは守られているが悟りを開くことができない、そして、その後を末法といい仏教が全く行われなくて悟りを開くことのできない、というものである。
釈迦入滅後千五百年が経過して末法期に入っている6世紀の中国は、王朝がめまぐるしくかわる戦乱の時代で、人心が荒廃していた。更にそれに追い討ちをかけるように、北魏の太武帝や北周の武帝による仏教弾圧があり、仏僧は危機意識を強く持つようになった。
その中から、教典を石刻する事業(房山石経)と、新しい仏教(浄土教)が生まれた。
□ 刻経の始まりーー房山石経(雲居寺)
北周の武帝の廃仏により多くの教典が焚書に遭った。紙に書かれた教典は簡単に焼くことができるので、教典の文字を石に刻んで永遠に残そうと考える人がいた。その人・静琬は「虎渓三笑」で紹介した廬山の慧遠(浄土教の先駆者)の弟子で、人目につかない深山で密かに教典を石刻する仕事を始めた。
北京市の郊外で、北京原人の周口店遺跡の近くにある「房山石経」がそれで、山中に自然の洞窟や鍾乳洞が多く、老木が生い茂る深山幽谷の中で、静琬は死ぬまでの三十年間その事業に専心した。
彼の死後もその意志は引き継がれ、隋時代から明時代までの約千年もの長きにわたってつづいた。まさに“連続は力なり”で、宗教心の篤さというべきか、その情念の峻烈さというべきか、驚くしかない。
石経一万四千余枚は「雲居寺」の倉庫に収められていた。私は倉庫の窓から眺めるだけだったが、その石の経文は難解で読むことができなかった。今日的に見れば、石経は実用的な意味はほどんど無く、寺の倉庫に眠っているだけである。房山石経は「北京の敦煌」と呼ばれているが、他の歴史的な名所旧跡、たとえば秦の始皇帝の兵馬俑や竜門石窟寺院のような視覚に訴える派手さはなく、雲居寺への訪問客もほとんどいなかった。しかも、残念なことに房山石経の現場への山道が荒れているので、入山禁止だった。それでも一度訪れて、何か崇高なるものに触れてみたいとの思いだけは、石経を見ることによって、幾分か満たされ、満足した。
玄中寺は、「浄土教」の開祖・曇鸞(どんらん)が、北魏時代の西暦472~476年に開山し、つづいて道綽(どうしゃく)、善導(ぜんどう)により「浄土教」を発展・完成させた。この三高僧が作り上げた思想体系が、後年日本に伝わり、鎌倉時代に法然(浄土宗)とその弟子親鸞(我が家の浄土真宗)に受け継がれたのだ。
●石壁玄中寺
2011年の夏、私は太原駅からタクシーを走らせた。1時間平地を走ってから、急な斜面の山道にはいり約2時間ほどで、標高900mの山懐に抱かれた「玄中寺」についた。参道を歩くとようやく山門にたどりつく。献灯所で日本から持参した線香と蝋燭に火をつけてたむける。中国の類似のモノと較べて小さいが、我が心づくしのモノだからそれが一番だ。
大雄宝殿に私たち以外に人影はなかった。
私は子供のときから、仏前の父の後ろに座って、浄土真宗の「正信偈」を“お西”風の節回しで唱和していた。その中に「七高僧」という言葉がある。父と違って信仰心の薄い私は、その意味も知らないまま、2011年玄中寺訪問時に67歳の高齢を迎えている。じつは、その七高僧の中の三人が他ならぬ、曇鸞・道綽・善導の三大師であったのだ。そして、今いる「玄中寺」こそが、阿弥陀仏による浄土信仰の発祥の地なのだ。
約20年前に亡くなった父は、若い頃、二度ほど中国に出征した(日支事変と第一次上海事変)。一庶民の父が中国を侵略しようなどという考えは無かったのだろうが、国家の命令だから仕方がなかった。父は信仰心が篤かったが、無教養者であったので、中国に来ても玄中寺のことなど知らなかっただろうし、信仰する浄土真宗の原点が中国にあったことなど、あまり自覚しないまま他界したのだろう。だから今、その息子の私が「玄中寺」に巡礼していることを天国で知って、どれほど喜んでくれただろうか。もちろん、曇鸞・道綽・善導の三大師と法然・親鸞の両上人も「よくぞ参られた」とお慶びであろう。そんな思いで、私は「正信偈」を読経した。
いま日中関係はギクシャクしている。経済大国にして民主主義国家を自負する日本人の中には、中国の政府や国民を嫌う人も少なくない。もちろん、中国人には反日感情がより強い。しかし、私は中国の悠久の歴史を学び、漢民族の偉大さと日本に与えてくれた仏教など多大の文化的恩恵を思うとき、反中国的感情は希薄である。
玄中寺は、曇鸞からうけついだ道綽、善導の唐時代に栄えたが、そのご廃れて「現存する建物は明、清時代に再建されたもの」6)とのことだ。鎌田は「仏教の来た道」で次のように記述している。
――玄中寺は、大正9(1920)年12月、東京帝国大学教授であった常磐大定氏が発見した。当時は道路もなく、渓流を遡って玄中寺を探し出したのである。それによって玄中寺が浄土教の根本道場であることが明らかになった。戦後、玄中寺には日中両国の仏教徒の友好の寺院として、日本からも多くの仏教徒が訪れている。そのため玄中寺は見事に復興し、大寺院の面目を保っている2,7)。
とすると、玄中寺は創建以来、何度も興廃を繰り返していたのであろう。歴史の悠久なるものを感じる。たとえ、百年、二百年繁栄しても、その後信仰が途絶えると、寺は跡形もなく地上から消え去ってしまうことになる。日本で繁栄している浄土宗・浄土真宗の祖庭たる玄中寺を、日本人が再発見したことはとても意義深いことだと思う。その決め手は、廃墟に埋もれていた石碑だったとか。やはり、石は永遠なるものである。
善導大師(617~681)の経歴によると、末法の世にかなった法を求めて、玄中寺の道綽禅師に会い、弟子となる。『観経疏』を著わし、これまでの『仏説観無量寿経』についての解釈を改め、念仏往生こそ末法悪世の人々のための仏の本意であることを明らかにした。後に法然は万民救済の道を求めて悩んでいるときに、この『観経疏』を読んで、忽然として悟った、とのことである。
善導が念仏の極意を民衆に分かりやすいように語った「二河白道のたとえ」2,8)がある。
一人の旅人が、西方に向って百里千里の長い道を行こうとする時、二つの河に忽然と出会った。一つは火の河で南にあり、一つは水の河で北にあった。河幅は百歩ほどであったが、深さは底知れない。その中間に、東岸から西岸にかけて一本の白道が通っているが、幅はわずか 四、五寸。浪は荒れ狂って道を浸し、炎は燃え盛って道を焼いていた。旅人は広野に一人、茫然と立ちつくしていた。すると、その後方からは群盗や悪獣が、競って殺そうと迫ってきた。進むに進めない絶体絶命の状況に、旅人は悩み恐れる。だが、座して死を待つよりは、と狭い白道を渡ろうと決意する。その時、西の岸から、
「固く決意してこの道を尋ね行け、心を正しく持ち迷うことなく来れ、汝を守ろう」
と呼ぶ声がする。何歩か進むと、今度は東岸の群盗らに、
「この道は険悪で渡ることができないから戻ってこい、危害は加えないから」
と呼びかけられる。しかし、旅人はこれに動揺することなく、一心に道を
念じて前進すると、たちまち対岸に到達することができた。
東岸とは苦難に満ちた世界であり、西岸は極楽浄土である。群盗と悪獣は人間におこる迷いであり悩みである。水の河は貪愛で、火の河は怒りと苦しみである。
善導の「二河白道のたとえ」は絵に描かれ、日本における浄土信仰をすすめる上で大きな役割を果たした。鎌倉時代の法然は「偏に善導一師に依る」と言った。善導の教えによって日本の浄土宗を開いたのである。善導の浄土教こそ、日本にも大きな影響を与え、その教えは不滅の光芒を放っている2) 。
●廬山の西林寺・東林寺
廬山の山懐に抱かれるように西林寺・東林寺があった。先に西林(琳)寺を拝観した。
この寺については、鎌田(仏教の来た道)によれば、「唐時代に建設された西林寺は焼失して、今は六角七層の塔だけが残っている」とある。
しかし、私が訪れたときには、広い敷地に立派な寺院が建てられており、最近再建されたものと思われる。中国では、海外で成功した華僑が故国の学校や寺院の建立に多額の金を寄進することがよくあるそうだ。ここ西林寺もそのようなものかもしれない。今は尼寺になっており、境内を歩いていたら、尼さんが「食事をしてください」と一室に案内された。福建省から来たという5、6人の巡礼が食事をしていた。廬山の山懐深く素朴な信仰を守っている尼さんたちが、巡礼を温かく迎え入れていることに好感を抱き、私たちもご相伴にあずからせていただいた。
次に、東林寺へ行った。東林寺は東晋時代(386年)に名僧慧遠が創建した。慧遠は浄土教の始祖と言われており、後年玄中寺で完成した浄土教の先駆的役割があったと考えていいだろう。唐代に最も隆盛を極め、鑑真和上が日本へ渡る前に東林寺を訪ねと伝えられている。なお、「虎渓三笑」でも紹介したように、慧遠の東林寺は人が容易には近づけないほどの深山の山懐にあるように山水画には描かれている。私がここへ来るまでには、九江市からバスを乗り継ぎ、長時間かけて辿り着くほどの僻地で、学生の案内なしには来られないほどであったが、それでも「虎渓三笑」に描かれているほどの深山幽谷の地ではなかった。
東林寺に入ると、見張り番の僧が私に同伴してくれた女学生の短パン姿を見とがめて、「控え室で長ズボンにはきかえてください」と言った。この日は猛烈な暑さで、他にも脚線美を露わにしているうら若き女性数人がいて、やぼったい僧侶の長ズボンにはきかえていたが、これが寺本来の当然の規律というものだろう。
大雄宝殿でお参りし境内をひととおり見学してから、本日のホテルを探すことにした。
同伴の学生が仏務所の僧に一夜の宿舎の斡旋を頼んだところ、「寺ではお世話できないので外で探してください」と断られた。が、お経らしきものと数珠を持っている私を見とがめた僧が、「この方は?」と尋ねたので、学生が言った。
「この方は、日本の浄土教信者で、中国各地の浄土教の聖地を巡礼しております。ガイドの私は、本日、東林寺をご紹介したくて参りました」
すると、僧の態度ががらりと変わり、「では寺の宿舎を提供いたしましょう」と言うのだ。私のパスポートを確認すると、迎賓館に案内してくださった。部屋に入るとその立派さに驚いた。バス・トイレ、空調が完備しているだけでなく、廬山の絶景が一望できるバルコニーまである一流ホテルなみの豪華な部屋だった。
先の西林寺では食事を振る舞われ、ここでは立派な宿舎まで無料で提供されて感激した。共産主義国家中国では、公式には宗教を否定しており、また、三十数年前の「文化大革命」では紅衛兵により多くの寺院・廟が破壊された。しかし、民衆の中には仏教がなお根強く息衝いていることを実感した。現在、中国では改革開放により、有名な寺院は立派に修復されているが、観光化・営利主義の悪弊に陥っているのではないかとも思われるのだ。しかし、廬山の山懐に抱かれた西林寺・東林寺のようなお寺では観光客をあてにはできず、それがかえって、巡礼をもてなす素朴で宗教本来の活動を守り続けるているのだろう。この一日、このような聖地を訪ねることができたことに、私は満足した。
● 長安の香積寺
玄中寺の第三祖善導大師は、後年長安の都へ移り、光明寺・慈恩寺・実際寺などで民衆に念仏の法を広めた。その教えは一挙に広まり「長安城中、念仏で満つ」と伝えられたほどだった。香積寺は善導大師を供養するために、その弟子たちが706年に建立した13層の霊塔が建てられている。
【礼拝の仕方】現代中国には畳の間がない。寺も同様で、日本のような靴を脱いで中に入り、畳の間に坐するようにはなっていない。仏前に、ひざまずくところに座布団状のものがある。私に同伴した学生が、寺のお坊さんに礼拝の仕方を教えてもらった。
盛唐の詩人王維の五言律詩に「過香積寺」がある。
不知香積寺 香積寺への道と 知らないままに
数里入雲峰 雲わく峰の奥へ 踏み入った
古木無人逕 古木は鬱蒼と茂り 奥山への径はたえ
深山何処鐘 どこからか 鐘の音が聞こえてくる
泉声咽危石 泉は岩に砕けてむせび泣き
日色冷青松 日の光は 緑に映えてひややかである
薄暮空潭曲 日は暮れて 人気のない淵のほとりに禅僧が
安禅制毒龍 煩悩を閉じ込めるように 静かに坐している
この詩から明らかなように、唐時代の香積寺は深山幽谷にあったようだ。しかし、私が訪れた香積寺は西安市から南郊外に向かって一直線にのびる広い自動車道路を一時間ほど行った平地にあり、山奥にあるイメージとはほど遠かった。前に紹介した廬山の「東林寺」と同様に、千数百年前とは周りの環境が大きく変わっていることもあるだろうが、寺の場所そのものが移動している可能性も考えられるのだ。
この寺も浄土教のゆかりの寺として、日本からの巡礼が訪れるのだろう。境内には日本の浄土宗教団の訪問を記念した植樹の標識があった(下写真右)。
□おわりに
鎌田茂雄氏の「仏教の来た道」に触発されてこのリポートを書き、私が実際に訪問した多くの寺の写真と訪問時の印象を添えた。日本の仏教の各宗派にあたえた中国仏教の影響が大きいことを改めて知った。とりわけ、鎌田氏の著書が、我が家の浄土真宗の源流である浄土教の寺院を訪れるよき道標となったことは幸せであった。
我がリポートに重要な示唆をあたえてくれた鎌田氏に深謝いたします。
最後に、中国の「仏教地図」と中日の「仏教交流史年表」を下に示す。
上図の中で私が訪問できなかったのは「太白山天童寺」「天台寺」「静居寺」であった。
日中の仏教交流史(下の図をクリックすると拡大されます)
(上の図をクリックしたら拡大されます)
【文献】
(1)「日本人はなぜ無宗教なのか」阿満利麿 ちくま新書
(2)「仏教の来た道」鎌田茂雄 講談社学術文庫
(3)「無宗教からの『歎異抄』読解」阿満利麿 ちくま新書
(4)中国仏教 ウイキペディア
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E4%BB%8F%E6%95%99)
(5)「正信偈」http://www.e-sogi.com/arekore/kyo2.html
(6)玄中寺の紹介 中国・山西省PR日本センター(インターネットより)
(7)中国中原ルート
http://www.ne.jp/asahi/overland/japan/sanseichugen2.htm
(8)姫路市網干 浄土宗西山禅林寺派大覚寺のホームページより
(図はより鮮明にするために色づけした)
http://www.daikakuji-himeji.jp/jihou/jihou22-4.html