日本での倦怠 ~~留学しようか~~
昆明の大学で1年間勤務したところで、私は70歳となり解雇されて日本へ帰国した。
しかし、日本で夏を過ごし、9月からはじまる大学の新学期も既に過ぎ、秋が深まっていった。日本の家では、家内が作る三度の食事をし、昼間は散歩そして図書館で書を読みながら過ごす毎日、週一回テニスで汗をながし、時々友人に会って旧交をあたためていた。しかし、そのような生活には、過去約10年間の中国での充実した教師生活とくらべて単調で、退屈してしまった。外国生活から戻った私は日本で『浦島太郎』のような存在になっているようだ。
いや浦島太郎と違って、身近には家内がいて甲斐甲斐しく毎日の世話を焼いてくれるし、近くには娘夫婦がすんでいて、毎日二人の孫とも会っている。しかし、我が心の裡には満たされぬ空白のようなものが占めている。生きる目標を失ったからではないか、と思った。
惰性でインターネットの求人広告を眺めることもあったが、もう中国の大学から採用されることは期待していなかった。そのかわりに「中国語の留学生を受け入れる」という広告が各地の大学にあった。8年間の教師生活の間に、教え子を家庭教師として雇い、細々とながら中国語会話を勉強していたが、大学日本語科の毎日では日本語を話すだけで生活できるし、必要なら英語が少々できるので、中国語を話す必要が全くなかった。とどのつまり、中国に8年も住んでいながら、簡単な中国語会話すらできないまま今日にいたっている。
ーー本格的な中国語の勉強をやってみようか。留学生としてまた中国に行ける。
思い立ったが吉日! 私は留学先を物色した。できたら、今まで行ったことのない土地、そんなひとつが中国東北部(かつての満州)にある北国の町大連だった。大連は戦前から日本人が多数すんでいる街なので、歴史的に日本とのつながりが深くて、親日的らしい。それに、日本語熱もあって、日本語教師として大連に赴任したいと思っていたが、チャンスがなかった。調べているうちに、留学生にも60歳とか65歳までとか年齢制限のあることをはじめて知った。が、大連交通大学だけは70歳の私でも受け入れてくれるようだ。
●半年間の授業料:約9,000元(約14万円、テキスト代込み)
●半年間の寮費:9,000元(1,800元/月X5ヵ月、約14万円、水道光熱費込み)
●この他に、往復の航空運賃と海外旅行保険などで約10万円が必要。
以上、約40万円を家内に頼み込んで、年金収入の家計から出してもらい、生活費は私の月々の小遣いでまかなえば、なんとかできるとの見通しがたった(ただし、円・元レートは変動するので円換算額はときどき変動する)。
日本の友人の中には、中国に対してあまりいい感情を抱いていない人がいる。反日感情が高まっている、MP2.5などの大気汚染、河湖などの公害問題、それに食品の安全性に不安があるなどなどで、「そんな中国へどうして行く必要があるのだ。日本にだって工夫すれば、楽しい生活がいくらでもできるだろうに」と言うひともいた。
たしかに、そうかもしれない。しかし、
ーー住めば都さ。もう8年間も中国で楽しく暮らしていた。中国で公害や食品の悪影響で我が身体が徐々に蝕まれていき、十年後に顕在化する? 日本で安全に過ごしていても十年後には80歳となり、どちらにしても我が寿命は尽きることになる。あれこれ思い煩っているよりも、今を有意義に生きることが一番だ。さあ、中国に行こう!
こう嘯いて、私は琵琶湖の水鳥が北国へ飛び去ろうする初春に、勇躍大連へと旅だった。
B 大連交通大学に留学
2014年3月から大連交通大学「国際文化交流学院」で中国語の授業がはじまった。クラスはABCの三段階に分かれ、私はA班(初級前期)である。
すでに日本語教師として8年間も中国で暮らしているのに、今更初級から始めなければならないとは情けないが、それが今の私の実力なのだからしかたがない(今から思うと、無駄に過ごしてしまった8年間を悔いている)。
授業は、月~金曜日、午前中8-12時で課目は下のとおりである。
「精読」とは文法・語彙・基本文型など基本的な中国語を修得するための科目
会話(口語)だけは、優れた教師と評判の高い 尹(イン)老師の中級(B班)コースを受けることにした。
中級会話コースには中国語学習歴2、3年の経験者ばかりなので、初心者の私はコンプレックスに苛まれていた。教師の話すことばが全然聴き取れないし、話せない。だから当てられるのを怖れて、教師と目線が合わないように俯いているという惨めな状態がつづいた。そして、「50分X2」の授業では、40分くらいになると時計とにらめっこで、「早く休憩時間が来て欲しい」と思うほど疲れ果ててしまった。
そんな経験をして、はじめて我が教え子たちの苦労が理解できたのだ。日本語教師の私は、できの悪い男子学生に厳しかった! しかし、「優秀な女学生の中にいてマイノリティの彼らも努力はしていたのだろう」と、教える立場から学ぶ立場に変わった今、はじめて彼らの悪戦苦闘ぶりが理解できるようになった。
予習は完全にしなければ授業について行けないし、ときにある作文発表の宿題をするために徹夜をしたこともあった。こんなに苦労するのなら、初級(A班)の会話授業を受けた方が楽でいいとも思えたが、若いころに英会話学校に通っていた経験から、語学学習は「忍耐あるのみ、それに耐えてこそ道が拓かれるのだ!」と信じて堪えた。
その成果が実って、半年後の9月からの学期では、教師の話すことが半分くらい聞き取れるようになり、分からない言葉でも推測力がついてきた。そうなると、ようやく授業が楽しくなってきたのだ。
会話の尹(イン)老師は黒竜江省ハルビン出身だった。理由はわからないが、「ハルビン人の発音は<北京普通話>より美しくて正統なのだ」という。時には電子辞書 の普通話とは「四声」が違うこともあったが、<教師の声は神の声だ>と信じてついていった。この優れた教師の指導が、私に苦しいながらも学習意欲をかき立ててくれたのだ。また尹老師はもともと英語の教師だったそうで、休憩時間などに英語で交流できたことも私に心の潤いを与えてくれたといえるだろう。2ヵ月ほどして、階段ですれ違ったとき、彼女がいった。
「Senye(森野)、Your Chinese is well in progress!」
この一言がどれほど私を勇気づけてくれたことか。こころ憎いほど、受講者の心理を見抜いている!
そして、もう一度日本語教師として教壇に立ったら、この女教師のような魅力ある授業をしたいものだと思った。『教えることは、学ぶことだ』とはよく言われているが、私は『学びながらも、同時に教え方のヒントも学びとる』ことができた。元日本語教師の目で、尹老師を観察していたのだ。
ところで教師は、長年の経験から外国人の母語の影響を知っているので、変な発音でもなんとか理解してしまうクセができている。私が学ぶ大学の留学生はほとんどが日本人なので、教師は知らずしらずのうちに日本人特有のヘンな発音でも意味を理解してくれるようだ。
しかし、街へでると本地人(大連の庶民)は優しくない。家楽福(カルフール)で店員に中国語で話しかけても聞き取ってくれない。時には、店員同士で私のヘンな発音を笑って、バカにしている。そんなときには、教室での普通話だけでは、生きた中国語を学んだことにならないのだと思わざるを得ないが、今のところはそれしか仕様がないのだ。
その上に本地人は「大連方言」を話すので余計に私にはとまどってしまう。そういえば、江西師範大時代には、地元の南昌人は「南昌方言」を話しており、江西省の他の地域から来た中国人学生でも理解が難しいようだった。
たとえば、南昌人は、
<十[shi 1声 シ]を[si 1声 ス]>と発音するので、私は「四」と誤解してしまった。大連でも同じである。ただし、中国人は「四」なら[si 4声]なので誤解はしないようだ。このように、中国語では四声の区別が単語の意味を理解する上でとても大事であるかがわかる。
中国語の理解不足から、思いがけないトラブルに遭遇した経験が何度もあった。そんな経験を次章で紹介しよう。
2014年私が在籍した初級(A班)と中級(B班)の仲間。メンバーは正規受講者の他に、1,2ヵ月だけ在籍する人もいた。