遙かなる北満の彼方
先のリポート「遙かなる北満州」を綴っているうちに、我が関心はついに黒竜江に達した。かくして、日本語教師8年、語学留学生4年、計12年の中国生活の最後を飾る旅は、2018年7月15日から黒竜江の河岸の町「黒河」へと向かうことになった。
黒竜江(ロシア名「アムール川」)は中国とロシアの国境を流れる大河。モンゴルとロシアを流れるシルカ川とアルグン川が合流した地点から黒竜江がはじまり間宮海峡への河口までを言う。
ロシアと国境を接する周辺諸国
島国日本に住んでいる我々には「国境」という概念が希薄である。
川端康成の名作「雪国」の冒頭に、
――国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。
とある。が、この国境は“くにざかい”と読むべきだろう。
中国に来て、国境(こっきょう)を知ったのは、雲南省の最南端「西双版納」(シーサンバンナ)へ行ったときのことだった。一山超えると向こうはミヤンマーやラオスだという。また、大連に留学してから鴨緑江の丹東へ行くと、川の向こうに北朝鮮が見えた。
今回訪れる黒河からは、黒竜江の対岸がロシア領アムール州でプロペシチェンスクという街がみえるそうだ。国境を接する国同士には、よく領土争いが発生する。独仏間ではアルザス・ロレーヌ(独名ロートリンゲン)が戦争のたびに勝利国に往き来したことは、高校で世界史を学んだ人ならよく知っていることだ。じつは、中国とロシアとの間も例外ではなく、国境紛争が発生していた。
このことは黒河訪問中に追々紹介することにして、旅立つ前に、アジアと欧州にまたがる世界一大きな大陸国家「ロシア」の周辺国について、少々調べてみた。
(上の図をクリックすると拡大します)
ソ連が崩壊してロシアから独立した国家として、欧州ではウクライナとベラルーシ、アジアではカザフスタン、 ウズベキスタン、トルクメニスタンがある(ただし、上の地図に見える国だけを示した)。興味深いのは、ロシアには飛び地「カリニングラード」があることだ。ソ連時代には陸続きだったのが、ウクライナとベラルーシが独立して以来、飛び地になってしまった。先のサッカー・ワールドカップが、ロシアの11都市で開催されたが、その一つがカリニングラードだった。バルト海に面した不凍港として、ロシアはこの都市を軍事戦略上重要な港湾都市と考えている。
地図上の国家の面積と人口の関係を日本と比較すると、以下の三国が特徴的だった。
上の地図からも明らかなように、中国の人口が突出している。ちなみに、中国東北部三省(旧満州;遼寧省、吉林省、黒竜江省)だけでも1億1千万人。
ところで、私が中国語を学んでいる大連交通大学への国費留学生に、ウズベキスタン出身の若者がいる。彼とはワールドカップ大会中、毎日教室でサッカーの話題で持ちきりだった。彼が応援している国は<ロシア>ではなかった。自国がソ連の圧政下にあった過去の悪感情があるようだ。モンゴルは、ソ連時代には経済援助を受けていたが、今はあまり期待できないらしい。結局、現代のモンゴル留学生は、カンボジアからの留学生と同様に、中国への親和性(経済的依存度?)が強いように思われる。外国人留学生との交流をつうじて、こんな事情が見て取れるのだ。
旅行計画
今回の旅が実現したのは、日本語と中国語を教えあっている仲間「陳埼」さんの協力によるものだ。旧満州北部の「加各達奇」出身で遼寧師範大日本語科一年生の彼女は、大連―黒河間の汽車の切符とホテルをスマホ通信で予約してくれた。
そして、彼女とその男友達(ハルビンの大学生)と私の三人で旅をすることになった。
大連とハルビン間は新幹線型高速鉄道なら4時間でいける(400元;7,000円)。しかし、倹約家の彼女は在来線の夜行寝台列車の切符を買ってくれた(新幹線料金の半額)。
ハルビンを基点に大連と黒河を結ぶ直線距離は、日本の東京を基点に結ぶ直線距離でいえば、山口県と青森県に相当する。すなわち今回の「黒河」への旅は、本州をほぼ縦断する距離に相当するのだ。大連➡ハルビン➡黒河へは、それぞれ夜発って翌朝着で11~12時間の旅程である。授業が終わり夏休みに入ったので、私には時間がたっぷりある。12年間の中国生活の最後を飾る楽しい長旅となるだろう。
7月20日、ハルビンで陳さんと彼は故郷へ、そして私は大連へと別れる。
旅立ち(1日目)
7月15日、陳さんの男友達「潘」(ハン)君とはこの日初めて会った。彼はハルビンから、数日前に大連に遊びに来ていたらしい。彼は、私と対面しても目を合わさないし、六日間共に旅をしている間中、私に話しかけることが一度も無く、会話は私からの一方通行だった。
最初は、私が陳さんを旅行に誘ったことに対して、ボーイフレンドの彼が、
――嫉妬心、あるいは何か悪感情を抱いているのでは?
と疑ったが、そうではないらしい。旅を続けているうちに分かってきたことは、内気で人見知りする性格の若者のようだ。私とは話をしたがらないが、陳さんとは恋人同士で旅行を楽しんでいるようだ(上写真の男性)。私もこの人畜無害な奇妙な若者を無視して、陳さんとの旅を楽しむことにした。陳さんは、私にはいろいろ気を使ってくれるので、それで十分だった。
大連駅の待合室でのことである。発車時間の三十分前頃から改札口の前に列を作った。しかし、我々の前に割り込む不心者がいたので、私は肩をたたいて、列の後ろに並ぶように促した。が、そのうちに列の横に人が並ぶと、そこから列が枝分かれして二列になった。結局、数列ができて最後には、左右両脇からも人がなだれ込んで団子状態になり、二つの改札口目指して押し合いへし合いの混雑状態になった。このような光景は中国の駅では必ずおこる現象で、私は少年のころ戦後まもなくの日本で経験した無秩序状態を思い出してとても不愉快になった。現代日本では秩序正しく列を作って順番を待つことなど当たりまえの事なのだが。
ある社会文化学者が日中の違いについて以下のように観察している。
――中国人は列に割り込む不心得者がいても、自分に不利にならない限り鷹揚である。一方、日本人は自分に不利無不利に関わりなく、原則を乱すものに対して不寛容である。
と。この日の場合、大連駅始発で、しかも座席指定の列車なので、乗車の早い遅いには無関係であったが、国民性の違いによるものか、あるいは乗客数に対する列車供給数の多寡によるものか。
午後3時にハルビン行き列車は大連駅を出発した。寝台列車は三段式の寝台で日本の同系統の寝台列車とあまり変わらない。日本のJRと異なるのは、車費(chefei運賃)が、身長によって決まることだ。だからデッキの壁に1.2と (上の図をクリックすると拡大します)
1.5メートルの線が引いてあり、右の少年の場合、大人の運賃の半額となる。
ハルビン(2日目)
早朝の3時半にハルビン駅についた。タクシーでハルビンの観光スポット「中央大街」へ行った。午前4時を過ぎると、もう空が明るかった。6時まで待って、開店したKFCで朝食を摂った。その後、松花江へ向かった。
松花江のスターリン公園
松花江はハルビンを流れる黒竜江最大の支流である。海水浴をしている人々もいたが、中国の河の常で水は土色に濁っている。それに、護岸工事で固めてあるので、砂浜ではなかった。川沿いに散歩道が約2km続いている。公園の所々で地元民が踊りを楽しんでいるのは中国の特色である。
公園の向こうに見えるのが松花江の川中島「太陽島」で、散歩道やレジャー施設があるそうだ。ロープウェイか遊覧船で渡れるらしい。旅行6日目に再度ここへくるので、そのときの楽しみに残しておこう。
じつは、この日の天候は曇りときどき雨だった。
公園の中で私がトイレを探しているうちに、二人と離れ離れになってしまった。雨の降りしきる中、再会するまで二時間を無駄にしてしまった。
雨を避けて適当な時間つぶしの観光地が分かればいいのだが、潘君はこの地 駅の待合室にて
「ハルビン」に住んでいながら、自らリーダーシップを発揮するような様子
は無かった。やむなく我々は駅へ行って、混雑する待合室で発車時間まで6時間も待たねばならなかった。
陳さんと潘君は仲睦まじく、ジャレ合ったり、スマホでゲームをしながら時を過ごした。私もイヤフォーンで中国語会話の音声を聴いたりしていたが、それにしても6時間である。永い中国生活で、私も気の長い性格にヘンシ~ンのだろうか?
黒河行き寝台列車が20時43分にハルビン駅を発った。雨の中私を探し続けてくれたためか、陳さんは発熱して寝台に寝込んでしまった。ここから、潘君の異常ともいえる彼女への介抱が始まった。ティッシュペーパーに水を浸して彼女の額に置き、何度もなんどもとりかえた。そして、何度もなんども手を握り締めて彼女を励ました。それはそれは、下にも置かない手厚い看護だった。
それを見ていて、私は考えさせられた。社交性ゼロ、自分の言葉を持たないような男では、将来が思いやられる。しかし、これほどまでに男から尽されたら、女は幸福感に浸らないではいられないだろう。潘君にはこんな健気な優しさのあることを知って、私は彼を見直した。
愛こそすべて!――そんな歌の文句を信じてみようかと、ふと思った。
黒河(3日目)
ガタンという軽い振動音で目を覚ました。とある駅に止ったようだ。デッキへ行ってタバコを喫う。時計はまだ早朝4時前なのに空はすでに明るく、北国へ来たとの実感がした。
車窓から眺める大地は荒涼として、所々に池塘のような池があった。やがてトウモロコシ畑がえんえんと続いた。と、水田のような植生が見えたが、こんな北辺の地で稲作が可能だろうか? 旅から帰って調べたところ、黒河一帯は世界中で稲作可能な北限地であることがわかった。長江が原産地の米は、品種改良によってこのような寒冷地でも耕作が可能になったのだろう。
車窓からの眺め ときどき目に飛び込む平屋はトタン屋根だった。故郷北海道の光景を思い出す。
黒河まであと一時間となったころ列車は「孫呉」という小さな駅に停まった(右図参照 注)。この地名には見覚えがある。
戦前、孫呉には日本軍の駐屯地があったそうだ。満蒙開拓民の保護と北(ソ連軍)への守りの為と思われる。しかし、終戦時には、黒竜江を渡河して黒河へ押し寄せてきたソ連軍に圧倒されて無力だったようだ。
悲惨なのは日本軍から見放された開拓民たちであった。昨日立ち寄ったハルビンですら北満の地なのに、それより更に北にある黒河など最北端の開拓地からの逃避行は困難を極めたそうだ。
(注)森村誠一著「悪魔の飽食」によれば、孫呉は通常の軍隊施設だけでなく、731部隊(中央実験施設:ハルビン郊外の平房)の支部としての機能も有しているようだ。
黒河到着
7時半ようやく黒河駅に到着した。ロシア人観光客の一団が目についた。黒河はロシアとの国境の街だけあって、市内でもロシア人がよく見受けられた。
ホテルにチェックインし、朝食を摂ってから、黒竜江を見物に行った。
陳さんは一夜熟睡したためか(いや、潘君の献身的な介抱というべきか)、元気になっていた。
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黒竜江を背にして三人の写真、特に、陳さんの服装に注目。私がいった。
「日本ではその服装はセーラー服といって、初中・高中(中学・高校)の女学生が着るものだよ」
それに対して、陳さんが誇らしげにいった。
「セーラームーン(日本のアニメ)が大好きだったの。インターネット通販で買いました」
大学生がセーラー服を着るなんてちょっと不自然に思うが、中国の若者には子供のときから、セーラームーンやコナンの大ファンが多い。陳さんも日本アニメの影響を受けて、大学の日本語科へ進学したのだろう。日本アニメというサブ・カルチャーは世界に多大な影響力がある。
ロシア商品街のとある店に入った。店員が「甘くないチョコレートがある」というので買ってみた。糖尿病予備群の私に最適だが、甘味のないチョコなんて苦いだけで美味しくなかった。
中央街歩行者天国の夜市へ行った。露天の店で飲み食いするのが気楽で楽しい。潘君はビールだけは私と一緒に飲む、が、一言の会話もなし。中央街にプーシキンの銅像のあるのが、ロシアとの国境の街に相応しい。近くに上海が本店の「新華書店」があった(大連にもある)。
(注)余談ながら、黒河でのホテル二泊について付記する。陳さんと潘君は高校時代から相思相愛で、現在大学一年生ながら将来の結婚を親が認める関係にある。当然ながら、二人は一緒に、私は別室で泊まることになった。
黒河(4日目)
本旅行中最大のお目当ての日がやってきた。黒竜江の遊覧船に乗るのだ。対岸はロシアのプロペシチェンスク市である。
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4年前に、北朝鮮との国境の街「丹東」でも鴨緑江の遊覧船に乗ったことがある。繁栄する中国側とさびれた感じの北朝鮮側との差が歴然としていた。一方、黒河市とプロペシチェンスク市との繁栄の差はあまりないような印象を受けた。
ここ数日雨模様の天候のためか、黒竜江は水嵩を増して滔々たる流れの大河の実感があるにはあった。しかしながら、厳冬期には凍結した河の荒涼たる景観を想像するとき、今は両岸の街の間を何事もなく静かに流れている只の河のようで、さしたる感動はなかった。一時間少々の航行を終えて下船した今、あこがれたロマンの大河<黒竜江>へ来た、見た、という事実があるだけ、そして何年も後になって、行ったことがある、という思い出が残るだけなのかもしれない。それでも、計画倒れで実現しないまま悔やむより、行けたことが幸せだったと思うことにしよう。
璦琿(あいぐん)陳列館
午後に訪れたこの地は、高校の世界史の授業で「アイグン条約」として習った記憶がある。もう、60年も前のことであるから、詳細は忘れてしまった。。
中国には愛国教育の場として○○記念館が各地にある。たとえば、私が訪れた所では、南京市の「南京大屠殺(虐殺)記念館」や瀋陽市の「9.18(満州事変)記念館」のようなものであり、日本帝国主義の悪行を厳しく追及している。表現にやや誇張はあるものの、日本人として事実は謙虚に認めなければならなかった。
今回のアイグン陳列館は、清国側領土民を無差別に虐殺したり、不平等条約を強制した帝政ロシアへの怒り・抗議を主題としているので、私は中国への同情心を抱きながらも、中立的な視点も必要かなと思いながら見学した。
帝政ロシアと清国との領土に関する取り決め(条約)は、国際道義などとは無関係で、両国の国力(軍事力)の相対関係で如何様にも変わり得るものであることを、陳列館は物語っている。
満州(女真)族による征服王朝「清国」は、その最盛期には中国史上最も広大な版図を保有していた。その充実した国力を背景に、1689年にロシアと結んだネルチンスク条約では、中国の北方領土が黒竜江より更に北側の外興安嶺にまで及んでいた(下左図)。
(上の図をクリックすると拡大します)
ところが、その170年後、清王朝は国内外の問題を抱えて弱体化しており、ロシアの圧力に屈して1858年に結ばれた璦琿(アイグン)条約では、黒竜江以北の領土を失い、沿海州をロシアー清国の共同管理となり、その二年後の北京条約では沿海州までロシアに奪われるという屈辱的不平等条約を受け入れざるを得なかった(上右図)。こうしてロシアに奪われた領土が広大なものであることを、いやが上にも強調される構図になっている。
アイグン陳列館には、両条約の交渉状況を人形で表現している。ネルチンスク条約時では、清国全権大使はロシア側と対等か、むしろより強い力関係だった(弁髪の清国人の上背が大男のロシア人より高いなんてあり得えないが)。
が、アイグン条約になると、清国側は座ったまま、ロシアの強圧的な要求に唯々諾々と服さざるを得なかった。
アイグン陳列館は黒河市内よりバスで1時間少々の処にあり、かつてはアイグン城がこの地域の行政府であったが、ロシア軍の攻撃、略奪で廃墟となってしまった。以後現在まで、黒河が行政の中心府となっているようだ。
なお、この不平等条約は、清国を引き継いだ国民政府、毛沢東の共産党政府に至るまでその改正をソ連政府や現在のロシア政府に要求しつづけていた。特に毛沢東とスターリンは共に共産主義者の盟友としての蜜月関係の時もあったのだが、領土問題だけは容易に解決しなかった。
このアイグン陳列館は中ソ対立の最中である1975年10月にオープンしたという。このような事情ゆえ、不平等条約を押し付けたロシアを厳しく糾弾する意図が見え隠れする。その一方で、中国政府は、チベットやウイグル自治区への弾圧の手は緩めない。立場を異にする側からは、自己中心的な態度だとの批判もあるかもしれない。
ロシア風レストラン
黒河での訪問をほぼ終え、明日は夜行列車で帰ることになったこの夜、せっかくロシアとの国境まで来たのだから、ロシア料理を食べてみようということになった。ここで、長らく沈黙を守っていた潘君がはじめて自己主張をした「ロシア料理など食べたくない」と。よくぞ言ってくれた! かくして、私は可愛い陳さんと二人でロシア料理店へ行った。
下の右写真の料理名が正確であるかどうか自信がないが、とにかく、ボリュームたっぷりで食べきれなかった。ピザパイが正しければイタリア料理特有のものではないのか?
黒河(5日目)~~少数民族オロチョン族~~
市内を散策した。車の往来が多いところもあったが、交通信号の無い十字路が殆どで、黒河が地方小都市であるといえるだろう。
とある公民館に入ると、郷土を紹介した小冊子があった。その中に以下のような既述がある。
――黒河周辺には、漢族の他に、満州族、モンゴル族、朝鮮族、オロチョン族、ダウール族などの多彩な少数民族が約三十族、居住している。
オロチョン(鄂伦春)族を目にしたとたん、私は生まれ故郷網走の「オロチョンの火祭り」を思い出した。ということは、黒竜江周辺に居住しているオロチョン族の一支族が樺太を経由して、オホーツク海沿岸の網走まで遥々やってきたということになるのか? たしかに、網走にはアイヌ人とは異なる北方民族がかつて住んでいた「モヨロ貝塚」という遺跡ある。
オロチョン族を通じて黒竜江と網走がやはりつながっている可能性が浮かびあがってきた。北方少数民族が信ずる神がわたしを黒竜江の畔「黒河」へと導いてくれたのではないか? 旅から帰ってさっそくインターネットで調べてみた。
以下の記述はウィキペディアに基づいて私が加筆修正したものである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AD%E3%83%81%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%81%AE%E7%81%AB%E7%A5%AD%E3%82%8A
<オロチョンの火祭り>
先住民族の慰霊と豊穣を祈願して行われる儀式で、北方少数民族の衣装に身を包み、太鼓やコロホル(この楽器不明)に合せて炎を囲んで踊る。(上の図をクリックすると拡大します)
歴史
オホーツク海に面した網走では古来より北方民族との交流が盛んであり、モヨロ貝塚などではアイヌ民族とは異なるオホーツク人の人骨が発見されている。それらの経緯からモヨロ貝塚において1940年頃から「モヨロ祭」として北方民族を慰霊する祭が開催されていた。終戦後の1950年(私が小学校一年生のとき)には樺太から引揚げてきたウィルタ(orオロッコ)族やギリヤーク(orニブフ)族の協力を得て「オロチョンの火祭り」が正式な市の夏祭りとして組み込まれるようになった。
名称について
オロチョン族は元来ロシアや中国東北部に居住するツングース系の民族(森林地帯の狩猟民族)を指す言葉であるが、日本においては「北方民族」を指す言葉として用いられた時期があり、その名残からオロチョンの火祭りと命名されている。ただし、現時点でオロチョン族と呼ばれる民族の文化に火祭りと呼ばれるような儀式は無い。
森野の追加情報
上の歴史の項にある「モヨロ貝塚」は米村喜男衛さんという(アマチュア)郷土考古学者が発見・発掘したことで知られている。その事情は司馬遼太郎の「街道を行く」オホーツク街道編でも紹介されている。私は少年の頃、散髪屋さんを営んでいる米村さんに会ったことがある。学者ぶらない気さくな方であったが、「モヨロ貝塚」の発掘研究者として学会でも高く評価されている(司馬遼太郎は彼を<網走のシュリーマン>と呼んでいる)。
以上の次第により、網走市の行事「オロチョンの火祭り」がオロチョン族と直接関連しているとする学術的証拠は未だ弱いといえるだろう。しかし、オロチョン族を含めた黒竜江周辺を起源とする北方諸民族と網走との関連はたしかにある。黒竜江と我が故郷網走が不思議な縁で結ばれていることを再度確認できて私は満足した。
20時58分、我々三人は黒河発ハルビン行き寝台列車に乗った。
ハルビン(6日目)
寝台列車は予定より3時間遅れてハルビン東駅に着いた。
プラットフォームで私は陳さんに旅行中のお世話を謝し、永遠の別れを告げた。彼女はあのボーイフレンドと故郷への帰途につくだろう。
私は大連交通大学に留学すること4年間、これまで学生と日本語と中国語を教え合う関係を続けてきた。第二代の薛さんとは二年間も親しい交流が続いた。第四代の陳さんとは、今年の五月からわずかに三ヵ月間の交流に過ぎなかったが、真面目で情に篤い人であり、もし私が留学生活を続けるとしたら、お互いの語学力を高め合うよきパートナーとなっただろう。
ハルビンへは旅行2日目に来た。時間的余裕があるのでバスでスターリン公園へ行った。しかし、また雨が降り出した。これでは、松花江の川中島「太陽島」へ行っても楽しめそうにない。
結局、スターリン公園と中央大街周辺をうろうろしながら時間つぶしをした。
23時16分発大連行寝台列車に乗った。
大連(7日目)
昼頃大連駅に到着し旅行を終えた。旅行中ときどき小雨がぱらついたが、夏の旅ゆえかえって涼しくてよかった。事故もなく7日間の旅を終えることができた。
大連はよく晴れた天気で、ムッとする湿気を感じた。ハルビンや黒河より南にあるからだろう。
振り返ると大連駅舎が見えた。この駅からなんど旅立ったことだろう。数えてみると、長白山、瀋陽、盤錦(Red
Beach)、秦皇島、そして今回の黒河と、五度この駅で乗り降りしたことになる。26日に航空機で帰国するので、大連駅はこれが見納めになる。
さらば、大連駅!
そして、12年にわたる我が中国リポートもこれで最後になる。
四年間の大連留学中に訪れた観光地