北海道人が好きな雄々しくて逞しいスポーツには、スキー競技のジャンプの他に、もう一つ「相撲」がある。
今でこそ、大相撲の横綱大関の多くがモンゴル人によって占められているが、かつては日本人の中で、北海道出身の力士が横綱・大関にいたものだ。私はラジオにかじりついて北海道出身の贔屓力士を応援していた。その中から代表的な三力士を紹介しよう。
私の好きな力士
まず、吉葉山。下の写真にあるように堂々たる体躯で、寄り切りを得意としていたが、美男力士としても知られている。私がもっとも熱狂的に応援したのは、大関のとき千秋楽まで全勝でおなじく全勝の横綱鏡里と優勝を争った取り組みだった。堂々たる寄り切りで初優勝を飾った吉葉山は、晴れて横綱に昇進した。が、彼の華やかな力士生活はそこまでで、横綱になってからは、怪我に悩まされて不本意な横綱ぶりのまま引退せざるを得なかった。経歴によれば、吉葉山は力士時代の初期に兵隊にとられて、戦地で二発の銃創を負っている。そのうちの一発は現役を引退するまで骨に突き刺さったままだという。伸び盛りのときに戦争に巻き込まれる不幸が無ければ、もっと華やかな力士生活を送っていただろうと思い残念である。
安念山はその次の世代の私が注目した力士だった。大相撲がはじまると、北海道新聞のスポーツ欄には郷土力士の星取表が紹介されていた。幕下以下の力士に安念山というあまり強そうでない変わった四股名の力士がいた。安念という苗字に「山」を付けただけなのだが、変わった四股名であるという単純な理由で、無名時代の安念山を応援したのだ。安念山は、その後着実に番付をあげ、十両そして幕内上位へと昇進し、注目される力士へと成長していった。
安念山が最も光彩を放ったのは新小結で、13勝2敗で優勝したときだった。たしか、千秋楽で褐色の弾丸と異名を持つ房錦に勝って賜杯を手にし、私を狂喜させた。将来は大関に昇進してもおかしくない実力をもっていた。
彼は足腰の強いしぶとい相撲に特色があったが、横綱や大関を張る力士のような圧倒的な強さに欠けていた。晩年には師匠立浪親方の四股名「羽黒山」を引き継いだが、結局、最高位が関脇どまりで引退してしまった。
こうして私は、安念山に無名時代から関心を抱き、引退するまでの約十年間見守りつづけた忘れがたい力士である。
最後に、どうしても欠かすことのできないのが、北の洋である。彼こそ正真正銘の郷土(網走郊外にある北浜)出身の力士なのだから当然だ。
左を差してから右で押っ付けて一気に寄り切る颯爽たる取り口が魅力だった。そのため白い稲妻と異名をとり、東富士・栃錦・千代の山・朝潮といった横綱を恐れさせた(金星10個)。殊勲・敢闘・技能賞を合計10回も受賞しているのだから立派である。大相撲は強い横綱が大看板ではあるが、北の洋のような個性的な力士が相撲の楽しさをいっそう引き立ててくれるのだ。なお、北の洋は引退後、緒方昇の本名でテレビ相撲解説者をしたこともある。
相撲文化を支えるもの
先に示したように、昨今はモンゴル人力士が番付の上位を占めており、日本人力士の弱さが気になる。モンゴル人力士は筋骨たくましいが、体力的には日本人もさほど劣るとは思えない。大連の大学で中国語を学んでいる留学生の中に、モンゴル共和国出身者がいる。彼らも自国の力士が日本の相撲界で活躍していることは知っている。
モンゴルの人口を尋ねたら、わずかに300万人だというので驚いた。日本の人口と較べて、1/40である。いくらモンゴル相撲が盛んだとはいえ、こんな少数のモンゴル人が大相撲を席巻しているのはなぜだろうか?
1 日本のスポーツが多様化して、野球やサッカーなどの他のスポーツに身体能力の優れた若者が取られ、結果的に相撲界に進む人材が少なくなっているから。
2 日本が豊かになったためにハングリー精神が衰えて、モンゴル人と較べて相撲のような厳しい稽古に耐えられなくなったから。
3 裸一貫で力勝負する日本の伝統技能そのものが、現代人の嗜好に合わなくなってきて、支えるべき大衆が相撲への関心を喪ってきたから。
特に、3の問題は大事で、大衆がみずから相撲をやることと、観戦する習慣が無くなっているのかもしれないのだ。私はこの観点から、かつて名力士を多数輩出してきた北海道で、少年時代に相撲とどのように関わってきたかを紹介してみたい。
小学校に土俵があった
私が少年のころ、北海道出身の大相撲の力士を熱烈に応援していたことは既に述べた。相撲への関心が大人だけでなく子供にもあったのだ。昨今流行のサッカー少年団などなかった。そもそも、サッカーなどというスポーツがこの世に存在していることすら知らなかった。草野球はあったが、私たちの最大の関心は断然相撲だった。
土俵が小学校の体育館の片隅にあった。といっても、盛り土をした正式の土俵ではなく、マットで作られた簡易土俵であった。が、円形の俵を模した盛り上がりもあったので、本物と変わらない。そこで、私たちは毎日、昼休みといわず、放課後といわず級友同志が相撲を取っていた。
小学校1-4年までは女教師だったが、5、6年生になると林という若い男の先生が担任となり、よく相撲の相手をしてくれたことも、私たち児童の相撲熱を掻き立てることになったのだろう。我がクラスの相撲熱は単にマットの土俵で取り組むだけでは満足しなかった。当時の児童は一クラス60人もいた。その半数は男の子だが、特に相撲の好きな子15人くらいが集まって、ミニ大相撲大会をやった。「東西の番付表」までつくり、白黒の勝敗を書き込み、優勝者を決めるのだからハンパじゃなかった。
私はクラスで一、二の長身で屈強だったので強かった。酒屋の息子佐藤君も強かった。彼は脇が甘く、簡単に私に双差しを許すが、バンド(褌の代わり)を肩越しに両手でつかむとしぶとくて、土俵ぎわでうっちゃりを得意としていた。笹田君(?)というチビの子もつよかった。綽名が「タンタ」というこの子はすばしこくって、上背のある私をまるで弁慶を翻弄する牛若丸のようにあしらうほど、強かった。
我々は、同学年の他クラスの子など相手にならないほど強かったので、時には他流試合をしてみたくなる。
花相撲
祭りが来ると神社の境内にある土俵で花相撲があった。まず、白い褌をきりりと締めた裸体の本格的な相撲がはじまる。網走市は港町だから漁師出身のあらあらしい若者、また網走郊外の農村地帯からやってきた屈強な若者たちが対戦して賞金を争う。優勝をすれば金一封のほかに網走の酒造メーカー「君が袖」の特級酒が賞品となったはずである。その後に、小学生の学年別のトーナメントがあった。
私は5、6年のころ一回出場した。もちろん優勝を狙ったが、準決勝で他校の子に負けて賞金を逃した。がっかりしながら、控室で服を着ようとすると、学生帽に二つ三つ付けてあった紀章(バッジ)が無くなっていたので、二重のショックをうけた。それは少年雑誌の懸賞で手に入れた宝のようなものだったのだ。おそらく、私と同様にバッジにあこがれていた少年が盗んだのだろう。が、今にして思えば、帽子ごと盗めばいいものを、わざわざバッジだけを盗むのだから当時の子供は可愛いものではないか!
大相撲地方巡業
私が少年の頃には、大相撲は両国国技館で初・夏・秋の三場所と大阪の春場所の年四回興行していたはずである。東京や大阪から遠く離れている網走で、私たちが大相撲を知ることのできるのはラジオ中継か新聞、時に映画館のニュースの映像くらいであった。
しかし、年に一回やってくる大相撲の地方巡業で憧れの力士をこの目でみることができたのだ。いまでも、地方巡業があるようだが、夏の過ごしやすい北海道巡業は力士にとっても避暑を兼ねてよかったであろう。
網走川の堤の砂地(浜網走)に仮設された一日限りの「網走場所」を観戦することは私たちの最高の楽しみであった。楽しみは、まず開催日の前日に、力士が宿泊する旅館巡りからはじまる。旅館の玄関に紙に墨ででかでかと書かれた力士の名前をみるだけで胸が躍った。字の大きさは、横綱大関・幕内・十両・幕下と番付が下がるにしたがって小さくなる。旅館の前で実物の力士にお目にかかることはできなくても、幕内以上の力士なら四股名・風貌・体形などを全て覚えているのだから、想像しながら憧れたものである。こうして市内の旅館巡りをして、当日の観戦への期待がいやがうえにも高まるのだ。
個性的な力士の特色とは?
現代の力士のサイズは、すべてメートル・グラム法で表示されている。しかし、私の少年時代には「尺貫法」だった。尺貫法ほど、力士のサイズを見事に表現する表記法は他にあるまいと思われる。たとえば、
当時、最大の巨貫力士といえば、大起(おおだち)で、体重48貫であった。最長身力士は大内山(おおうちやま)で、6尺6寸7分だ。力士の四股名を言えば、
――これくらいのことをすらすらと言えないようでは、相撲愛好少年とはいえない!
と、私は信じていた。
が、この二人はあまりにも巨大すぎて、やや病的な感じで大成しなかった(大内山はそれでも大関になったのだが)。現代の力士は、あまりにも巨大化しているので、それと較べると大したことはないのだが、食糧事情が貧しかった半世紀以上も前としては異常に大きすぎた。
では、どのくらいのサイズがベストなのか? 私は前掲の安念山や北の洋と同じ立浪部屋にいた時津山(37貫)が理想的だと思っていた。幕内優勝を一回しているし、かなり強かったが、場所ごとに成績にムラがあったためか、結局関脇どまりで終わった。贔屓の安念山と時津山が大関になれなかったのは残念でならない。
では、幕内力士の中で小型力士はどの程度だったのか? 幕内中位から下位にいた神錦がその代表だろう。筋肉質なのでほかのスポーツに向いた体形だったが、力士としては体重不足であまり活躍できなかった。神錦は公式記録では26貫だが、私の記憶では21貫しかなかったはずだ。21貫といえば私の現在の体重80kgと変わらない! 相撲狂いが昂じて、お江戸の相撲部屋の門をたたけば、私だって神錦のように少なくとも幕内力士にはなれたかもしれない。あの国技館の大観衆の前で裸一貫の勝負! そう思うだけで70歳を超えた今でも胸が躍る。だが、父母は私に学問をさせたくて、中学二年のときに網走から京都に移住した。たしかに私は、父母の願いどおり大学を卒業したが、その後、平平凡凡たるサラリーマン人生を歩んだことがよかったのか?
「網走場所」はじまる
網走場所がはじまった。この日、小学校は休校となり、相撲が特に好きな父親の子や金持ちの子は、朝から親に同伴して、土俵に近い上等の席に陣取って観戦する。私は、学友と連れだって、土俵からかなり離れた一般席で観戦である。
本場所ではやらない、お笑い相撲の「初切(しょっきり)」、美声自慢の力士の名調子「相撲甚句」、太鼓の「バチさばき」などの余興が楽しい。そうそう、幕下以下、各段の力士が競うトーナメントもあった。本割では、地方巡業なのだから、いくら名力士同志でも、真剣勝負でないことくらいは少年の私でも知っていた。それと較べて、まだよれよれの「下がり」をつけ、幕内力士のような「大たぶさ」の髪型ではない幕下の力士が賞金目指して真剣勝負をするトーナメントの方が面白かった。
こうして、我が少年時代には毎年やってくる地方巡業を見るのが最大の楽しみだったが、年によっては思いがけないハプニングが発生することがある。
<その一>
大相撲の巡業は、幾つかの部屋がグループを組んで各地を巡回するので、網走場所に全力士が来るわけではない。横綱が来る年は土俵入りがみられるが、毎年というわけにはいかず、ときには横綱・大関が一人も来ないことがあった。ある年には、最高位が関脇の北の洋と清水川の一行がきた。
こうなると、校長先生(おそらく相撲に興味の無い方なのだろう)が、わざわざ学校を休みにする必要がないと判断して、相撲見物を取り止めにした。これに相撲愛好少年の我々は猛反発し、担任の先生に抗議した。当時、子供が学校の方針に逆らうなど、あり得ないことだったが、これだけは私には譲れなかったのだ。
結局、見物したい者だけに休校を許すと、先生方が折れた。我々は意気揚々と網走場所にでかけた。
<その二>
網走場所は空き地に一日限りの土俵と仮設客席を設えての露天興行だった。ある年には、途中から雨が降り出した。傘を忘れた私はずぶ濡れになったが、もちろん最後まで見届けた。観客席のあちらこちらでは傘が開いていたが、私には、東西土俵下の溜まりにいる力士が雨に打たれて気の毒だと思った。
だが、東西四人の力士は雨が降り出したとたん土俵に上がり、四本柱を背に“そんきょ”の構え(右図)で雨をしのいでいるではないか。もちろん二人の力士は目の前で熱戦中である。こうして、四本柱を背にした四人と対戦中の二人の大男、それに行司の七人が土俵上にいることになり、これほど土俵が狭いと感じた椿事は無かった。
今にして思うのだが、金を払っているお客さんの私が、濡れ鼠になって応援しているのに、興行側の力士たちが四本柱に支えられている屋根の下で雨宿りしているなんて、チト、ヘ~ンじゃないか? 三波春夫いわく、
「お客様は神様です!」
は、どうなっちゃっているの?
<その三>
中国で日本語教師をしていたときに、教え子の一人に「宝塚歌劇」に憧れている女学生がいた。彼女は日本留学中にタカラジェンヌの「追っかけ(パパラッチ)」に熱中していたそうだ。少年少女が芸能人にあこがれて群がるのは洋の東西をとわぬ現象なのだろう。
私も力士に対しては同じ思いがあり、相撲の巡業で網走に来たときには追っかけの絶好のチャンスなのだ。私は網走場所の間に、観客席を抜け出して、力士の控室に無断侵入したことがある。だだっ広い敷地のあちこちに幕を張って、力士の控え場所があった。そこの一つをのぞき込むと、向こうからある力士が歩いてくるのがみえた。なんと、それは清水川(当時関脇)だった。私は駆け寄りノートとペンを差し出して、「サインしてください」といった。だが、清水川は不愛想な顔で私を一瞥したあと、無言のままプイと顔をそむけて行ってしまい、河原に向かって小便をした。
私は舌打ちしながら、観覧席へと戻った。
清水川が私の大好きな力士というわけではなかったし、力士の控室に勝手に侵入した自分が悪いのだという思いはあったが、憧れていた力士への思いを踏みにじられたような悲しみがあった。そんなことぐらいで大相撲が嫌いになったわけではないのだが・・・
むすび
日本人力士によって支えられていた伝統文化「大相撲」が、少し前からハワイ出身力士に侵食されはじめ、今は完全にモンゴル人力士に支配されているといっても過言ではないだろう。
しかし野球に目を転じれば、イチローが大リーグで活躍していることをアメリカ人が歓迎しており、むしろ外人選手を受け入れることがアメリカ野球の発展につながっている、とアメリカ人は考えているのだろう。ただし、アメリカ人選手だって活躍しているという前提があるのだ。もし、クリーンアップトリオが外人選手でしめられており、米人選手の打順が6,7,8番でしかなかったり、投手でも主力が外人ばかりで、米国人は中継ぎにしかでられないほど米人選手が弱体化するような事態になったとしたら、アメリカ人は自国の野球文化に危機感をいだくに違いない。
日本の大相撲はまさにそのような危機的状況にあるのではないか? けっして、国粋主義的な狭い視野から、外人力士を排除するようなことではなく、なぜ日本人がかくも弱くなったのかを知りたい、と私は思ったのだ。それは、相撲文化への日本人の意識が変化してしまったからではないのか? かく申す私ですら、現在、少年時代のような熱烈な相撲愛好家ではなくなっていることを、告白しなければならない。
そこで、かつて横綱・大関を多数輩出していた北海道で、少年時代を過ごしていた私は、その同時代の北海道網走での相撲に対する空気みたいなものを、自己体験を通じて紹介することにした。そこに、我が疑問への回答へのヒントがあるかもしれないのだ。ただし、正確な解答を得るには、60年前と比較して現代網走の大人と子供の相撲に対する意識を知らねばならない。私にはそれがわからないから、本エッセイから断定的なことは言えそうになく、尻切れトンボだとの読者の批判は免れないだろう。
また、我が少年の体験は日本のごく限られた一地域のことにすぎない。私は中学二年から京都に移り住んだ。千年以上にわたり、歴史・文化・政治の中心地であった京都の小学校に当時土俵があったとは、とても思えない。力士にしても、京都市出身者は少ない上に大成したためしがない。唯一の例外として、「大文字」という四股名の力士がいたが、最高位が前頭上位どまりであった。滋賀県もそうだが、歴史の古い文化的雰囲気のある地方では、相撲への関心が薄いのであろう。日本のなかでも相撲に対する歴然たる地域差があるのだ。
今回、本エッセイを書くにあたって、インターネットで種々の検索をしてみた。その結果、東北・四国・九州に奉納相撲という神事として、大人や子供が相撲をする伝統が息づいていることを知った。だが、そんな日本の各地での伝統行事は、現代でも盛んな「祭り」が観光事業とセットになっているのとは異なり、もはや細々と命脈をつないでいるだけなのかも知れない。
石川県出身の友人は「小学校に四本柱の相撲場があった。高校には相撲部があって国体でも活躍していた」と、また香川県出身の友人からは「小学校の運動場の片隅に屋根付き土俵があり、子供の日には、男子児童が全員、ふんどしで相撲大会に出ることになっていた」と、いずれも我が故郷に劣らず相撲が盛んで、相撲が子供の日常近にあったことを伝えてくれた。だが、そんな伝統も今は廃れて、それが相撲文化の衰退と関連しているのではないだろうか?