いじめっ子、いじめられっ子(1年生)ーー>Dijest版~我が半生へ移行
ガキ大将、教師に反抗(2年生)ーーーーー>Dijest版~我が半生へ移行
父に隠れて、私は悪事を働いたことがある。小学校三、四年生のころだったろうか? ある年上の友人に誘われて、盗みをやっていたのだ。それも一回だけでなく、半年以上続いただろうか? 網走は港町なので、漁船の古くなった機械類や部品が港の岸壁近くに累々と露積みされていた。それを夜中にそっと盗み出し、屑鉄屋に売って小遣いを稼いでいたのだ。
年上の悪友はそのうちに素行の悪さが知れて、少年補導員の指導をうけることになり、それがきっかけとなって私の悪事も終わった(幸い共犯者の私は悪事が露見することもなく済んだ)。しかし、それにしても、私がこんなことを罪悪感も無しにやっていたのはなぜだろうか? 未だにわからない。
6年生のとき、市内の寺のやり手の住職が、網走でボーイスカウト団を組織することになった。経緯は不明だが、市内の小学校に呼びかけて隊員の推薦を募ることになった。私はクラスの選挙で仲間に推されて、網走市初代のボーイスカウトの隊員になった。<ボーイスカウト>とは自然の中で活動しながら、青少年の健全な育成を目指してイギリスで創設され、世界中に広がった活動であるそうな。
大津市のあるラーメン屋の壁紙
冬 雪下ろし
網走の冬の生活に欠かせないのが「雪下ろし」だ。一冬に数度大雪が降り、そんな日には小学校が臨時休校となるので、我々子供たちには嬉しい日となる。が、わたしは父に命ぜられて、よく雪下ろしをしたものだ。平屋の屋根とはいえ、落下すると危険だったが、冬季には家と家の間にうずたかく積もっている雪がクッションとなって安全なのだ。屋根の頂上にあがると周りがよく見晴らせるし、遠くにあるパチンコ屋の拡声機から流れて来る歌謡曲も聞こえた。雪下ろしをしながら聞いた歌は春日八郎の「お富さん」だった。何度も聞いているうちに歌の意味は分からないまま、歌詞を全部覚えてしまった。しかし、
「粋な黒塀 見越しの松に 仇な姿の 洗い髪・・・」
は、大人の前、とりわけ学校の先生の前で披露できる歌ではないことが、容易に想像できた。
冬(その2)
豪勇の象徴ジャンプ台
人が鳥のように大空を飛ぶ! それは勇気の象徴でもあった
オリンピックの話題のついでに、冬のオリンピックの華ジャンプ競技にまつわること話したい。冬季オリンピックのジャンプ競技は70m級と90m級で競われる。私は、あるとき、札幌オリンピックの舞台となった大倉山の90m級のジャンプ台の先端に立ったことがある。
ジャンプは文字通り<飛ぶ>と言われている。だからジャンプ選手を「鳥人」と形容されている。だが、大倉山のジャンプ台に立って下を眺めたときの印象は、まるで高層ビルの屋上から真っ逆さまに跳び下りるときのような気分で、恐怖感を抱いた。飛ぶのではなくて落下するのだ! 実際には、競技者はかなり急傾斜の雪面に着地するのだから落下時のショックは軽減されるような構造になっているようだが、それにしてもジャンプは普通の人ができるような競技だとはとても思えなかった。
じつは、網走にも郊外の山にジャンプ台があって大人が飛んでいた。が、それは、60m級(40m級?)のジャンプ台だった。それでも、少年の私にはとても恐ろしくて、飛ぶことはできなかった。私は、冬になれば、家からスキーをはいて、近くの山まで出かけ、当時リフトなどなかったスキー場をえっちらおっちらと登り、滑り下りることを楽しんでいた。登る時間とくらべて滑り降りるのは、ほんの1,2分の短時間である。が、この冬のスポーツを楽しんでいるうちに北国の子供は、知らず知らずのうちに足腰を鍛えていたのだろう。それは、相撲をするときの基礎体力をつけることにもなっていたのだ。
スキー場のゲレンデの脇には必ずジャンプ台があった。雪で固めて作られたジャンプ台の高さは、年齢に合わせて、1m、2m、3mと各種あったが、小学生の私は、3mのジャンプ台ですら飛ぶのが怖かった。だから、オリンピックの種目である70m級と90m級はいうに及ばず、60m級ですら永遠に挑戦する気持ちにはなれなかった。
この冬の競技はノルジック種目と呼ばれるように、ノールウェイが起源であると言われている。厳しくて長い冬の季節に、ヴァイキングの子孫である男たちが勇気を試すために始めたのではないか、と私は想像する。札幌オリンピックで活躍した笠谷選手をはじめジャンプ競技の有力選手もまた北国の出身者である。冬が長くて雪の多い地の利だけでなく、道産っ子(北海道人)が北国人特有の武勇に優れているからだと思う。私にはそのような勇気はなかったが、ジャンプ競技の勇者を多数輩出している北海道人であることをいささか誇りにしているのだ。
「Yahoo知恵蔵」から引用
【質問】昔からずっと思っていたんですけど…
何でスキージャンプの人達ってあの高さから落ちても死なないどころか怪我さえしないんですか? 特別な訓練でもしているんですか?
【答】あの高さとは言いますが、実際ジャンプ中は地面とほど遠くない距離をずっと飛んでいるだけです。
地面よりもっと上にいて鳥のような高さを飛んでいるわけではありません。ただスピードが出ているので、バランスを崩して着地に失敗したら大けがします。
着地に成功しても、あんなスピードであんな高さから着地してるのだから骨折れちゃわない?って思うかもしれませんが、実際地面も傾いていますし、着地も斜めから入るので、衝撃は直にはこなく、あまりダメージを受けないようになっているのです。
早春(二、三月)
豪雪の盛はすぎていたが、二月に流氷が接岸すると寒さが一層厳しくなった。漁ができない港町網走は静まり返り、ひたすら春の訪れを待ち焦がれる気分がただよっていた。三月頃、網走に逸早く春を告げる花は福寿草だった。その英名がFar East Amur adonisで、Amur(アムール)と呼び名があるところを見ると、この花はアムール河(黒竜江)周辺が原産地の一つかもしれない。網走郊外の残雪の間から黄色い花が顔を出しているのを見ると、春近しの予感があった。
春(四月)パッチ遊び
雪解け水が路上を幾筋にもなって流れだす。そのころになると子供(小中学生)は決まって<パッチ>(本州では<めんこ>と呼ぶ?)という遊びに熱中したものだ。
パッチとは直径10cm前後の丸型の厚紙に武者絵などがカラフルに印刷してあるもので、四、五十センチの板の上にパッチを置き5~10人が立ったまま板の周りを囲んでゲームが始まる。順番が来れば、自分のパッチを板にたたきつける。その勢いで板上のパッチをひっくり返すか、板の外にはじき出すと自分の物になる。中にはだぶだぶの袖の服を着て風のあおりを強め、パッチをひっくり返し易くするような試合巧者もいた。私はいつも負けてしまい、母に5円か10円をおねだりして、新しいパッチを露店で買ってまたゲームに参加したりした。毎日この遊びをやり過ぎると、野球の投手のように肩を痛める。が、それが慢性化することはない。雪解けが終わり路上が乾燥する4月の終わり頃になると、不思議とパッチ遊びは自然消滅してしまった。誰かが決めた約束事ではないのに、毎年まいねん、これが決まったように繰り返されていた。
春(五月上旬)
網走は本州とは一ヵ月遅れで本格的な春の到来となる。当時、庶民の交通手段としては馬車、冬季には馬橇が使われていたことを既に紹介した。馬が生き生きと活躍していたということは、街中のあちらこちらに馬糞がばらまかれるのは止むをえない。それが冬季には根雪の下に閉じ込められているが、雪が解け去ると乾いた路上に馬糞が露出することになる。こうして、内地(本州)では「風薫る五月」が、網走では「馬糞舞う五月」となるのだ。
晩春(五月中旬)
網走の遅い春のクライマックはやはり「桜」の開花であった。郊外の二見ヶ岡の桜園では、網走商店街主催の花見の宴が開催され、市民に交じって我が家も母の作ったおいしい弁当を持参して花見を楽しんだ。
網走には我が父の姉の嫁ぎ先で、手広く呉服店を営む親戚があった。その跡取り息子のタケオさんは、私より十数歳年上で既に東京理科大を卒業していた。そんな理科系の彼に、商才があるわけではなく、大店を引き継ぐ自信がなかったのだろう。いとこの彼は私を可愛がってくれたが、他人の前では陰気な雰囲気を漂わせていた。
タケオさんが、ある年の桜園で酒に酔った勢いからなのか、大勢の前で「呑んでまって、酔っぱらって」と即興の歌を歌いながら、空の一升瓶を担いで踊り出したのには驚いた。拍手喝采をあびた彼は、主催者から一等賞の一升瓶を受けた。「花笑う」桜園には人を狂わす不思議な魔力が潜んでいるのかもしれない。彼はその時、得意満面の笑顔を浮かべていた。しかし、それは一時の憂さ晴らしに過ぎなかったのだろう。
結局、彼の代で大店は傾いてしまった。彼の不幸は、自分のやりたいことが別にあったにも関わらず、親が遺した立派な家業を心ならずも引き継がねばならなかったことにあるのだろう。一方、私には親からさしたる引き継がねばならないものがなかったので、自分の道を自由に選ぶことができた。
理科ちゃん人間のタケオさんは、既に亡くなっているが、その息子さんが医者になっており、父の果たせなかった夢を引き継いでいる。
夏
草競輪の英雄
転倒してもなお追いかける選手
我が故郷の行事のひとつに、毎年夏前に開催される草競輪があった。プロの本格的な競輪ではなく、北海道各地からやってくるアマチュア選手(おそらく、自転車屋が中心の競輪愛好家なのだろう)が競う大会だった。なんと言っても、選手のユニフォームが赤黄青紫白とカラフルでかっこよかった。
競技場は現代のプロ競輪場のようなすり鉢型ではなく、学校のグラウンドが一日限りで使われていた。平たいから、コーナーを曲がるときには車輪を滑らせて、横転することがときどきあった。
ある年の大会では、先頭の選手が横転したのがきっかけで、出場選手の約半数が連鎖的に転倒してしまった。転倒を免れた選手が、これ幸いと先行していった。転倒した選手が体制を立て直して追いかけるが先頭集団との差は大きい。優勝者が先行集団の中からでることは間違いないと思われた。
ところが、道南の森町(?)出身の竹内という選手が猛然と追いかけて、最後のストレッチで先行者をゴボウ抜きにして優勝をしてしまったのだから驚いた! ウイニングランをする竹内選手の健闘を観衆が大喝采で讃えた。もう60年も前のことなのに、無名のこの選手の名前を今でも憶えているのだから、少年の私が彼を稀代の英雄と憧れたのはいうまでもない。
この種の英雄譚はめったあることではないが、稀には起こり得ることだ。それをやってのける競技者はよほど優れた能力の持ち主に違いない。
後年、1972年のミュンヘンと1976年のモントリオール両オリンピック陸上種目で、長距離5000mと10000mを連覇した(金メダル4個)フィンランドのラッセ・ビレンという天才選手のことが思い出される。
特に最初の金メダルを獲得したミュンヘンの10000m決勝は、いまでも記憶に残る伝説のレースであった。彼は途中(四、五千メートルあたり)で、選手と接触して転倒しながらも立ち直り、ついに世界新記録で優勝してしまった。信じられない強さである。
私はビレン選手の快挙に感動しながら、少年のときに見た草競輪の竹内選手を思い出したものだ。少年のときの一瞬の感動はいつまでも忘れられない。
つぎーー>