私はオホーツク海の港町、網走に生まれ、13歳(二中一年生)まで過ごした。その後、京都に移住し40年間、織物地帯「西陣」で過ごし、現在は琵琶湖を望む大津市に住んでいる。
故郷を離れてから、長く住んだ西陣に友人と呼べる人はいないし、今住む大津でもその大半を中国で過ごしたので、隣人の名前すら知らない。こうして、我が人生を回顧してみると、中国だけでなく日本で住んだ各地でも私はエトランゼ(異邦人)として、根無し草のように過ごしてきたように思う。
2018年夏に中国から帰国した今、大津市が終の住処となるはずである。毎日、琵琶湖なぎさ公園を散歩する。対岸には三上山が霞んで見え、湖上にはヨットの三角帆が点々と浮かび、ときどき大津港から遊覧船が出航する。
ふと、懐かしい故郷の海が脳裡をよぎった。天都山から眺めるオホーツクの海、知床連山、帽子岩の浮かぶ網走港と漁船、そして網走の街・・・・・。
帰宅後、パソコンを開いてインターネットで網走をキーワードとして検索したところ「網走歴史の会」がヒット、更に年表シリーズ「網走総合年表」にたどり着いた(http://okhotsk.vis.ne.jp/rekishi/sougo.html)★1。
それは、網走関連の新聞記事を報じた4紙から引用したとあり、往時の生まれ故郷を思い出すのにとても参考になった。ボランティアでこのような貴重な資料を作成した編集者に敬意を表したい。その記事の中で、私が4~13歳の頃の年別記事に目を瞠った。
――大相撲の網走巡業/郷土力士「北の洋」の入幕/入浴料・理髪料・映画料金の値上/(頻発する)服役囚の網走刑務所からの脱走/桂ガ岡グランドでの自転車競技大会/浜網走駅からの塩サケの輸送/郷土史家<米村喜男衛さん>の表彰/捕鯨船の鯨の捕獲/わが中央小学校の完全給食実施(鯨肉と脱脂粉乳、パンが出ただろう)/モヨロ祭り/馬車による少女の轢死/コソ泥の盗難、などなど。
どれもこれも往時を思い出させてくれる懐かしい記事である。
余談ながら、「網走歴史の会」は「網走文芸年表」も掲載している
( http://okhotsk.vis.ne.jp/rekishi/bungei.html)★2。その平成6年(1994年)の記事に、
―― 森野 昭 小説『離れ猿』で「潮文学賞」受賞。
とある。東京での受賞式に北海道新聞の記者が出席されていたご縁で、当新聞の文芸欄に紹介されたのだろう。名前が「網走文芸年表」に記載され、私が網走市民の一人に加えられたことは、とても名誉なことで嬉しい。
さて、この「網走総合年表」を眺めながら、少年時代の思い出が蘇ったので、以下に二、三ご紹介することにしよう。
(なお、★1と★2のURLはなぜか現在クリックしても開かれない)
Yahooの検索による現代の「網走市地図」を編集して、下に昭和20年代の地名を記入したので、ご覧いただきたい。
二人の少年溺死事故(1949年、私が6歳のとき)
ウイキペディアによると、浜網走駅について以下のような記述がある。
――浜網走駅は、現在の南3条西4丁目から同西1丁目までの網走川側が構内であった。1948年撮影の米軍航空写真では構内網走川側に入り江状の貯木場が設けられているが、1953年の写真では埋められている(注)。
これから紹介する「水難事故」は1948~1953年(私の年齢5~10歳)の間に発生したことは間違いない。
私は、南8条東1丁目に住んでいたある夏の日に、近所の子供五、六人と一緒に浜網走(駅)へ水泳に行ったことがある。その場所は上の記述(と写真)にあるように網走川沿いにあり、網走川への「入り江状の貯木場」のあたりで、水泳ができる場所だったようだ。現在「中央公園」と呼ばれる付近にあったようにも思うが、正確な記憶はない。
私はまだ6歳の幼児だったので、堤にいて泳いでいる仲間を眺めているだけだった。そのとき、私より年長の二人が、水面で手をバタバタさせているのが見えた。ふざけ合いながら泳いでいるのだろうくらいに思っていたら、そのうちに大人たちが駆けつけて来て、大騒動になった。二人は溺れ死んだのだ。
『網走歴史の会』<網走の総合年表>によると、1949年(昭和24年) 8月29日の記事に以下のようにある。
――南8東1の男児(8)と友達(9)の2名が網走川で遊泳中溺死。
これで、私の幼児体験がほぼ間違いでないことがわかった。ただし、正確には溺死した場所が、網走川ではなく川近くの浜網走(駅)の敷地内なのだが。現在75歳の私は、父母の死にも立ち会ったが、友人知人が目の前で事故死した経験は上の事件が唯一である。それだけに、私は6歳の幼児にすぎなかったが、未だに鮮明に覚えているのだ。
なお、溺死した南8東1の8歳の男児(私より2歳年上で小学生のはず)とは、私と遊び友達だった黒住神社の宮司様の息子さんだったようにも思うが、記憶が定かでない。
当時、黒住神社は網走橋から南に真っすぐ向かう中央通りと山際の八条通りが交差する所(T字路)にあったが、現在は駒場の方に移転しているらしい。
(注)埋め立てられた後の浜網走では、私が中央小学校時代、毎年夏に大相撲の網走場所が開催されていた。その話題は「相撲」の項で紹介しているので、お読みいただきたい。
明るい繁華街と夜の暗闇が支配するところ
戦後まもなくの頃、網走市内では四条通りが繁華街であった。その四条通りと中央通りの交差点付近には、西南角に伊谷呉服店、東南角に田辺酒造本店があり、業種は異なるが市内で繁栄を競い合っている観があった。
その交差点あたりは夜でも明るかったが、中央通りを四条から八条へと南に向かうにしたがって暗闇が深まっていった。少年の私は稀に中心地から家路につくときには、街灯もない漆黒の闇が支配する黒住神社あたりに、物の怪か人さらいが待ち受けているような不安がよぎり、必死に駆け抜けて八条通りの自宅までたどり着いた思い出がある。
釧網本線の列車脱線事故
南8条通り1丁目あたりにある我が家には、小さな裏庭に鶏小屋や菜園だけでなく、防空壕まであった。1943年(昭和18年)生まれの私には、この防空壕が唯一の戦争体験(?)である。さて、裏庭の背後には、我が家より数メートル高い盛り土があって、そこに釧網本線(網走と釧路を結ぶ)の鉄路があった。
その向こう側には天都山の急斜面が迫っていたが、冬になるとその斜面が小さなスキー場になっていた。滑り降りると、盛り土になっている線路の付近で止まる。今の時代なら、こんな危険な場所で子供にスキー遊びを許すはずはないだろうが、当時我々子供は親から禁止された記憶がない。
危険な遊びといえば、釧網本線のレールの上にジュースの蓋を置くこともやった。レールに耳をあてると、鱒浦駅の方からやってくる汽車のカタコトという車輪音がだんだん大きくなってくる。列車が通過した後、ジュースの蓋は見事に平べったい金属の勲章に出来上がり、私の宝物になった。ただし、運悪く父に見つけられて、激しい叱責をうけた(当然です。約70年も前のことで、時効が成立しているでしょうから告白いたしました)。
原因は不明だが、我が家のすぐ近くで機関車の脱線事故があった。子供だけでなく、物見高い大人も蒸気機関車の周りを取り囲んだ。だが、『網走歴史の会』の<網走の総合年表>には、この事故が記載されていないのはなぜだろうか。単に、機関車が脱線しただけで、脱線転覆のような大事故ではなかったからか? しかし、1948年(昭和23年)には、
――伊谷呉服店2階売場から軍手ほか350点(時価9万45円)盗難。(注)
といった、小事件まで掲載されているのだから、網走新聞には一面に脱線記事が掲載されているはずだ。
(注)余談ながら、当時伊谷呉服店は、シェパード犬を飼っており、子供の私などは近寄り難いほど獰猛な面構えをしていた。呉服店はその犬を番犬として夜には店内に放していたそうだ。だが、賊が窓ガラスを割って店内に侵入すると同時に、その犬は外に逃げ出たという。翌朝、店主は「お前を何のために飼っているのだ、役立たずめ!」と犬を叱りつけたそうだ。犬にしてみれば、番犬ではなくてペットのつもりだったのでしょうね。
なお、四条通で手広く営業していた伊谷呉服店とその隣の田辺酒造は、今その地にない。漢詩「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず」にあるように、あれから60有余年を経て、人もモノも建物も変わってしまうのは浮世の常だろう。ただし、純米吟醸「君が袖」は、蔵元が廃業したが、平成7 年に地元の有志により復活したとは嬉しい。
つぎーー>