1 大津名所探訪

大津名所探訪
大津名所探訪2

 

源平ゆかり 

の地

 

 ■長柄神社 

平忠度は都落ちのとき、藤原俊成に和歌を綴った巻物を預けた後、一の谷で討死し、平家一門も滅亡した。俊成は、朝敵となった忠度を哀れみ、託された巻物の中から一首を『千載和歌集』に「読み人知らず」として収める。

 

<故郷の花といへる心を詠み侍りける 読人知らず> 

ささなみや志賀の都は荒れにしを 昔ながらの山桜かな

 

大津名所探訪3
この写真は五、六年前に撮ったもの。2019年この地を訪れると、老木は伐り取られていた。平家物語の諸行無常ひびきあり、を思わざるをえなかった。

  この和歌は忠度が23歳の時に歌合せで詠んだもので、都落ちはそれから20年後のことだった。志賀の都は、人々の反対をおして天智天皇が大和から遷都し即位した地であるが、天皇の死後、皇位をめぐる争い「壬申の乱」によってわずか5年で廃都となった。

 柿本人麻呂はこの宮跡を訪れ、長歌を「万葉集」に残している。その意は、

  

――天智天皇は大和を捨てて奈良山を越えて、鄙の国近江の大津宮で天下をお治めになったという。しかし、その大宮御殿には、今は春草が生い茂り、春の陽がかすんでいて何も見えないほど荒廃している。 

 

と叙事的に歌っている。 

忠度は、人麻呂のこの長歌を想い起こし、本歌取りの技法を用いて、かつて華やかであった天智天皇の志賀の都は、今はすっかり荒れ果ててしまったけれども、長等山の山桜だけは昔のままに咲いていることだ、と、「ながら」と「長等」を掛けて、移ろいやすいものと、いつまでも変わらないものの象徴として志賀の都、山桜をやさしく歌いあげている。

 

■義仲寺

  滅びゆく者の哀れは、源氏一族にもある。平家討伐の先陣は、信濃から挙兵した木曽義仲(源義仲)であった。彼の軍勢は、越中国礪波山の倶利伽羅峠の戦いで10万の平維盛率いる平氏を破り、破竹の勢いで京都に進軍する。しかし、京で後白河法皇と対立した上、都の治安にも失敗した義仲は、ついに鎌倉の頼朝から遣わされた義経軍と戦い、宇治川の戦いで敗北する。敗走した義仲は近江の国粟津が原(大津市)で戦死した(享年31歳)。

 

義仲の墓所は、室町時代に没地近くに開かれた大津市内の「義仲寺」にある。 

平家物語には、「木曾殿は信濃より、巴と山吹の二人の便女を具せられたり」と記す(便女(びんじょ)とは美女あるいは召使の意)。

大津名所探訪4義仲寺

 

色白く髪長く容顔優れた巴御前は、一人当千の偉丈婦で、義仲の最期の時、「女のお前はどこへでも落ち延びよ」と説得されて東国の方へ落ちのびたといわれているが、行方不明である。しかし、なぜか、彼女の墓石も義仲寺にある。 

さらに、義仲寺には江戸時代の俳人・松尾芭蕉の墓があることでも有名である。芭蕉はかねがね義仲の生涯に思いを寄せ、生前から義仲の隣に葬って欲しいと遺言していた。

 

大津名所探訪5山吹地蔵

■山吹地蔵

 木曽義仲に付き従っていたもう一人の女性は「山吹」である。義仲が粟津ヶ原で討ち死にしたとき、彼女は京からはるばる逢坂山を越えて、この地までやってきたという。しかし、義仲に逢うことができず、秋岸寺の竹藪の中で敵刀にたおれた。後世、薄幸の山吹を弔うために境内に地蔵尊を祀った。近代になってこの地にあった秋岸寺は移転し、山吹地蔵尊だけがJR大津駅の敷地に残っている。祠の近くに佇む銅板の碑に、大津の文人がつくった俳句がある。 

 

木曽殿をしたひ山吹ちりにけり

  

 大津駅の近くに住む私は、毎日のようにこの地蔵を眺めて、「山吹」に思いを馳せる。山国育ちの義仲は粗野な男で、都の気風には馴染めなかったようだ。北海道育ちで、後年京都に移り住んだ私も京風の雅な気風に合わなかった思いがあったので、義仲の心象がそれとなく理解できるのだ。彼は、色白のイケメンなのに、見栄っ張りで気位の高い京女を持て余しただろうことは容易に想像される。しかし、信濃から連れてきた二人の美女からは慕われた。巴御前は偉丈婦であったのに対し、山吹はなよなよした可愛い女性だったのでは? 

 

2 大津間の街道(峠)

大津名所探訪6

■蝉丸神社

大津名所探訪7

 当社は天慶九年、蝉丸を主神としてまつられている。蝉丸は盲目の琵琶法師であり、音曲芸道の祖神として平安末期の芸能にたずさわる人々に崇敬され、当宮の免許により興行したものである。その後、江戸時代に、現在の社が建立され、街道の守護神である猿田彦命を合祀している。 

蝉丸が詠んだ下の和歌はあまりにも有名である。 

 

これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関

 

なお、近くに逢坂の関迹の石碑がある。 

 

 

走井茶屋

 

 逢坂山超えの途上には走井(はしりい)という清らかな水がこんこんと湧く井戸があり、平安時代から歌に詠まれるほどの名高い水だった。江戸時代になると東海道を往来する旅人が増え、走井の水で喉を潤す者も多かった。そこには「走井茶屋と呼ばれる茶店」が軒を連ね、名物の走り井餅を売っていた。その様子は広重の浮世絵、「東海道五十三次 大津」に描かれている。

大津名所探訪8走井茶屋
上図の一部を拡大して表示
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■逢坂山越えと車石

車石

 江戸時代、逢坂山の峠道には「車石」というものが敷かれていた。花崗岩に車の轍(車輪を通すための溝)を掘り、二列に並べた車石が、大津から京都の三条にかけての約3里(12km)に敷き連ねられ、荷車が峠を越える手助けとなった。逢坂山越えの陸運が如何に困難であったかがわかる。

  

■小関越え

 かつて、京と大津を結ぶ街道は、逢坂の関を超える旧東海道(大関越え)の他に、「小関越え」もあった。 

現在は人の往来がなく、たまにハイカーが通るだけ、小鳥のさえずりの中に眠っている。 

小関越

 

会社を定年退職した2003年の秋から一年間、私は週三回、大津市から自転車で『小関越え』をとおり、片道約2時間かけて京都の日本語教師養成学校へ通った。 

三井寺の山門前から自転車を押して急な坂道を登り、小関峠で一休み。お地蔵さんに礼拝してから山道を下り、山科疏水のあたりで家内がこしらえた昼食用のお握り弁当を藤棚の下で食べた。

四月、落花舞う真昼どき、琵琶湖疎水の水面には桜の花びらが滔々と流れていた。 

大津名所探訪9

 

3 陵墓と寺社

 

大津名所探訪10

■近江大津京(滋賀の都)址

  近江大津京は、飛鳥時代に天智天皇が近江国滋賀郡に営んだ都。667年に飛鳥から近江に遷都した天智天皇はこの宮で正式に即位した。 

 天皇崩後に朝廷の首班となった大友皇子は672年の壬申の乱で大海人皇子(後の天武天皇)に敗れたため、5年余りで廃都となった。

 

1974年(昭和49年)以来の発掘調査で、滋賀県大津市錦織の住宅地で宮の一部遺構が確認され、「近江大津宮錦織遺跡」として国の史跡に指定されている。 

しかし、この都は、奈良京や平安京のような条理都市と比較して規模が小さく、また敷地の大部分が現在、住宅の下に埋もれているらしい。 

 

■近江神宮

大津名所探訪11

 

667年に天智天皇が、飛鳥から近江大津宮に遷都した由緒に因み、皇紀2600年にあたる1940年(昭和15年)の117日、同天皇を祭神として創祀された。

 

 『小倉百人一首』の第1首目の歌(秋の田の仮庵の・・・・)を詠んだ天智天皇にちなみ、競技かるたのチャンピオンを決める名人位・クイーン位決定戦が毎年1月にこの神宮で行われていることが、有名である。

 

じつは、百人一首のカルタは、我が生まれ故郷北海道では木片だった。後年、京都に住んで知ったカルタは厚紙なのでおどろいた。なぜかと考えるに、カルタ競技ではお目当ての札を掌で飛ばす。もし、木片のカルタが相手の顔に当たったら前歯の一、二本折れる大怪我となるのではないか? やっぱり、北海道人は、野趣あふれる豪快さを好むものだろう、と納得した。

 

大津名所探訪12
板状カルタは、じつは社務所で売っている煎餅だった。

 

■三井寺

 

三井寺(正式には長等山園城寺)は古代最大の内乱・壬申の乱で敗れ自害した大友皇子の子・大友与太王によって創建された。

 

三井寺には多数の国宝級建造物があるので詳述できない。入り口の「仁王門」、「弁慶の引摺り鐘」そして、「回転式の八角輪蔵(回転書架)」を紹介する。

(左)三井寺の回転式八角輪蔵(右)雲南省麗江の町角にあったチベット仏教(ラマ経)の小塔
(左)三井寺の回転式八角輪蔵(右)雲南省麗江の町角にあったチベット仏教(ラマ経)の小塔

私は6年前、日本語教師として雲南省昆明の大学に赴任したときに、麗江へ旅したことがある。街角に、チベット仏教(ラマ教)ゆかりの小塔があり、これを回すとお経を唱えるのと同じ御利益があるという。だから、三井寺の回転式輪蔵も同じようなモノではないか、とふと思ったが、それにしては巨大すぎて回すことはできないようだ。

 

三井寺は桜の名所でもあり、ライトアップされた夜桜が美しい。

 

 

■天智天皇陵と弘文天皇陵

大津名所探訪13

 

(天智天皇 和歌) 秋の田の刈穂の庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ

 

(弘文天皇 漢詩) 皇明光日月 帝徳載天地 三才並泰昌 万国表臣義

          (皇皇明日月と光り 帝徳天地に載す 三才並に泰昌 万国臣  

          義を表す 天皇の仁徳が日月の光の如く遍く行き渡

          り、太平の御代が実現している)

  

  38代天智天皇の皇太子「大友皇子」は、壬申の乱で天智天皇の弟大海人皇子(40代天武天皇)により敗死した。1870年(明治3年)に諡号を贈られ、39代弘文天皇として認められた。 

 

4 大津宿 

 

「大津宿」は江戸日本橋から数えて最後の宿場であり、次は終着駅「京の都」。逆をたどると、「京」から難所「逢坂山」を越えて最初の宿場が「大津宿」となる。

下図のように東海道をたどり大津にいたると、大名や貴人が宿泊する格式の高い「本陣」があり、その周辺に一般旅人が泊まる「旅籠」や商店が軒を連ねていた。

 

《大津市鳥瞰図》

大津鳥瞰図
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当時、本陣三階の楼上から眺める琵琶湖は絶景だったといわれている。

 

 広重は「木曽街道六十九次」の連作浮世絵で大津宿を描いているす。彼は本陣近くから北側の湖岸までの町並みを眺めながら、この絵を描いたのでしょう。私は大津駅の近くに住んでいる。そこから湖岸までは緩やかな坂道となっており、自転車に乗るとペダルを軽く踏むだけで「なぎさ公園」に至る。広重の絵でも琵琶湖岸まで家並が徐々に沈みこむ遠景がよく描かれており、とてもリアルで構図的にも見事な傑作である。

 琵琶湖水運にめぐまれて街道一の賑わいを誇った大津宿が、現在は一地方都市にすぎないものの、この絵は大津の美観を今も伝えているように思います。

大津宿
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  京都~大津間の鉄道敷設の最難関は、逢坂山トンネルを掘削することだった。掘削技術の未熟によりトンネルの長さを短縮するため、現在の新線ルートよりかなり迂回したものとなり、明治13に完成した。 

 

旧東海道線
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 ■大津駅の三度の変遷

 初代大津駅は、江戸時代より琵琶湖水運が発達していた大津港(浜大津)に開設した。そのために、京都駅から番場駅(現在の膳所駅)に着いた列車は、逆行(スイッチバック)して、大津駅へ行かなければならなかった。

 第二代大津駅は、1913年(大正2年)に馬場駅に設置。それに伴い、初代大津駅を《浜大津駅》に改称した。

 第三代大津駅は、1921(大正10)年、京都と大津を最短距離でむすぶ東山トンネル(延長1865m)と新逢坂山トンネル(延長2325m)を含む新ルートが開通したので、新大津駅が現在の場所に移設された。また、二代大津駅を《馬場駅》に改称し、現在は《膳所駅》と呼ばれている。

 

浜大津支線

三線軌条】 

かつて国鉄大津支線と私鉄が並走していた時代があった。狭軌と広軌の違いにより、三線軌条という珍しい鉄路が敷かれていた。

京阪電鉄
かつて鉄路に迫っていた湖水が、埋め立てにより遠のいている。

 

■大津事件 

1891年(明治24年)露国ニコライ皇太子に津田三蔵巡査がサーベルで斬りつけ、重症を負わせた(下の写真が事件現場)。

 強国ロシアの報復を恐れた明治政府は、皇室への大逆罪を適用して死刑を画策。しかし、大津地裁での大審院法廷では津田に無期徒刑の判決を下した。近代日本で「司法権の独立」を貫いた画期的な事件であった。

大津事件石碑

 

 江戸時代旅人で賑わっていた東海道ぞいの大津は人通りも少なく、この石碑に関心をよせる人は少ない。

 

■渡来人歴史館

渡来人大津記念館

 

中国大陸や朝鮮半島から高い知識や技術を持つ人の移動によって、日本国家の原点となる弥生時代が築かれた。また、16世紀末に朝鮮出兵した豊臣秀吉軍が連れてきた陶工が、日本の焼き物技術を飛躍的に進歩させた。これら渡来人の役割について紹介されている。

 

■なぎさ公園

大津なぎさ公園
夕波くらく啼く千鳥 われは千鳥にあらねども 心の羽をうちふりて さみしきかたに飛べるかな(藤村)

 

琵琶湖の水質は、196070 年代に高度経済成長に伴う水域の人口増加や人間活動の活発化によって富栄養化が進行し、1977 年には赤潮の大発生が問題となった。しかし、その後「びわ湖を守る粉石けん使用推進県民運動」(19781988 年)や「琵琶湖の富栄養化の防止に関する条例」(1979 年公布)等による様々な富栄養化防止対策の取り組みによって水質は改善された。

《左馬之助湖水渡り》の浮世絵

わたしは、琵琶湖岸のなぎさ公園をよく散歩する。

その一角に「明智左馬之助の湖水渡り」の石碑がひっそりと立っている。

 

左馬之助湖水渡りの石碑
《左馬之助湖水渡り》と刻まれた石碑と馬と共に湖上を渡る浮世絵  画像をクリックすると拡大されます

 

明智光秀の重臣である明智左馬之介は、山崎の合戦で主君が豊臣秀吉に敗れたとの知らせを受け取ると、残兵と合流して本拠地である坂本城へと向かおうとした。しかし、豊臣軍の追っ手が迫り来る中で、味方の姿は見当たらなかった。

 

 そこで愛馬にまたがって琵琶湖に飛び込み、坂本城めがけて波立つ湖面をかき分けて進んだ。しかし坂本城へとたどり着くと、すでに勝敗は決しており、豊臣軍が城を取り囲むなかで、左馬之介は妻子らと共に自決した。

 なお、下の浮世絵は2代目「歌川国久」のものである。

左馬之助湖水渡り
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