A 学生に伝えたいこと
西安で一番思い出深い学生、劉トン、張春梅、王玉との別れの時が来た。劉とは6月に『平遙古城』へ旅行をし、それが別れとなった。
そして、西安を去る2、3日前に、張春梅と王玉を連れて、西安の名所『北院門街』という回族の店が並ぶ町へ行き『賈三灌湯包子』で小籠包を食べた。中学から西安に十年間も住んでおり、西安に誇りをもっている劉トンは、
「小籠包のことを、ここ西安では『湯包(たんばお)』と呼びます」といっていたのを思い出す。この美味しい湯包も今日が食い納めだな、と思いながらじっくり味わった。
私は西安を去るにあたり、教え子の張と王に是非伝えておきたいことが一つあった。
この地に住んで二年間、多くの日本人教師と付き合い、いろいろな話を聞いた。
ある若い女性教師が言った。
「中国の学生は“たかりの体質” があるから注意しなければなりません。だから、私は学生と食事したときには、必ず割り勘にすることに決めています」
中国人学生は、日本人が金持ちだから、食事を奢ってもらうのが当たり前と考えているという意味なのだろう。
が、私は中国人学生にいつも奢るばかりで、割り勘は大人数の会食のときしかしない。私にいつも奢ってもらうのが心苦しいと感じた学生の中には、母親が気遣ったのかもしれないが、故郷から帰ったときに、土産を持参することもあった。私はそんなとき受け取ったが、
「あなたは学生だから、もう二度とこんなことをしないように。将来働くようになったら、先生に一度だけ奢ってね」
と、言うことにしている。
しかし、それは、私が日本人教師の中では、比較的裕福な方だからできるのだ。私は国から年金を、また元働いていた会社からも企業年金をうけているので、贅沢さえしなければ、老後に困らない生活が保証されているのだ。だから、中国の大学から支給された給料は、学生と食事したり、旅行をしたりして全部使ってしまってもいい。むしろ、物価差を考えたら給料の全てを中国で使った方が有意義な使い方になるし、学生を喜ばせることが老後の生き甲斐の一つでもある。
しかし、そんな日本人教師ばかりではないだろう。特に独身女性教師などは、数年後に日本に帰ったらたちまち生活に困るのだ。日本の語学学校で働いても十分な生活ができるほどの収入は得られにくいようだ。だから、彼女たちは、日本より少ない中国での給料ですら、できるだけ貯金して帰国後の生活に備えておかなければならないのだろう。学生に大盤振る舞いなど、たとえしたくても、とてもそんな余裕がないのだ。
私は学生と食事したり旅行したりしたとき、私が全額だしても、学生から“たかられた”と思ったことは一度もない。学生と共に楽しいときを過ごすことができるのなら、全額私が出しても少しも惜しいとは思わないのだ。しかし、学生が私に対してそれが当たり前だと思うのはいいが、私の後任の教師が赴任してきたときが心配だ。新任の教師が私のようにしなかったとき、学生が私と比べて「今度の先生はケチだ、不親切だ」と、思ったとしたらそれは問題である。それでは私が学生に“たかりの体質”を植え付けたことになるのだ。これらのことは、教師によってさまざまの考え方があるだろう。私と同じくらいあるいはそれ以上に裕福な教師だっているだろうし、その人が学生とは割り勘にするという方針の人がいても、それはそれでいいのだ。
私は西安を去るにあたって、張と王に以上の要点をかいつまんで話してから、最後にいった。
「だからね、私は私のやり方、今度来る先生はその先生のやり方だよ。今度来る先生に対して、私と比較してどうだこうだと、言ってはいけないよ」
架空の絵図
B 別れの挨拶
私は2006年7月に長安大学を辞めて、日本へ帰国した。そして2年生に以下のような別れの挨拶をメールで送った。
皆さん
私は本日(7月15日)11:05に西安咸陽国際空港を発ち、北京を経由して大阪の関西国際空港に着きました。
本日、雷雨が降りました。その後、雨上がりの日本の街は、あの王維の詩「渭城の朝雨軽塵をうるおし、客舎青青柳色あらたなり」のように、清々しくてきれいです。
皆さんから王朝風デザインの『風鈴』を記念品としていただきました。ありがとう。風に揺られてリンリンと鳴るたびに皆さんを思い出しましょう。
私の帰国の日時は誰にもお知らせずに、独りで静かに去りました。皆さんに見送られたら、日頃笑顔の私がどんな顔に変わるかわかりませんので。私の背嚢には長安大学での楽しい思い出がいっぱいつまっていますよ。皆さんと、幸せな二年間を過ごすことができました。心からお礼を申し上げます。
次の就職がまだ決まっておりません。7月下旬に予定されている面接試験(東京の日本語学校で)が成功して、中国での就職先が決まれば、皆さんにご連絡します。
もう皆さんに会えないかもしれませんが、私は元気なうちは、偉大な歴史と文化の国・中国のどこかで、日本語教師を続けるつもりでいます。他の大学でも、皆さんのような素晴らしい学生に巡り合って、楽しく過ごしていることでしょう。
そして、ときどき皆さんを思い出します。
✔大きなアクビをしたら二重丸(◎印)になった丸顔のAさん。
✔陽気な性格(ネアカ)なのに、テストでの間違いを指摘されただけで俯いて泣き出しそうになったBさん。
✔教室に入る10メートル前から誰の声かわかるハスキーボイスで大声のCさん。
✔一方、いつも「大きな声で話しなさい」と注意しなければならなかったD&Eさん。
✔クリスマス晩会で私と「北国の春」を歌うおうとしたら、大舞台に出る直前になって、「歌詞を全部忘れました」と悲しい声をだしたFさん。
✔ミニスカートで先生を悩殺した八頭身美人でファッションモデルのようなGさん。
✔癌で死亡した親友を描いた作文で、友の心を理解していないと厳しく批判したら、ショックで机に顔を埋めていたHさん(でも1週間後に美味しい料理を作ってくれた。Hさんと私は強い信頼の絆で結ばれていました)。
✔失恋して涙を流していたのに、2週間後には新しい恋人ができてルンルン気分のIさん。
✔優秀なのに、いつも寝ぼけたような声で話すのが欠点のJさん(卒業するまでに直しなさい!)。
✔緊張するとドモルのでスピーチコンテストを欠場したKさん(Kさんは立派な日本語を話す能力があります。来年はかならず出場してください)。
✔第一回中華杯全国日本語弁論大会で大健闘したL&Mさん(二人は先生の誇りです)。
✔二人でビール瓶一本しか飲み干すことのできないN&O君(他学院の酒豪と交流して男を磨きなさい!)。
✔永遠の別れのときに私の頬にキスしてくれたPQRSTUVWXY&Zさん(こんなに多くなかったかな?)
✔英語で話したら「先生の発音悪い」と大合唱した皆さん(私は英語の教師ではないゾ!)。
などなど、18人の皆さんのことは忘れません。
では、お元気で、サヨーナラ。
渭水キャンパスの1年生も松浦先生の計らいで、授業の最後に送別の歌を歌ってくれた。
【追加情報】
長安大学を退職してから、わたしは、中国の四都市の大学日本語科に勤務し、更に70歳以後、四年間大連交通大学で語学留学した。
2018年5月に私の教え子が長安大学「卒業十周年記念」の行事を西安で行った。この記念パーティに招待された私は西安に旅行し、12年ぶりに教え子と再会することができた。その旅行記をご紹介したい。ご興味のある方は下のpdfをクリックしてご覧ください。