2006年入学生
●この学年は2007年入学生と同様に師範大ではじめて教えた学生として思い出深い。
無錫職業技術学院で気づいたLN音識別能力を評価するために、「識別能力テスト(オーディオ化)」と「矯正法」を確立した。その試験で見つけた識別能力に問題のある学生が上の「教室風景」で前列左にいる周佳さんであった。しばしば我が宿舎に呼び寄せて「矯正訓練」をおこなった結果、数ヵ月で正常になった。そのことで周さんは私にとても感謝し、彼女との師弟関係が深まった。別れてからいまだに、年に一二度私に近況を伝えるメールをくれている。
わたしは、作文授業には依然力をいれている。学力優秀な李チョウさんは、大学入学直前に父を喪う不幸を背負っており、それだけ母への情愛の深い女学生である。そんなことを綴った作文は私を感動させた。
劉水英さんは、ごく普通の学生で、可愛いだけが取り柄の女学生だとばかり私は思っていた。しかし、あるとき作文で「中元節」を書いた。大学生としての知的な視点から故郷の行事にスポットを当てて、伝統文化の意義を再評価している優れた作文だった。作文をつうじて学生の豊かな心の内面を発見することは、作文授業の楽しみである。
2007年入学生
<大学の規則と教師の自由度>
どこの大学にも諸規則があるだろう、一つは学生にもう一つは教師に対して。そして、教師に対して諸規則を守らせるために管理部門(教務課や外事処、また学部長までも)が目を光らせている。だが、規則を厳格に守らせるかどうかについては、大学によってかなり大きな差があった。当然、日本人教師は厳しく管理されることを望まない。ここ、江西師範大ではきわめて鷹揚であったのはとても有り難いことだった。
たとえば、道の行き方の授業では、校庭の一角にある碁盤の目盛りの形のしている所を町の区画に見立てて野外授業をやった。また、ある時には、うららかな春の日差しに誘われて、キャンパス内の人造湖の畔の芝生に座って、「早口言葉」のコンテストをやったこともある(遊び半分のゲーム感覚で)。そんなときに、私は教務主任に断りなく勝手に教室を離れたが、一度も教務主任からおとがめを受けたことはない。だが、大学によっては、勝手に教室を離れることを許さないところもある。
テストでも私は自由に振る舞った。半期毎の授業では中間テストと期末テストをして学生の学力を評価するのが何処の大学でも一般的である。テストなどその採点や評価で教師には多大の負担になる。しかし、大小さまざまのテストをすることによって学生の学力をより客観的に評価できるし、テストをすることによって学生に復習をさせる機会ともなるので、私はテストをたくさんやることにしている(そのために学生から「テスト魔」と渾名をつけられている)。しかし、私の負担はいっそう大きくなる。そのジレンマを解消するために私はテストの評点を学生に手伝わせる方法を考え出した。上の写真の右下はそのような光景である。もちろん、採点する学生が他の学生の成績が分からないように、私と個々の学生だけが分かる暗証番号をつけるような工夫もしている。しかし、大学によっては、テストの評価を学生に協力させるなんてとんでもないことをやっていると、厳しいおとがめのある大学もあるのだ。
会話では、ペーパーテストは無意味で、面接形式で行わなければならないが、 これが膨大な時間を必要とする。正規の授業では収まりきらない部分を我が宿舎に呼び出してテストをした。テストが昼食や夕食に近づいた時間の場合には、テストを終えた学生は直ちに台所へ行って、焼きソバやチャーハンの準備にとりかかる。そして、テストを終えた学生は順次居間でそれを食べてから帰るし、私もテストの合間に食べる。こんな風にして、我が宿舎はテストをしている書斎を除いて常に学生がたむろしている賑やかな「触れあい広場」の様相を呈しているのだ。
私と学生の一人か二人しかいない閑散とした教室でやるより、よほど和やかな雰囲気でテストができるし、それでいて決してテストへの真剣みがおろそかになっているわけではない。
私は教師の自由裁量が認められているこの大学日本語科の雰囲気が性分に合っている。ある大学では、決められた時間に決められた教室で、教師が予定どおり授業をしているかどうかを教務課の職員が確認しにくるという。まるでスパイ行為ではないか! そこまで教師を信頼できないのか? じじつ、昆明の大学で会話テストをしたら、終了時間に職員が来て、その日テストをした私の評価記録を検めてから、受験した学生の名前まで調査ノートに記入してるのを目撃した。調査員は私と親しい関係にあったので、彼が私を疑っているわけではない。これがこの大学の教務課の決まりだというのだ。
しかし、こんな規則でがんじがらめに管理されては、教師は萎縮して、前向きに教育に取り組む意欲を失いかねない。教師がこうなっては、その指導をうける学生を大きく育てることなどできなくなるのではないか、と心配されるのだ。幸いにも、江西師範大では、教務課や外国語学院長の存在すら意識したことがない。日語科教務主任も含めて管理部門の干渉をまったく受けることなく自由に日本語教育活動ができたことに満足している。そして、そのような大学でこそ学生がすくすくと育っていったという実感があるのだ。
2008年入学生
<流動性のある会話クラス編成>
●江西師範大学では1,2年生に会話を教えた。一学年約50人を2クラスに分けて、1斑を私が、2斑を藤原先生が担当した。この学校では半期ごとに学生が教師を選ぶことができる。私の教え方が自分に合わないと思った学生は、次期には藤原先生の2斑に移ることができるのだ。こうして2年(4期)間に、学生はクラスを移動することができる。
1年前期に私が最初に教えた1斑の26名が黒枠で囲っている名前の付いた学生だった。4期中に少なくとも1期、私のクラスに移ってきた学生が合計7人いた。当然、私のクラスから藤原先生のクラスに移動した学生もいる。
ある学期に、我がクラスに移動してきた男子学生がいた。彼は、一見粗暴で生意気そうな風貌をしている(最下段左から二人目の38番、黄色を背景)。あるとき、彼の学習態度が悪いので、私は厳しく叱ったことがある。それに対して彼は「森野老師の指導方法が気に入らない」とメールで猛反発してきた。日本語科には女学生が圧倒的に多い。彼女らは学習意欲は高いものの大人しすぎて、教師に従順なのが私には時にもの足らなく感じることがある。だから、私に噛みついてくるような上の男子学生がいることは珍しく新鮮な感動すらあって、彼に好感を抱いた。しかし、数度のメール交換でも和解にはいたらず、次の期には藤原先生のクラスに戻って行った。彼女は学生に対して我が子のように慈愛あふれる態度で接する教師である。彼が、藤原先生の教え方に満足したのならそれが一番だ。
学生にとって最大の不幸は、教師を選択できないことだろう。教師が伸びる芽を摘み取ってしまうことだってあり得るし、反対によき教師に巡り合ったお陰で、大きく成長する学生だっているのだ。日本語科に一人の日本人教師しかいない学校は、学生にとって不幸となる可能性がある。この点で、ここ師範大学では、二人の外人教師を旨く使うなかなか面白い制度があると私は思う。我らが日本語科教務主任は、外人教師には放任主義で一見頼りなさそうな男である。だが、どうしてどうして、壺はしっかりと押さえている指導者なのだろう。
無粋な私でも、やっぱり日本人で、紅葉には格別の思いがある。大学から自転車で15分の艾渓湖畔の並木道に紅葉を求めて行った。もう、12月なので寒かった。三人の学生はあまり関心がなかったようで、それより途中にある屋台の「小籠包」(安くておいしい)がお目当てだったようだ。日本の紅葉とは較べようもないが、色づいた枯葉を我が居間において数週間愛でた。
無錫編でも紹介した新入生への軍事教練が新学期の一ヵ月間あった。この大学の特色は軍隊から派遣された若手教官を補佐する学生がいることである。この年は一年先輩で私が会話を教えている毛さんという女学生が選ばれた。明るくて元気者であることに加えて、何といっても長身であることが選ばれた最大の理由だろう。隊列中央の彼女は周りの一年生より首一つ抜け出ている。軍隊式にテキパキと行動する立ち居振る舞いに、長身ゆえの見栄えの良さは欠かせないのだろう。
長身であることが絶対に欠かせない条件の女学生の活動がもうひとつある。それは学内のセレモニーの時などの接待嬢である。たとえば大学の○○式典やスピーチコンテスト会場の入り口で来客を迎えたり、授賞式で賞状を渡す時に立ち会う女性である。彼女たちは、ある程度の美人で長身(170cm以上)であることが求められている。毛沢東が存命中にはあり得なかっただろうが、自分の肢体に自信のある女学生にとってはあこがれのクラブ活動なのだろう(写真の女学生は私が授業で教えた某大学の3年生)。
なお、彼女たちが着ているチャイナドレスは、もともとチーパオと呼ばれる満州族(清王朝)の民族衣装であったが、1930年代に西洋風のファッション感覚を取り入れてこの魅力あるものになった。
日本人は中国人といえば、考え方、行動、食べ物への嗜好などが皆同じだと思いがちだが、そうではないようだ。人口の90%以上を占める漢族でも、北方系と南方系とは身長でも違う。
長安大学で社会人相手の日本語公開講座を担当していたときに、ある中年の大学講師の女性がいた。彼女は、息子のフィアンセに会うために故郷に帰るので一週間授業を休みたいと申し出た。帰ってきた彼女に息子さんの彼女はいかがでしたかと聞くと、「性格はいいんだけど、南方系の娘なので小柄なのが・・・・」と不満のようだ。わたしが、性格がよくて、小柄な女性なら申し分ないでしょう、と言ったが、北方系の彼女は長身の息子に釣り合う女性は長身でなければならないと信じているようだ。このように北方系の漢族は長身者が多く、女性も長身が好いと思っているようだ。
師範大学の学生は、ほとんどが長江南の江西省出身者で占められている。南方系漢族は北方系と較べて、ずんぐりむっくりの体型をしているらしいが、下の女学生を見て読者はどう思われるだろうか。
そういえば、下の「我が定番メニュー」でお好み焼きのパンを持ってる私の中国語の家庭教師・黄誉婷さんも南方系漢族である。あるとき、学友と一緒にバイト(ファッション・ショウのモデルではないだろうが)に応募した。面接したとたんあっさりと非採用になった。その理由が「おまえはチビだからだめ!」だった。帰ってから、彼女は「こんな侮辱を受けたのは生まれて初めてだ」とかんかんになって怒っていた。黄さんは156cmだからチビではないが、ご両親もあまり背が高くないそうだから、遺伝だろう。彼女は中国語の標準語である「普通話」を美しく発音するので家庭教師に雇ったし、この学年ではトップクラスの優秀な学生だ。後年、語学教育の名門校である上海外大の大学院に入学している。体型から考えてファッションモデルは無理だが、内面を磨いて知性ある女性として世界に通用する人材になったらいだろう。
2009年入学生
●この学年は江西師範大での最後の教え子で1年生のときに会話を教えた。2013年6月に私の後任の大金先生から、彼らの卒業写真が送られてきた。こうして、今後、師範大を訪問しても、私が知っている学生はいなくなった。大学は4年をサイクルに人の移動が繰り返されるところである。中国8年の教師生活で長安大学と共に、思い出深いこの大学が、文字通り「思い出の世界」の中に入っていくことになった。
なお、余白に、日本漢字と中国語簡体字との違いを掲げた。
たとえば、「豊」が簡体字で「丰」と書くように、全然違う場合には、学生はかえって間違わない。しかし、表の一部にあるように、微妙に異なる日中の違いの場合に誤記がよく発生するのだ。
●西安と無錫の学校では寿司だけだったが、師範大からは「お好み焼き」もメニューに加えて、学生からすこぶる好評だった。巻き寿司は学生が実際に巻くことができるのがよい。巻き上がった形が△でも□でも味は一緒だからかまわない。しかし、我が家を訪問する学生は一度に6,7人が限度だから、我が炊飯器も4合程度の小型で十分だ。
ところが、後年、昆明の雲南大学滇池学院で遠く離れた新キャンパスにいる39人もの一年生と寿司パーティをすることになった時には大変だった。大学食堂で借りた大型の炊飯器で水加減がうまくできるかが心配だった。が、女学生は指を立てて水加減を調整する術を心得ていたのが幸いだった。いろいろ準備が大変だったが、学生の喜ぶ顔を見ることができて、良かったと思う。
あらかじめ、巻き寿司作りの「指南書」までメールで送る徹底ぶりだった。わたしは、料理学校の校長先生が勤まるかな?
●回族とウイグル族は同じか?
●回族といえば、読者は何を連想するだろうか? 私は中国に来るまで、回族とは回教を信じている人々全てだと思っていた。
中国で生活しているうちに、回族と新疆ウイグル自治区のウイグル族とは違うことが分かってきた。
対外交易が盛んであった唐から元の時代に中央アジアやインド洋を経由して渡ってきたアラブ系・ペルシャ系の外来ムスリムが起源で、長い間中国に定着しているのが回族である。だから、彼らは漢化しており漢族と外見上大きな違いがないが、宗教上は回教を守っている点が漢族と異なる。人口は980万人いて、中国最大の少数民族である。また、回族は寧夏回族自治区をはじめ中国の各地に散在しており、雲南省にも一部回族がいる。私が昆明の大学に赴任したときには、雲南省各地から大学に来た回族のために彼ら専用の学生食堂まであった。戒律で豚肉が禁じられている回族は、通常の食堂では食べることができないからだろう。
一方、新疆ウイグル自治区のウイグル人も回教を信じている点では同じだが、回族とは民族的にことなり、西欧系の顔つきをしているので区別できる。ときたま、師範大で青い目の西欧系の顔つきをしているウイグル系の学生を見かけると、西欧の白人留学生と見間違えることがある。
なお、写真の回族ラーメン屋は蘭州ラーメンを出す店で、回族なので豚肉は使わず、牛肉で味付けしたものが出される。日本のトン骨ラーメンのような濃厚な味ではなくて、あっさりしているが、私はこのラーメンが好きでよく食べに入った。それから、日本では手打ちラーメンが上等とのイメージがあるが、中国では手打ちが当たり前である。おそらく、人件費の安い中国では機械でつくるより手打ちの方が安くつくからだろう。麺を延ばしながら粉をまぶし、テーブルに強く打ち付ける音が懐かしく我が耳に響いている。
●こうして、私は江西師範大を去った。他の大学の時と同じように、去る日時を誰にも伝えず、ひっそりと・・・・。
私の後任は大金先生という北海道出身の男性教師であった。
だが、彼が奥さんと一緒に赴任され、私が3年間住んでいた教師用宿舎に収まったことを聞いてちょっと不安に思ったことがある。
果たせるかな、大金先生は授業で私が教えた学生を前にしてこういったという。
「皆さん、妻が森野先生の宿舎に入ってまず最初にやったことは何だと思います。汚れによごれた部屋の大掃除です。それから、私がやったことは、台所を走り回っているゴキブリ200匹をハエたたきで一匹いっぴきたたき殺すことでした。それはそれは大変でしたよ!」
これを聞いた学生どもが、さもあらんと、拍手喝采して大笑いしたというのだ。
後日、この噂を聞いた私は激怒した。何という奴らだ! せめて、
ーーそれは、私たちが、しょっちゅう森野先生の宿舎に押しかけて、部屋を汚し、食べ物を食い散らしたためです。決して森野先生の責任ではありません。
くらいのことをなぜ言わないのだ、この恩知らずめ!
大金先生から大学のこと学生のことについて、しばしば私に問い合わせのメールがきた。私はできるだけお伝えしたつもりである。藤原先生や私の努力をしっかりと受け継いで発展させてくださりそうな教育熱意のある方だとおもい安心した。