中国の大学で日本語科教師になって、私が力をいれたのが『作文』であった。一口に作文といっても、作文授業、スピーチコンテストの発表草稿、読書感想文、と教師が学生の作文を指導する形は様々である。しかし、それらに共通しているのは、学生の人生観、価値観、社会に対するモノの見方などである。それは、作文をするときの『問題意識』といってもいいだろうが、そこには学生の受けた学校教育の影響が色濃く反映されているようだ。そして、それに対して教師はどう指導すべきかも問われている。数年間の経験を通してそう思う。
A スピーチコンテストでみられる学生の問題意識
既に第3章の『江鈴杯スーピチコンテスト』でも類似の感想をもったが、2010年6月に開かれた『第五回中華杯全国日本語スピーチコンテスト・華東地区大会』(上海で開催)では、改めて学生の問題意識について考えさせられた。
このコンテストは、私が西安に赴任した二年目に第一回が開催され、日本語弁論大会としては最も権威のあるものである。中国全土を8ブロックに分け、地区大会を勝ち抜いた代表二人ずつが東京での決戦大会に出場することになっている。JALの協賛により日本旅行ができるのだから、中国の大学における日本語学習者にとっては魅力のある大会である。
その華東地区大会への出場者一名を選抜する学内予選大会でのことであった。
二つの課題テーマのうち『私達でもできる環境対策』について、7、8人の学生が発表した。
学生たちの発表は皆一様に、
――テレビで環境問題についての報道をよく目にする。環境破壊は中国が直面している社会問題になってしまった。ゴミ汚染、水質汚染、大気汚染、そして地球温暖化現象が日増しに深刻化している。これらを解決することは地球に依存して生活している我々にとって死活問題である。
と、導入部を語る。ここまでは問題ない。ちょっと文学少女気取りの女学生は、
――今日、緑豊かな世界は消えて、鳥が鳴き、花の香りが漂う春の日は過ぎ去ってしまった。
などという『失楽園』的語り口がプロローグであった。
この後に、話の中心部が語られる。
――洗顔・歯磨き中にこまめに水道のコックを閉めて節水をしよう。部屋を出るときには電灯スイッチを切って節電しよう。割り箸・ポリ袋などの使い捨て用品は使わないようにしよう。石油から作った合成洗剤は分解されにくく、河や湖の汚染源になるから石鹸を使おう。近距離の外出には歩くか自転車に、遠出にはバスなどの大量輸送機関を利用しよう。
これらは発表者によって多少異なるものの、似たり寄ったりであった。そして、誰でも思いつくことばかりであり、ユニークさに欠けている。しかし、『私達でもできる環境対策』を素直に受け止めると、こんな程度のことしか考えつかないのであろう。が、これでは多くの発表者の中から抜きん出た魅力ある発表にはならないのだ。
少しばかり知恵を働かせた学生は、ゴミを分別して捨て、リサイクル運動をしようと提案している。しかし、大学構内に焼却用とリサイクル用に分別して捨てるゴミ箱が併置されたことはないし、学生が大学当局に積極的に働きかけた形跡もない。要するにスピーチのために、その場限りの思いつきを言っているだけなのだ。むしろ、キャンパス内のゴミ箱をあさって、ポリ容器を持って行く貧しいなりをした小父さん小母さんの方が、学生よりリサイクル運動に熱心な人たちだ、と私には思える。
『国民大衆に環境保護の意識改革をさせるための啓蒙宣伝活動も必要だ』と、大学生の高みから民衆を善導するような思い上がった発言をする学生もいた。こんな小生意気なことを言っていながら、自ら進んでそのような活動をやっているわけではないので、評論家的無責任な発言になっていることに、本人は気づいているのか? 自分の発言に責任を持つ意識を欠いた単なるスピーチのためのスピーチでは、聴いている者を共感させることができないではないか、と私には思えてしょうがない。
こうして、あれこれ語ったスピーチのフィナーレはこうだ。
――今、私たちのできることは実に多い。「一人の百歩より百人の一歩」という諺がある。皆さんが力を合わせて身近なことから環境保護に力を尽くせば、かけがえのない緑の地球を守ることができます。
あるいは、
――環境に愛を注いで自然を守ろうとする気持ちさえあれば、何でも解決できるはずです。一緒に頑張りましょう。
と、極めて楽観的でバラ色の結論となっている。
スピーチ全体が誰でも考えつく安直な内容の上に、このような楽観的な結論でスピーチが終わっている。
彼らなりに起承転結に則った作文づくりをしていることはわかった。そして、日々、寮生活で節電や節水の努力をしていることも認めよう。それも大切なことではある。
しかし、この程度の個々人の努力で、中国で現在進行している深刻な自然や環境の破壊を食い止めることができるとは、私には到底考えられないのだ。学生たちは社会の現実に目を向ける視点が決定的に欠落している。
こんな安直な楽観論を述べてスピーチを結ぶ発表者を我が校の代表者に選ぶことはできないと考えたのは、私だけでなく、審査を担当した他の教師も同様であり、このテーマから代表者は選ばれなかった。その結果、もう一つのテーマ『日本に紹介したい中国文化』を発表した陳亜雪という三年の女学生が代表に選ばれて、上海の華東地区大会へ出場することになった。
発表会の夜、中国語の家庭教師黄誉婷が我が宿舎にきた。この晩は、中国語の勉強はそっちのけで、学内予選が話題になった。黄は前年、2年生の時に上海の華東地区大会へ出場したので、この年には出場資格がなく、聴衆として予選を聴いていた。
私は彼女に訊いた。
「『私達でもできる環境対策』でなぜ発表者はあんな安直な結論でいいと思っているのだろうか?」
「スピコンって」と黄が言った。「最後は、バラ色の結論で締めくくるのが常套手段じゃないですか」
「だけどさ、森を護るために、便箋は裏も使い、鉛筆も使わないことにしよう、なんてチマチマした努力だけじゃ、中国の自然環境の悪化を食い止めるのは不可能であることくらい分からないのか? 小学生やせいぜい中学生のスピコンならそれでもいいけれど」
「発表者の中にはそんなことくらい分かっている人だっていると思いますよ。でも、コンテストに出る以上、悲観論を話しても評価されないでしょう。審査員として先生はどうですか?」
「まあ、それはそうだけどね」といって、私は苦笑した。
「それに、みな、陳さんには勝てないと思っているのかもしれません。だから、出場はするけど代表に選ばれようと必死にはなっていない」
「それじゃ、初めから負け犬じゃないか」
師範大のスピーチコンテスト学内予選大会は例年とても盛り上がりを見せている。年によっては出場希望者が多すぎて、書類選考で発表者を15人程度に絞り込んだこともあるくらいだ。
そんな活性度の高い師範大学のスピーチコンテスト予選でさえ、学生間で問題意識に差があるのか。それは、学生の能力に関わることだから仕方のないことかもしれない。
優秀な学生ほど、代表に選ばれたいとの強い意思を持っている。そのためにテーマ選びも『私達でもできる環境対策』では魅力ある発表とはならないと、嗅覚を働かせて見切りをつけ、『日本に紹介したい中国文化』を選んだのかもしれない。一方他の発表者は、安直に『私達でもできる環境対策』に飛びついて、平凡な発表に終わってしまったのか。彼らもそこそこ優秀なのだが・・・・・・
このようなスピーチコンテストの発表を見るにつけ、授業で作文指導を担当している私は、彼らにどうやって適切なアドバイスをすべきか、と悩むのだ。せっかく、中国の深刻な社会問題に関わるテーマを与えられたのだから、これを機会に学生と真剣な議論をしてみたい、それは、単にコンテストでいい成績をとるためではない。しかし、時間的に余裕がないなど十分な対応ができていないとの反省がある。
この後、黄は中国の学校教育における作文について次のように語った。
「中国の中学・高校では、あまり深刻な作文を書くと教師から好まれない傾向があります」
「ああ、それで思い出した。君の一年先輩の羅さんね。彼女はとても優秀でいい作文をするんだよ。あるとき、作文授業で『友情』というテーマで書いてきた。親友と仲違いしたが、最後に和解して友情が深まったという話だった。わたしは、それを読んで、羅さんにアドバイスした。ちょっときれいにまとまりすぎている。親友となぜ喧嘩になったのか、その経緯をもっと詳しく、葛藤を赤裸々に書きなさい。そうすれば内容が深まって興味ある作文になるってね。彼女はふんふんと頷いて聞いているので、私のアドバイスを参考にして書き直すのかと思ったの。ところが、最後に彼女が、中国の国語教師は深刻な内容を書いても評価してくれません、というのさ。まるで、ここは中国、日本式はお断りと突き放したような口ぶりだった。中国の学校ではそんなものなのかな?」
「一概にそうとは限りませんが・・・」と、黄は言ってから、思い出したようにニヤリと笑った。「小説大好き人間の森野先生の厳しい要求には、お応えしかねる、と羅さんは思ったのかもしれませんね」
「小説大好き人間か」と私は笑った。「君たちの中にも小説が大好きで、私には訳のわからない村上春樹が大好きな学生だっているじゃないか」
「小説を読むのは好きだけど、作文は別です」
「でもさ、ここは共産主義の国だから、社会矛盾や体制批判めいたことを書くのは御法度だということは分かるよ。それでも、個人の心の問題を深く掘り下げるような作文まで嫌われるのか?」
「私たちは、小学校の時から、いい中学へ、いい高校へ、そして名門大学へと、進学できるように教科書に書いてあることだけ、先生の教えることだけを学ぶように指導されていますからね。それ以外のことには無関心」
「学校だけでなく家庭でも同じか。お母さんは、家庭料理を母から学ぶ時間があったら、机に向かって勉強してくれた方が孝行娘だと思っているのだろうか」
「まあ、そんなところですね」
「だから、君たち女学生は私より料理が下手なんだ。お好み焼きをつくっても、割った卵を床に落としたり、フライパンのお好み焼きをひっくりかえしたら、バラバラにしてしまった学生が一人いたね」
「また、それをいう。あれは、たまたまじゃないですか!」
と、黄は膝をたたいて怒った。私は彼女の不器用さをからかうときには、必ずこれを話題にすることにしている。二人で大笑いした。
「とにかく」と私は言う。「教科書に書いてあること、教師の教えることだけを、ひたすら覚えるのが重要で、学生が物事を深く考えて、オピニオンを持つような教育が為されていないわけだ。そんな知識偏重の教育の弊害が、スピーチコンテストの発表にもあらわれているように、先生には思えてならない。しかも、日本語科では、文法や語彙やなんやかんや、ひたすら暗記するだけだ。語学教育の宿命なのかもしれないが、こんな教育をうけて、思考停止しているたくさんのアホ学生が社会に出て行く」
黄とは何でも話せる親しい関係にあったから、こんな話をしても、彼女は「いつもの毒舌が始まった」としか受け止めず、柳に風と受け流していた。が、逆襲も忘れていなかった。
「先生は大学時代とても優秀でしたからね」
といって、黄はニヤリと笑った。
私が学生時代、薬学部の学生80人の中で、常に下から十番以内の劣等生であったことを彼女は私から聞いているのだ。そんな、劣等生だった私が中国の大学で教鞭をとっているのだからおかしなものである。
が、それも、時には有効である。優秀な女学生に囲まれて肩身の狭い思いをしているマイノリティの劣等男子学生にこう言って励ますときがある。
――私だって学生時代は君たちと同じだった。しかしね、学生時代四年間なんか長い人生の中ではほんの一瞬だよ。大事なことは、いま己の未熟さ、努力不足を猛省すること。社会人になったら一からやり直してほしい。過去は変えられないが、未来は自分の心懸けひとつでいかようにもできるでしょう。会社で一廉の人間になりなさい。取引のある日本の会社に乗り込んで行くときには、日本語の優秀な女性部下を通訳者として連れて行けばいいじゃないか。ここからは、ちょっと男子学生を激励するために話すことだから、女学生の皆さんは耳を塞いでいてね。男性諸君、大学四年間の勉強なんて大したものじゃない。そんなもので優秀、優秀でないなんて些細なことでしかない。社会人になったら、遣り甲斐のある本物の仕事が待っているよ。そこに、男が本当の能力を発揮できることがたくさんある。君たちの将来は前途洋々だ。頑張りなさい。
総じて、中国の大学日本語科の学生は社会を見る視点に欠けて大人しすぎるように思うのだ。女学生が多いのでヤムを得ないところもあるにはあるが、アニメ映画程度にうつつを抜かしているようでは幼児的で物足らない。しっかりした個の確立した自己主張のできる学生であって欲しいと願わずにはいられない。
黄が帰って、ひっそりした我が宿舎で、私は、日本の会社で働いていた頃のことを思い出した。
私が働き始めたのが、高度経済成長がはじまっている1968年だから、もう四十数年前になる。2008年に北京オリンピックがあり、二年後に上海万博が開かれているのだから中国の状態を40年前にスライドさせたら当時の日本になる。高度経済成長の中でアジア初の東京オリンピックを成功させ、その勢いで大阪万博も開催された。私も万博を見物し、各パビリオンの入り口には長蛇の列ができて、入るのに数時間かかったのを思い出す。しかし、日本人が経済的繁栄に浮かれており、華やかな万博の甘い夢物語に酔っている裏で、水俣病やイタイタイ病、四日市喘息のような公害問題が発生していたのだ。日本各地の川や湖沼は汚染され、美しい海岸は新しい工場建設のために埋め立てられた。経済的発展と引き替えに払ったこの負の代償がいかに大きいものであったかを、後年、日本人がようやく気づいた。私は今日の中国が日本と同じ道を歩んでいるように思えてならない。
こんな過去の日本の実情を、授業中に語ることができれば、今回のスピーチコンテストの作文でも参考になったはずである。
この頃、中国各地のスピーチコンテストで、中国社会の現状を反映するかのような類似のテーマが多いように、私は思う。これも後年のことだが、上海の大学で、上海市内の大学対抗スピーチコンテストがあった。大学の代表者が『環境と調和した経済発展とは?』といったテーマでスピーチをすることになった。その女学生を指導した私は、安易なバラ色の論調を批判して、改作を数度要求した。が、発表者は最後に、ほとほと困りはてたあげくにいった。
「わたし、先生が望むようなアイディアが考えつきませんから、発表できません」
と、まるで、発表を投げ出すような態度だった。
翌日、教務主任がいった。
「先生、あまり学生を苦しめないで下さいね。ほどほどの内容でいいじゃありませんか」
教務主任は発表草稿の指導を日本人教師に任せきりである。それでいて、大会で好成績を挙げれば自分の手柄になると甘いことを考えているのだ。
彼女の発表内容には不満があったが、そのまま大会で発表させた。やはり予想どおり、上位入賞に届かなかった。大会で上位入賞した女学生のスピーチの論調は以下のようなものだった。
「森の熊さん、ポンポコ山のタヌキさん、ウサギさん、キツネさん、みんな何処へいったの? 宅地開発って、いけないわね・・・・・・」
内容は適度にうまくまとめていればいいのであって、あとは、美しい発音ができて、表現力豊かな“話し上手”が好成績をおさめていると言った感じだった。スピーチコンテストがそんな程度でいいのだろうか、と私は思った。
全国の学生が競いあう『中華杯全国日本語スピーチコンテスト』では、発表態度・発音などに加えて、内容豊な発表を期待したいのだ。
後日、私は華東地区大会に審査委員として招待されており、我が校の代表陳とともに、会場である上海へと向かった。
この大会では、二種類の発表を義務づけられており、その総合点で競い合うことになっている。
1 午前の部(テーマ発表)――あらかじめ準備した、『私達でもできる環境対策』または『日本に紹介したい中国文化』を発表する(発表時間5分、採点60点)
2 午後の部(即席発表)――『私の好きな本』『一番案内したい所』『十年後の私の夢』『水の大切さ』の中から、くじ引きで選び、10分間の準備後に発表する(発表時間3分、採点40)。
●『私達でも出来る環境対策』
で秀作
華東地区大会のテーマ発表で、『私達でも出来る環境対策』を扱った発表者は21名中わずかに5名と少なかった。やはりこのテーマで魅力ある発表をすることが難しかったからだろう。
『私達でも出来る環境対策』を発表した5名の中で、『乾電池のリサイクル』という題の優れた発表があったので、以下に要約して紹介する。
――私は日本人観光客の老婆から「乾電池の廃棄ゴミ箱はどこか」と聞かれて、「普通のゴミ箱に捨てたら」と答えてしまった。老婆が「では、使用済み乾電池は日本に持ち帰る」と言ったので、驚くと同時に、日本人の環境保護対策の徹底ぶりに興味がそそられた。インターネットで調べると、一個の乾電池は、人間一人が一生飲む水の量を汚染することが分かった。これは大変だと思った私は、宿舎に乾電池回収用の箱を置き、学友に協力を呼びかけた。数ヵ月後、溜まった乾電池を処理してくれる会社を探し出して、出かけた。
従業員が喜んで、工場の中に案内してくれた。持参した乾電池が巨大なリサイクル装置に入れられた瞬間、私は思わず感動して涙がこぼれ落ちるほどだった(発表者はここだけ感情の高揚を示しており、微笑ましいと私は感じた)。見ていると、再処理装置から水銀が回収されて研究用に再利用されることも知った。
このことを学友に伝えてから、協力者がいっそう増えて勇気百倍、このリサイクル運動は学内に広がっている。こうして始まった私のささやかな行動は、もう二年も続いている。
この発表は私だけでなく審査委員全員の評点も最高点だった。この蘇州大学の女学生は総合点で二位(テーマ発表で1位、即席発表で11位)で『特等賞』を受賞し、日本行きの航空券を手にした。
この発表はスピーチコンテストで魅力ある発表をするための好例で、私は大学へ帰ってから、さっそく学生にも紹介した。
この発表と師範大の予選大会での発表を比べたときに、スピーチコンテストの発表は如何にあるべきかが見えてくるように思う。私はそのポイントを以下のように整理し、学生につたえた。
1 実体験を語る
「事実は小説より奇なり」と言われている。実体験からにじみ出た発表ほど説得力のあるものはない。とはいえ、このテーマで、師範大の予選大会で発表者が話した程度の実体験ーー部屋を出るときには電灯スイッチを切って節電しよう。割り箸・ポリ袋などの使い捨て用品は使わないようにしようーーなどでは、個性やユニークさが足らなくて、聴衆を納得させるに足る魅力ある内容にはならないのだ。
2 評論家的態度やベキ論はしない
スピーチコンテストは自分の主張や行動を聴衆に聴いていただくという謙虚な姿勢が大切である。自分が実行していないのに、人に「~べきだ」などと偉そうなことを話しても説得力がない。
3 スピーチの山をつくれ
全体としてはやや抑えめに語り、一箇所伝えたい山場ではトーンを挙げて話すと、聴衆には強い印象を与える。メリハリのある発表が大切である。
4 結論で大言壮語やきれい事を言わない
内容が空虚で発表内容に自信がない人ほど最後を立派に飾ろうとする。が、聴衆やとりわけ審査委員はそんなことに騙されないし、かえって底の浅い発表だと悪印象を与えてしまう。
5 余技は見せない
話に入る前に踊りを見せたり、勝手に演壇を離れて話したり、最後に拳をあげて「一緒に頑張りましょう!」などはバカのやること。
6 文学少女的表現は無用、月並みな表現も無用
「日中は一衣帯水の関係」や「光陰矢の如し」などの手垢にまみれた表現はしない。
(上)これらは過去のスピーチコンテストで見た好ましくない例である。
(右)江西師範大の代表者陳亜雪が二等賞を受賞した。
上の『乾電池のリサイクル』の発表は、これらの要件を全て満たしている、優れた発表と高く評価したい。ただし、このような発表は語るに足る実体験がなければできるものではない。それが無い人は、このテーマを選ぶべきでない。
なお、師範大の代表陳亜雪は、午前の部の課題スピーチ『日本に紹介したい中国文化』では、不本意ながら中位に甘んじたが、午後の即席発表で健闘し、総合点で21名中5位となり、二等賞を受賞した。これは、過去の師範大学の発表者の中で最高の成績だった。私はご褒美として、同時期に開催されていた『上海万博』に彼女を連れて行った。更に、スピーチ会場で陳の発表を聞いていた広島大学客員教授の目にとまり、彼女は広大大学院へ留学するチャンスを得た。このように、師範大にとっては、華東地区大会は稔り多いものとなった。
B 読書感想文を通じて分かる学生の問題意識
私が赴任した五番目の大学『昆明彩雲大学』で4年生の『日本文学鑑賞』の授業を担当した。有島武郎の『小さき者へ』と芥川龍之介の『羅生門』『蜘蛛の糸』などを題材にして感想文を書かせた。
『小さき者へ』は、全文を学生に配布して予習させ、授業では六回に分けて、毎週俳優のナレーションを聴かせたあと、学生に朗読させたり、内容の質問、ディスカッションをした。そして最後に感想文を書かせるなど多角的授業をした。
一方、『羅生門』と『蜘蛛の糸』は、YouTubeからダウンロードした動画や静止画を見せた後に、その感想文を書かせた。
『羅生門』の感想文を書かせたとき、奇妙な感想を書いた学生がいた。文中に黒澤明監督や三船敏郎のことまで書いてあった。黒澤明監督の『羅生門』を知っている人ならすぐ分かることだが、ヴェネチア映画祭で金獅子賞を受賞した映画『羅生門』は芥川の『藪の中』を映画化したものだ。ただし、題名を『羅生門』としているのだ。
そんなことを知らないこの学生は、私が見せた動画の内容がよく理解できなかったらしく、携帯電話で映画『羅生門』を検索して、得られた情報を感想文に盛り込んだからこんな誤解をしてしまったのだろう。聴き取り能力不足に不正行為の上塗りまでしてしまった愚かな感想文である。
この感想文を書かせたときには、辞書の持ち込みと辞書機能のある携帯電話の使用を許可したのだ。しかし、これは私にはいい情報になった。最近の多機能携帯電話(iPhoneやスマホなど)は、あらゆる情報もたちどころに収集できる。テストに悪用すると不正行為が容易にできるので、試験をする私には脅威となることが分かったのだ。それ以後、私は携帯電話の持ち込みを厳禁にした。
ここから、芥川の短編小説『蜘蛛の糸』の感想文の話題に入る。
お釈迦様が地獄の罪人カンダタを救おうとして、彼のもとに天国から蜘蛛の糸を垂れた。彼はそれにすがって天国へ登ったが、途中でふと下を眺めると、多数の地獄の罪人共も蜘蛛の糸を伝ってくることに気付いて驚く。自分だけが助かろうとするカンダタのエゴイズムがあだとなり、糸が切れて地獄に逆戻りした。お釈迦様はそれを見て、カンダタの浅ましい心根を嘆いて物語が終る。
授業では、この小説の絵図をパワーポイントで見せながら、俳優の朗読を聞かせた。そしてその後で、学生に感想文を書かせる。
約40人の学生が書いた感想文はどれもこれも似たような内容で、個性に乏しかった。
――人は助け合わなければならないのに、自分一人だけ助かろうとするカンダタの態度は許せない。地獄に堕ちて当然だ!
と、ほとんどがこのような感想を書いているのだ。たとえ少なくても、この物語に疑問を抱く学生のいることを期待したのだが。つまり、学生はその筋を追うことだけに終始して、小説を批判的に見る視点がまったく欠けているのだ。
そこで私は、次週の授業で、学生に次のような経験談を紹介した。
――私は夜中に消防自動車のサイレンの音で目を覚ました。どこかの家が火事なのです。サイレンの音が徐々に大きくなり、我が家の方に近づいて来ることがわかり、私には不安が高まりました。が、やがてその音は小さくなっていった。消防自動車が遠くの方へ行ってしまったのを知り、私は安心して深い眠りに落ちました。
だが皆さん、考えてみてください。
火事が我が家の近くでなかったのはよかった。もし、我が家の隣の家が焼けていたら大変なことになったでしょう。そうではなくて、私は安心して眠りに就くことができましたが、しかし皆さん、遠くのどこかの家が燃えているのです。人間は、「自分が安全か、他人が安全か」の二者択一に迫られるような極限状態にあるときには、自分のことしか考えないものです。そこが神仏ならぬ人間の浅ましくも悲しいところです。人間はエゴの固まりのような存在なのです。
『蜘蛛の糸』について、もう一度振り返ってみましょう。次の三点を考えてみてください。
●一人だけでも切れてしまいそうな細い糸に大勢の罪人がぶら下がっている。そんな極限状態のときに、カンダタが、自分一人だけ助かろうとした。それは許されるのか、許されないのか?
●全知全能のお釈迦様は、カンダタが遭遇するであろう状況、つまり、彼がエゴイストになって罪人に蜘蛛の糸から下りろおりろと叫ぶこと、を予測できないはずがない。すると、お釈迦様はカンダタに何を期待したのか? お釈迦様は思慮深いと言えるのか? あるいは別のお考えがあったのか?
●カンダタだけでなく他の罪人たちも地獄から一緒に天国へ登るための何かうまい方法があるのか? 皆が全員助かることのできる方法があれば提示しなさい。
この小説に対しては、いろいろな受け止め方があるはずです。自分がカンダタの立場に置かれたつもりになって、もう一度、感想文を書いてください。
学生の二回目の作文では、掌を返したように、カンダタの行為はやむを得ない、お釈迦様の配慮が足らない、などの感想文ばかりだった。例外は、代案をだして、皆が助かる方法を工夫した作文と、節を曲げずに、やはりカンダタの行為は許せないと書いた作文、以上、40人中二作だけだった。
なるほど、小説を批判的に読んだり、より深く洞察したりするような読み方を指導したいと思う私の教育的成果は、二度目の感想文であったように思う。しかし、こうも易々と教師に迎合して、教師が望むように宗旨替えした作文ばかりを読まされると、学生の態度がこれでいいのだろうか、そして教師はそれに満足していていいのだろうか、と思わざるを得ないのだ。
授業の後に、二、三の学生と話し合った。
彼らはいった。
「小・中・高時代に学校で、自分のオピニオンを持ち、主張するような教育を受けたことがありません」
この授業をしていた10月頃に、莫言氏が中国初のノーベル文学賞を受賞するニュースがあった。莫氏は村上春樹に競り勝ったらしい。しかし、そんなことは私にはどうでもいいことで、授業のはじめに、学生にこう伝えた。
「莫氏の受賞は素晴らしいことです。皆さんおめでとう」
そのすぐ後に、京大の山中伸也教授がノーベル生理学・医学賞を受賞した。日本のノーベル受賞者は彼で15人目であったが、中国でノーベル賞受賞者は莫氏だけである。
年初に日本の友人から新聞記事が送られてきた。
(ヘッドライン)理系のノーベル賞 中国熱望
(小見出し)詰め込み教育見直し論
(2012年12月30日付け日本経済新聞・地球回覧)
記事の要点をピックアップすると以下のようであった。
理系のノーベル受賞者がなぜ中国にいないのか。
企業関係者に多いのが、中国では知識を詰め込むだけで、考える力を養えない教育が最大の原因という見方である。
小学校であったとされる『シンデレラ姫の物語』にまつわる授業の一幕が以下のように紹介されている。
お城に残された水晶の靴にシンデレラの足がぴったりと合い、王子と結ばれる。童話の『シンデレラ姫物語』を語り終えた教師に児童がたずねた。
「ドレスも靴も魔法でしょう。どうして靴だけ消えずに残ったの?」
児童の鋭い質問に怒った教師は言った。
「教科書に書いてある通りに覚えればいいんだ」
ーーこの授業が中国の教育の典型例。想像力を押しつぶしている。
と、広東省深圳市の国立大学、南方科技大学の朱清時校長(66)は手厳しい。
上の新聞記事にあるように、いい大学に合格するために「知識偏重で、主体的に考える力を養おうとしない教育」の弊害が学生の感想文からもうかがえるのだ。
4年生といえば、まもなく就職活動そして社会の荒波に飛び込んでいかなければならないのだから、しっかりとした自我を持ち、自分独自の思想を持たなければならない。ノーベル賞のような高度に創造的な学者の卵を育てるのとは違うが、一般の大学生であってもこのような教育の弊害が見られるのは大いに問題である。