私は、この年、師範大学で三年生の作文授業を担当していた。6年間の中国での教育の中で、最初の赴任地長安大学時代以来、延べ4年間も作文授業の経験がある。
このときの作文授業では、文法・語彙・表現などの基礎的日本語能力の向上により、正しい日本語の文章が書けることを目指し、後期作文授業(4年生前期)での『内容重視』の作文指導へつなげたいと考えていた。
A カンニング発覚
既に、春節休み中に自習させるために配布した宿題について、新学期早々にその理解度テストを実施した。次に中間テストを実施したところ、“不正行為”が発覚した。
テスト中のカンニング防止のために、学生との間に空席を置いたり、筆記用具以外はカバンに入れて教室の前に置くように指示している。しかし、携帯電話やカンニング・ペーパーをポケットに隠し持っていても、男の私には大多数の女学生に対してボディチェックができない。最近の携帯電話はあらゆる情報を入手できる多機能型なので、テストをする私には脅威である。今回のテストでは論文記述方式にしたので、私は回答用紙を個々の学生ごとに注意深くチェックしながら採点しているうちに、カンニングを疑わせる学生を発見した。
最も悪質な不正行為は、男女二名の回答用紙が完全に一致しており、筆跡は女手によるものであった。優秀な女学生ができの悪い男子学生のために答案を丸ごと書いてやったことは明かである。じつは、2ヵ月前のテストでもその2人は高得点であった。できの悪い男子学生がなぜこんなに良い成績なのか疑問であったが、そのからくりが今回わかったわけだ。なお、2人は近くに座っていた。
もう一組の不正を疑わせる行為は、3人の学生の回答が数行にわたって、酷似していたことだ。 私は、試みに3人の中で一番真面目そうな女学生を我が宿舎に呼び出した。
「私は教務主任に報告するようなことはしないで、穏便にすませたいと思っているから、素直に白状しなさい」
こう言ったら、簡単に堕ちた。手口は簡単で、座席の前後にいる男女二人から頼まれて、机の下から答案用紙を渡したという。
中国の大学は全寮制で学生同士が毎日顔を合わせて生活しているから、人間関係が濃密である。だから、日頃親しくしている学友に頼まれると断りにくいのだろう。こんな調子だから、あのテスト中には、他にもカンニングがあったのだろう、と私は想像した。
私は、3人については不問にし、悪質な男女2人だけを教務主任に報告して、作文授業の単位を与えないことと、以後の授業への出席を認めないことを提案した。中国人教師は学生のこの種の行為には慣れっこになっているだろうから、教務主任が私の厳しい制裁措置をあっさりと受け入れたのを、かえって驚いたくらいだ。
テストでの不正行為は、不正をおこなう者とそれを助ける者との協力関係によって成立している場合が殆どである。だから、両者を等しく厳罰に処する必要があり、そうすることによって、不正行為の協力者も自分に迷惑が及ぶことを恐れて協力できにくい状況を作る必要がある。つまり、双方への等しい厳罰が不正行為への強力な“抑止力”となるだろう。私は中国へ来た当初はそんな楽観的なことを考えていた。
しかし、そんな私をあざ笑うかのように、中国の学生の不正行為は頻発している。中国の他大学で教職に就いている日本人教師と話しても、同様であり、悪質でない限り大目に見てやらざるを得ないようだ。いや、厳しくしようにも日本人教師だけでは物理的に困難なのだ。そんな限界を感じている日本人教師は、優秀な学生が回りの学友のために、ちょっとだけ友情という恵み(?)をあたえてやっているのを眺めながら、微笑んでいることもあるのだ。
しかし、最も重要なことは、学生がテストでの不正行為に対して罪悪感をまったく抱いていないらしいことだ。それは、何によるものだろうか?
B 中国の学生はなぜ不正行為をやるのか?
前任の無錫の短大でも、学生がカンニングをしており、しかも班長が率先してやっていたことに、私はまったく気付いていなかった。班長(学年代表者である女学生)は学生のまとめ役であり、教師との橋渡しをする役目がある。だから、私と深い付き合いがあり、信頼関係ができあがっている仲だったのだ。その彼女がカンニングをしていたのだから、私にはこれをどう考えていいのか理解に苦しんだ。
なぜ、中国の学生はいとも簡単に、しかも無反省にカンニングをするのだろうか? 日本の学生にもカンニングはある。しかし、中国の学生がカン二ングをする裏に中国特有の何かがあるのではないか?
私はそれが知りたかったので、師範大に在籍中に折りに触れて、学生の意見を訊いてみた。以下は、私が知り得た学生からの生の声である。
現代中国の学生の気風を代表的に表している女学生がいった。
――わたしは日本語を勉強したくて日本語科に進学したので、日本語に無関係な『政治学』なんてぜんぜん興味がない。毛沢東がどうだ、鄧小平がどうだ、なんて、知ったことじゃないでしょう。なのに、政治学は必修科目だから、テストに合格して単位を取らなければなりません。テストでは、他の学院の学生と一緒になることがあります。彼らは、カンニングをやりたい放題でしたし、監視役の先生も見て見ぬふりをしています。それなら、わたしだってカンニングしてやろうと思うじゃないですか! 先生、私はもともと真面目な学生だったのですよ。だいたい、日本語科の学生がカンニングに手を染めはじめるのは、政治学の授業を受けたころからなのです。
言い訳がましいことを言っているこの女学生は、現代中国人学生のノンポリぶりを象徴的に示している。私が学生であった半世紀前には、自分の専門である薬学の授業より、選択教養科目である政治学の方によほど興味が湧いたものだ。ここ共産主義国中国では『政治学』を必修科目にして、建国の理念を教えようとする建前が厳然として存在している。が、そんなことに無関心な学生から敬遠されているだけでなく、改革開放路線に舵を切った鄧小平ですら既に過去の人となっているのだろう。いずれにしても、国家の指導者が、国の理念と人民の生き方の基本としてもっとも大切と考えて、『政治学』を必修科目にしているにも関わらず、それが不正行為の温床になっているとは、皮肉なことではないか。
次に、聞いた学生は官僚や公務員の堕落を指摘している。
――私の故郷の小都市に市庁の高官がいて、ドラ息子が高校受験をすることになりました。高官が教育委員会に頼んだらしく、試験場でドラ息子の前の席に優秀な生徒が座っていました。もちろん、ドラ息子は高校に合格しました。こんなこと、私たち学生の間では公然の秘密なんですよ。
こう話す学生は、父親が一介の労働者で、貧しい庶民の子である。金も地位も無い両親は、我が子を大学に入れることに一家の命運を賭けるしかないのだろう。しかも、そんな子は自分の努力で道を切り開いていくしかないのだ。彼ら庶民たちから見ると、官僚たちの勝手気ままは許し難いことであろうが、どうしようもないのである。
国立大学でもあり得る話を、ある学生が語ってくれた。
――英語科に私の友人がいます。彼女は大学合格の点数が足らなかったので、お金を払って入学したと、本人が私に話していました。
私立大学なら、日本にもよくあることだ。だが、国立大学でもそんなことがあるとは信じがたいのだ。私は驚きながらも、学生が入学のために支払ったお金がボス教授のポケットに入ることなく、大学の公金として有効に使われることを祈るのみである。
夢のような椿事が起こった高校での話をある学生が語ってくれた。
――私が通っていた故郷の高校で、ある年に『北京大学』に合格した生徒が出ました。すると、校舎の壁に『祝う!○○君北京大学合格』って、横断幕が掲げられました。
高校野球の甲子園大会出場が決まった高校の建物の正面にでかでかと横断幕が翻っている様を、私は想像した。日本の東大に相当する北京大学に入学することは、地方の子供や教育関係者にとって、夢のような椿事らしい。ところが、中国の大学入学制度にはからくり、つまり、地元の子を優先的に入学させる制度がある。同じ学力の子が国立大学北京大を目指しても、北京市民の子弟は合格して、一方他省の子は不合格ということがあるらしい。師範大学の教師から聞いたことがある。師範大学でトップの成績で入学した学生の学力は、北京大学に最低点で合格した学生の学力より劣っていないと。
広大な中国にあって、沿海地方の発展した都市と発展に取り残された地方都市との間に経済や教育環境など様々な格差があれば、それを克服するために、以下のような不正行為も発生する。
ーー2006年にある地方都市の大学入学共通試験で集団カンニングがあった。これをCCTV(中国中央テレビ局)が暴いたので、中国中を驚かす事件に発展した。市庁の役員が首謀者で、その市の多くの受験生がこの事件に関与したということである。北京政府が事件の首謀者を懲罰したという。
以上のように、大小様々な教育界における不正や不平等、胡散臭い行為を私は聞いた。学生がこれらを折りに触れて見聞きしているのだから、学校のテストでカンニングをしても、芥子粒ほどの罪悪感すら抱かないのは当然と言えるだろう。中国社会のモラルの低さが学生に悪影響を及ぼしているように、私には思えるのだ。
このような中国における大学受験生とそれを取り巻く教育界の最大の問題点は、大学受験が異常に厳しいからである。このことを日本の新聞でも報じているので興味のある方はここをクリック。